かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・碇山のイヌグス(其の一)

2022-07-30 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/01/24・更新日:2022/07/30

碇山のイヌグス

粕壁宿の裏側を流れる大落古利根川沿いの遊歩道(「古利根きらめき通り」)を歩くると春日橋の少し先に木が繁っている所があります。ここは碇山と呼ばれ、「碇神社」という小さな稲荷社があります。

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そして、その社殿の脇にある巨木は「碇山のイヌグス」と呼ばれ、樹齢600年余りと言われる埼玉県指定天然記念物の巨木です。

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コロナ禍前には、粕壁宿を案内する地元の観光ボランティアガイドさんが必ず案内する場所がこの「碇山のイヌグス」でした。

以前は鬱蒼としていて中に入るのも憚れるほどでしたが、4年前の2018年2月に、全体的に整備され、スッキリとして見やすくなりました。また、新たに案内板が設置されています。

整備される前

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整備前

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木が鬱蒼と繁り、ほとんど見えませんでした。

そして整備された後、

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碇山のイヌグス

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下草が刈られ道路側からイヌグスがよく見えるようになりました。

案内板

そして、新たな案内板が設置されました。

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古くからまちを見守り続けるイヌグス

 

江戸時代の粕壁宿は、米や麦の集積地として栄え、古利根川を利用した舟運が行なわれていました。この看板のある付近には、下喜蔵河岸(しもきぞうかし、荷の積卸場)があったと伝えられています。船の停泊に便利で、岸辺が小高い丘であったことから地域の人々はこの辺りを「碇山」(いかりやま)と呼んでいