かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・秋葉神社

2023-02-22 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/04/26•更新日:2023/02/22

前回からの続き…

◆小さな秋葉神社

春日部駅西口の南側300メートル程の地下道入り口のすぐ前にある神社が「秋葉神社」(秋葉社)です。   

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地下道の前に

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秋葉神社の正面 小さな神社です。

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説明板

秋葉社の由緒

 

 この神社は、秋葉社(あきばさま)と申し、火の神さま(かぐつちのかみ)と、水の神さま(みつはのめのかみ)の二神(ふたはしら)をお祀りしてあります。

 

 火の神さまは、わたくしたちに、火をわけてくださるために、いつもこれを護っていらせられますが、この神恩(おかげ)を忘れて、大切に取扱わないときは、神さまの御心(みこころ)にそむきますから、消えたり、または、禍(わざわい)と変わって火事をまねきます。

不要(いらない)(※ママ)火は、神さまへお返しするという心がけをもてば災難は起りません。

 

 水の神さまは、わたくしたちの生命を、つなぐ水を護っていらせられ、雨を降らせて、水の源(みなもと)をつくり、また田畑を潤して作物のみのりを与えてくださるのです。

 この神社は、むかし、粕壁宿の名主、多田次郎兵衛(ただらじろべえ)が、おまつりしたものですが、たいへん御利益があるというので、多くの人が人防神(ひぶせのかみ)として参拝し神恩に感謝しております。

 

かぐつちの  神のいかりの  しづめとや

   

あきはのもりに  雨は降るらん

  

明治十七年社殿再建記念 春日部 考純

 例祭 夏季    四月 第二 日曜日

    秋季 十二月 第二 日曜日

 

 平成十二年三月吉日 富士見町会 

※印の箇所の不要「は」は文脈的に「な」の誤記載でしょうか。いろいろな案内板を見ますが、お書きなった人も案内板を読む人も案外気がつかないものですね。

◆ご祭神・由緒・沿革

郷土史家の須賀芳郎氏によれば、

秋葉神社【中央一丁目】

ご祭神は

火産霊命(ほむすびのみこと)

由緒・沿革

鎮座年月日は不詳。古来よりこの地に鎮座し、火防の神として広く崇敬されている。
口碑によると、或る年の十二月、北西の風が強く吹く夜のこと、粕壁宿の名主多田次郎兵衛の邸内の裏手【多田家の屋敷は日光街道から現在の春日部駅西口広場あたり迄の広大な屋敷であった。】に何物かが落下した凄い地響きがあった。家人が驚いて飛び出して見ると、六尺余りの大槍を携えた一人の六部【修験者】が立って居た。次郎兵衛は驚き騒ぐ家人を制止して、六部を客間に招じて丁寧にもてなした。数日後、六部は笈の中から一個の包みを取り出して次郎兵衛に与えると、別れを告げ風のように消え去った。次郎兵衛が何気なくこの包みを解いてみると、中から現れたのは、秋葉権現の御神体であった。次郎兵衛はさては今の六部は秋葉山からの使者か、または秋葉権現の化身に違いないと怖れて、六部の降り立った場所に祠を建てた。これが当秋葉神社であると伝えられている。

史料の『新編武蔵風土記稿』・『武蔵国郡村誌』には、その記載がない。

この神社は、元は春日部駅西口左手の銀杏の木がある場所に鎮座していたが、西口区画整理事業によって現在地に移転した。

境内内の石碑

社前に奉納記念碑がある。

碑文はつぎのとおり。 

かぐつちの  神のいかりの  しずめとや

   あきはの森に  雨は降るらん

 

明治十七年三月 春日部孝純

【春日部孝純とは、元粕壁宿名主で初代粕壁町長多田亀十郎】

(引用:ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎/著 1996年)

なお、多田次郎兵衛は、江戸末期、幕末時の粕壁宿名主であった関根(明治期に改姓)次郎兵衛孝凞(安政四年五月二十一日没七十五歳)のこと。孝純氏は、次郎兵衛の子。 

境内

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入り口にある手水舎
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手水舎の側面には『上町  仲町  山中』と旧町名が刻まれています。神社がある所も粕壁の宿内だったことが分かります。

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「秋葉社々務所増築記念石碑」(昭和50年10月建立)「昭和45年10月18日 都市計画法に基づき春日部駅前西口よりこの地に遷宮」と刻まれています。

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「鳥居建設記念碑」(大正11年1月12日建立)

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文字は読めません。神社の由緒などが刻まれている石碑ではないようです。



秋葉神社跡地の夫婦松

 前回に続き「秋葉神社」のことを書いてきました。多田家が、個人的に、祠を建てて火防の神を祀ったと言うことから、いかに火事を恐れていたかがよく分かります。宿場全体の安全を祈っていたのだと思います。

 

終わり

 

【秋葉神社】

 

 

 

 

 


日光道中粕壁宿・秋葉神社跡の夫婦松

2023-02-18 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/04/24・2023/02/18

◆秋葉神社の夫婦松

 春日部駅西口にも歴史を感じられる場所があります。 

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 現在の「秋葉神社」は、春日部駅西口の南の地下道脇に鎮座していますが、もともとは春日部駅西口のすぐ近くにありました。

 そして、その「秋葉神社」があった跡地には、ご神木のイチョウの木が残っています。

 そのイチョウと松の木は、「秋葉神社の夫婦松」として市民にも親しまれています。

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右は松の木、左はイチョウの木 

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左側は松の根元 右側はイチヨウの根元
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左側はイチョウの根元 右側は松の根元

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上の方は別々の木

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石碑

秋葉神社の夫婦松 

 

天然記念物 

  昭和63年7月25日 市指定

 

 秋葉信仰は、江戸時代の中頃、三河(現在の愛知県)の三尺坊という修験者が呪術により火災の厄を払ったことに始まり、その後、全国的な流行となったものといわれ、

秋葉社は火防の神として現在でも多くの信仰を集めています。この秋葉神社は、江戸時代に粕壁宿の名主多田次郎兵衛が個人的に祠を建てて祀ったものといわれていますが、東武鉄道の敷設により敷地が分断され、後に区画整理によって、神社は春日部駅南側の地下道横に移転し、神木としてのイチョウだけがそのままの姿で残されたものです。

 このイチョウのうち南側の1本は、松が根元で一緒になっており、地上1メートルほどの所からそれぞれ分岐し別々の木となっています。その姿の珍しいことから、秋葉神社の夫婦松とも呼ばれ親しまれています。この夫婦松は、形姿上、植物学上貴重であり、昭和63年7月25日春日部市指定天然記念物に指定されました。 

 

平成元年3月 

春日部市教育委員会 

   春日部市文化財

 調査委員会

 この案内碑は、光線の具合でとても読みにくいですが、読める時に数行ずつ読み、なんとか文章にしました。

 イチョウはご神木なのに、夫婦銀杏(イチョウ)ではなく、あくまでも「夫婦松」なんですね。 

多田家

 それにしても、多田家の敷地は相当広く西口駅前ロータリー付近まであったそうです。つまり自分の敷地に東武鉄道が通ったと言うことですね。

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かすかべ大通りの「仲町郵便局」付近に多田名主の屋敷がありました。(郷土資料館のジオラマ、許可を得て撮影、少しピンボケでした。)

秋葉の火祭り

秋葉の火祭りいえば、のちに街道一の大親分となるあの清水次郎長が、遠州の大親分黒駒勝蔵を相手に秋葉の火祭りの夜に大暴れして、見事喧嘩に勝ち、めでたく清水一家が誕生するという広沢虎造師(二代目)の浪曲で、子どもの頃ラジオでよく聴いていました。

参考までに、秋葉神社のホームページは、こちら

↓↓

秋葉山本宮秋葉神社

鉄道高架事業で

 ところで、ふと思ったのですが、現在鉄道高架事業が始まっています。鉄道が高架になると、恐らく駅舎も変わり、この夫婦松は一体どうなるのでしようか? 

  工事は徐々に進んでいますので結構気になります。まさか、切られることはありませんよね。これからも見守っていきたいと思います。


【秋葉神社の夫婦松】

現在の「秋葉神社」については次回に。

次回に続く…


かすかべのあま〜い生活・・・

2023-02-14 19:30:00 | 地域発信情報
 今月2月4日、民放地上波テレビ東京で
 この番組、昔、キンキンこと愛川欽也さんがMCの頃は良く視ましたが、お亡くなりになってからはこの番組を視尊人はありません。イノッチこと井ノ原快彦さんごめんなさい。

でも今回はかすかべのお店が数店、紹介されるとのことで、録画までして視ました。

特に、カリスマパティシエのいるお店は

↓↓

カリスマパティシエ|2023年2月 4日|出没!アド街ック天国:テレビ東京

埼玉の洋菓子は、敏腕シェフたちのおかげでハイレベル。【アングランパ】フランスの伝統菓子を手がけるパティスリー。名店「オーボン ヴュータン」で修業したシェフパテ...

テレビ東京

 

 記事にあるように、『菓子工房 オークウッド』さんは、洋菓子の名店。オーナーの横田さんはパティシエのワールドカップと言われる大会に日本代表として出場、国から現代の名工にも選ばれた、まさしくカリスマパティシエ。春日部が誇る洋菓子店と言っても良いでしょう。

場所は、旧倉松公園の川を挟んで反対側



右は旧倉松公園 左は『オークウッド』


駐車場、空いているな?


オシャレな建物


嫌に空いているなと思ったら、それもそのはず、水曜日はお休みなのでした。トホホ。
 
 場所が分かりましたので、一度行ってみたいと思っています。

 なお、6位の『みどりスーパー』さんの生クリームたっぷりの「プリンパン」が紹介されましたが、場所がわからず、今回はスルーしました。

 終わり

日光道中粕壁宿・幻の「梅田牛蒡」

2023-02-10 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/09/16・公開日:2023/02/10

 女體神社の鳥居の脇にある門柱(社号標)の側に細い石碑が建っています。

◆大正天皇即位に伴う大嘗祭御用達記念石碑

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左端にひっそりと建っています

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大嘗祭御用梅田牛蒡御買上記念

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大正四年十一月十四日

 この石碑は、大正天皇の即位に伴う大嘗祭に、当地で採れた牛蒡(ごぼう)がお買上になった「記念碑」です。

えっ!なんで“ごぼう”なの?と思いますよね。

 実は、神社入口の説明板にもあるように、江戸時代から当地梅田は“ごぼう”の産地でした。江戸時代の料理本にも「梅田ごぼう」の名が載っていたそうです。

◆梅田ごぼう

『春日部市史』によると

〜略〜『武蔵国郡村史』梅田村の項には、物産として米・大麦・大豆と並んで「牛房千五百本、牛房は、岩槻町に販く、多分の産出なしと雖も其名近郷に著し」と、ごぼうが梅田村の特産物であることが記されている。

 

 梅田村の地味は「色黃赤真土(まつち)にして砂を交へ、稲麦茶に適せずして」(『武蔵国郡村史』)というもので古利根川と古隅田川に挟まれた水はけのいい砂混じりの耕地がごぼうの栽培に適していたのであろう。 

 

 梅田二丁目の金子家は、江戸時代にごぼうの品種改良に成功して「梅田ごぼう」の名を世に送ったことで知られ代々種子の栽培が専業であったことから「種親」と呼ばれてきたという。梅田ごぼうは通常直径五〜六㌢ぐらいの太い品種で、芯がなく、中身は裂けていないが適当に鬚(す)が入っているものが上等とされ、千葉の大浦(晩生種)、京都の白河(早生種)、梅田(中生種)、それに細身の滝川・砂川などが優良品種といわれる。

 

 明治十年に新政府が殖産興業のために催した第一回内国勧業博覧会には、梅田村の清水弥藤次が特産品としてごぼうを出品しているが、梅田ごぼうは明治時代になると宮内省大膳寮にも納入されるようになり、現在、梅田東の女体神社入口には梅田ごぼう宮内省お買上げの記念碑が建立されている。

(『春日部市史/第六巻/通史編Ⅰ』近世/第六章/貨幣経済の浸透と商品生産/第二節/商品作物の生産/梅田ごぼう)

また、郷土史家の須賀芳郎氏は、

梅田ごぼうの栽培についての資料となる文献がないので定かでありませんが、古老の話を総合すると江戸時代の中頃には栽培されていたといわれています

梅田ごぼうの適地は、おおむね梅田東耕地が多く、特に春日部工業高校附近が適地で、最盛期には五町歩位の栽培面積があったといわれ、また十六号バイパス際の雷電神社附近でも戦後まで栽培されていました。
 江戸時代には、梅田ごぼうは主として岩槻・幸手宿に出荷され粕壁宿には安値のため余り出荷されず、特に幸手宿に多く出荷されていました。それは、幸手宿から江戸川を経由して江戸府内に回そうされていたからです。明治時代になってから、宮内省大膳寮に納入され、昭和初期まで続きました。
 さらに、鉄道の発達により関西方面へも出荷するようになり、京都の円山公園内の高級料亭へも納品されたといわれています。
 現在、梅田二丁目に梅田ごぼうの「種親」と呼ばれる金子家(当主は金子堅太郎氏)があり、江戸時代「ごぼう」の品種改良に成功して一躍「梅田ごぼう」を世におくった方で、代々種子の栽培が専業であったところから、「種親」といわれていました。
 金子家では、大正8年頃まで「種親」の営業を続け、また金子堅太郎氏は、昭和8年頃までごぼうの種子作りをしていました。
 金子氏の話では、戦後、宮内省の御用商人が金子家を訪れ「梅田ごぼう」を調査し、畑に栽培してあった「ごぼう」を見分け長さが30㌢位で太さが変化していない部分を掘りあげ、長さと太さが一定しているものを買い取って行ったことがあり、相場も市価の三倍ぐらいになったといわれています。「梅田ごぼう」の産地も、開発が盛んになり、その名残りもなくなってしまい、現在は、梅田東の女体神社入口際に「梅田ごぼう」宮内省お買い上げの記念碑が建立されています。

(ふるさと春日部『かすかべの歴史余話/梅田ごぼう』須賀芳郎/著 1977年~)

と書いています。

◆京都の高級料亭に、さらに宮中へ

 このように、当地から出荷される太くて味の良い『梅田牛蒡』は当時、日本一と称され、京都の円山公園にある『芋蒡』という高級料亭にも直送納入されていたと言われています。その関係からでしょうか、明治時代から昭和初期頃まで、宮内省大膳寮に納入されていました。

『芋蒡』(いもぼう)とは、「平野家本家」なのでしようか?

 京都・円山公園内知恩院に近い「平野屋本家」は、新島 襄と妻八重が両親と伴に家族写真を撮った後に会食したと言われる店で、「いもぼう」で知られています。

 ↓↓ 

 京都 円山公園|京名物古都の味「いもぼう」平野家本店

因みに、

牛蒡(ごぼう)

 牛蒡を食用とする国は、日本と韓国と台湾だけだそうです。原産地の中国大陸やヨーロッパでは牛蒡は薬であり、食材として認識されてはいないそうです。古くは縄文~平安時代の間に漢方薬として伝わった牛蒡を、我が国が独自に食用として栽培を始め、江戸時代には全国で作られ、常食されるようになったと言われています。

日本のごぼうの産地(品種)

異論もあると思いますが、まとめると、

  • 滝野川牛蒡:長さ約1メートル、直径2~3センチ。長根ごぼうの代表品種。江戸初期から東京の滝野川付近で栽培され、現在の主流。
  • 堀川牛蒡:京都堀川で滝野川系ごぼうを特殊栽培。長さ約50センチ、直径6~9センチ。中に空洞があり、栽培に手間がかかるので、高価。
  • 梅田牛蒡:埼玉県などでわずかに栽培されている、太い品種。皮がゴツゴツしているが、肉質は柔らかく、香りがあって味が良い。ほとんど出回っていない幻のごぼう。
  • 大浦牛蒡:直径約10cmで、大きいものは4kgにもなる品種。中に空洞があり、断面は偏平で詰め物にする。千葉県八日市場市大浦で、成田山新勝寺献上用の契約栽培としてわずかに栽培されており、市場には出回っていない。梅田ごぼうは、品種的には大浦系と言われている。

梅田ごぼうについては画像がありませんが、大浦ごぼうについては、こちらのサイトをどうぞ。大浦系と言われる梅田ごぼうもこんな感じだったのでしょうか?

↓↓

◆大嘗祭

 大嘗祭(おおにえのまつり)は、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭(にいなめさい)。一代一度限りの大祭であり、実質的に践祚の儀式。践祚大嘗祭ともいい、「おおなめのまつり」「だいじょうさい」「おおむべのまつり」とも呼びます。「だいじょうさい」のほうが馴染みがありますね。

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大正天皇即位の礼 (Wikipedia)

 皇室典範・登極令制定後、初めてとなった大正天皇即位の礼は、大正4年(1915)11月10日に京都御所紫宸殿で行われました。本来は1914年(大正3年)に挙行される予定でしたが、同年4月に昭憲皇太后のご崩御により1年延期されました。大嘗祭は、同じく大正4年11月14日〜15日に行なわれました。当神社の記念碑は、この時のお買い上げを記念して建立したものです。

◆令和の大嘗祭

 令和になり、新天皇の即位に伴い、令和元年(2019)11月14日(木)夕から夜を徹して、天皇が一代で一度だけ臨む大がかりな神事の大嘗祭(だいじょうさい)が古式ゆかしく行われました

 因みに、昭和天皇の大嘗祭は、京都御所紫宸殿で行われ、現上皇さまの平成の大嘗祭は東京の皇居・東御苑で行なわれました。

 令和の大嘗祭については、簡素に、と言う意見もあり、前回同様に皇居・東御苑で、この神事の用の「大嘗宮」を造って行なわれました。

 純白の祭服を着た新天皇陛下がほのかな明かりの中、中核儀式が行われる祭場殿舎の「悠紀殿(ゆきでん)」に入ります。また、白色の十二単姿の皇后さまら皇族方もご参列されます。

 なお、皇位継承儀式の「即位礼正殿の儀」は、令和元年(2019)10月22日(火)、世界の150カ国から元首・首脳クラスの来賓を迎え古式通り行われました。当日は生憎の雨でしたが、のちに虹が🌈が出た瞬間は感動しました。

【参考】

↓↓

大嘗祭|平成から令和へ 新時代の幕開け|NHK NEWS WEB

「大嘗祭(だいじょうさい)」は毎年11月に国と国民の安寧や五穀豊穣を祈って行われる宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)「新嘗祭(にいなめさい)」を即位後、初めて大規模に...

NHK NEWS WEB

 

 ◆最後に 

 大正天皇の大嘗祭に、実際、梅田牛蒡が使われたかどうかは、この記念碑に拠るしかありませんが、今は、宅地化が進み耕作地も少なくなり、牛蒡を作っている農家さんもほとんど無くなり、「梅田牛蒡」は“幻のごぼう”となりました。

 宮中行事に地元の食材が使われたことは、当時の人々にとって大変名誉なことだったのでしょうね。たかが“ごぼう”されど“ごぼう”なんです。

  ふと、思ったのですが、この記念碑は、もしかしてごぼうの形なのかもしれません。

 以上、4回にわたり、梅田の村社「女體神社」について書いてきました。

 ついつい文章が長くなってしまいましたが、最後までお読み頂きありがとうございました。


 終わり

 

 

 

 


日光道中粕壁宿・梅田の「女體神社」境内案内

2023-02-06 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/09/08・更新日:2023/02/06

◆境内

 女體神社の境内は、あくまでも村の鎮守なので、あまり広くはありません。社殿の隣には、朱い鳥居と小さな富士塚が、そして様々な神さまが祀られています。 

富士塚 


富士塚の全景

高さは1.8メートル

富士講 

江戸時代に富士山(3,776メートル)を霊峰と仰ぐ信仰が広まった。これが「富士講」といわれる「代参講」である。「富士講」は戦国時代の行者、長谷川角行(はせがわ・かくぎょう)を伝説上の開祖として、富士山の麓、富士吉田市の浅間神社を本社としている「講」。

江戸時代に流行し、中期以降は、食行身禄(じきぎょう・みろく)・小谷三志(こだに・さんし)らの優れた行者が江戸を中心に広めたため、埼玉・千葉などの関東周辺に広まった。代参の人たちは、先達と称される人に率いられ白装束で吉田口から富士山に登拝したが、それができない講員のために自分たちで富士山に見立てた小丘(築山)を築き、富士浅間神社を勧請した。毎年夏(7月1日)の山開きの頃に、講員はこの小丘に登り、遥かに富士山を拝んだようである。

浜川戸の八幡公園内の富士塚のように、合目を記した本格的なものもある。
この神社にある高さ1.8メートルの「富士塚」は、丸参講によって、明治25年(1892)に築かれたものである。明治25年10月銘角行食行霊神石祠(せきし)あり。(『春日部市史/第6巻/民俗編』)

丸参講の碑



丸参講の碑

石祠



左「浅間神社」・右「磐長姫命」

浅間神社

浅間大神

※浅間神(せんげんじんじゃ、あさまじんじゃ)

「浅間」を社名に持つ神社。富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神(浅間神)、または浅間神を記紀神話に現れる木花咲耶姫(このはなのさくやひめのみこと)と見てこれを祀る神社である。 


※木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)

日本神話に登場する女神。一般的には木花咲耶姫と記される。また『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。コノハナサクヤビメ、コノハナサクヤヒメ、または単にサクヤビメと呼ばれることもある。『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、『日本書紀』では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、コノハナノサクヤビメは別名としている。
オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。ニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。 


磐長姫命


磐長姫命

磐長姫命(イワナガヒメノミコト)は、オオヤマツ神の娘で木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメミコト)の姉、岩のように堅固で永久不変なことを象徴する女神。美人といわれた妹と違い醜女だったとされています。名前に「磐」の字を当てるのは常磐(ときわ)の意味で、常に青々としてめでたい常盤木などと使うように、そこには生命長久の観念が込められています。岩石といういかにも堅い無骨なイメージがありますが、このことこそがこの神が寿命長久の神とされる所以です。なお、『古事記』によると天孫ニニギが外見にとらわれ寿命長久の神の姉を選ばなかったことが、天皇の寿命が短くなった原因とのことです。

 

角行食行霊神




角行食行霊神

碑陰(裏面)には明治25年10月銘

※角行(かくぎょう)

天文10年1月15日(1541年2月10日)~正保3年6月3日(1646年7月15日)、江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物。大職冠藤原鎌足の子孫。長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれる。俗名、長谷川左近藤原邦武。

※食行身禄 (じきぎょう・みろく)

1671~1733 江戸時代前期-中期の富士講行者。寛文11年(1671)1月17日生まれ。江戸で油商として成功。17歳のとき富士講5世の月行劊忡(げつぎょう・そうじゅう)に入門。加持祈祷中心の村上光清(むらかみ・こうせい)の光清派を批判し、実践倫理を重視する身禄派をおこす。「身禄(弥勒(みろく))の世」の到来を予言し、富士山で断食入定(にゅうじょう)、「烏帽子岩三十一日之巻」を口述し、享保8年(1733)7月17日絶命。63歳。伊勢(三重県)出身。俗名は伊藤伊兵衛。その後、開祖角行とともに、富士講の信者の崇敬を集めた。身禄の教えを受け継いだ各派富士講の一つに、武蔵国足立郡鳩ヶ谷(現埼玉県川口市)の小谷三志の不二道があり、教派神道の実行教、直系は丸山教となって今日に至っている。

※小谷三志(こだに・さんし)

生年:明和2年12月25日(1766年2月4日)~天保12年9月17日(1841年10月31日)。江戸後期の不二道の開祖。「こたに」ともいう。武蔵国鳩ケ谷(埼玉県)生まれ。本名小谷庄兵衛。文化6(1809)年江戸に出て、富士講2代目教主の伊藤参行に入門、禄行三志の行名をもらう。三志は富士講身禄派の祖食行身禄の教説を日常的な倫理観に高め、天保9(1838)年に、それを「不二道」と称し,京に上り公家や文人と交際してその公認を目指した。富士講の男女平等思想をさらに徹底し、日常生活の服装,労働,性交渉などにおける男女の役割を逆転,「おんながだんなにな」るのを「みろくのみ世」として理想とした。高山たつを伴って、禁制の女人富士登頂を強行した。また,信者の社会事業への労力奉仕も勧め多数の信者を得た。

参考文献:『富士講の研究:江戸庶民の山岳信仰』岩科小一郎/名著出版/2000、『神の民俗誌』宮田登/岩波新書/1979、『朝日日本歴史人物事典』解説(浅野美和子)


その他の石祠

稲荷大明神

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稲荷大明神

稲荷社の右側の石碑を拡大すると

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「悪病除祭」(百万遍)の神饌料「金弐百円」

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碑陰(裏面)には昭和17年9月の銘

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浅間神社・天満宮・猿田彦大神
天満宮

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「天満宮」は、学問の神、御祭神は菅原道真公


猿田彦大神

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「猿田彦大神」は、道の神、御祭神は猿田彦命(サルタヒコノミコト) 

 

 猿田彦命といえば、天孫降臨神話に登場する神です。そして猿とも天狗ともいわれる怪奇な風貌からある意味、結構人気のある神様です。

そして、

鼻の長さが七咫(ななあた、約120㌢)もあり、背の丈は七尺(約2メートル)あまりで、身長は七尋(約12.6メートル)に近い。さらに、口と尻は明るく光っていて、

目は八咫鏡(やたのかがみ)の如く丸く大きく、まるで真っ赤な酸漿(ほおずき)のように照り輝いている」、と『日本書紀』一書(あるふみ)の一に描かれています。

そして天孫降臨の際、天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を天の八衢(やちまた)まで出迎え、先導して日向の高千穂まで導いたとされています。このことから猿田彦命は導き、すなわち道案内の神とされ、後に道祖神として崇められるようになりました。さらには、猿田彦信仰は、道祖神信仰の性にまつわる部分だけを取り出した形で、古代の性器崇拝と結びついた金精様とも結習合し、男女の縁結び、子宝、安産、下の病や性病などに霊験があるとされ、金精様が祀られる神社にはこの猿田彦命が祭神とされることが多いとされています。

(参考:『「日本の神社」がよくわかる本』戸部民夫、PHP研究所、2004/1/21)

 

いかがでしたか?

 

身近な村の鎮守にもいろいろ興味深いものがありますね。

 

時間があれば、お近くの神社に行ってみませんか。きっと新しい発見があると思います。

 

続く…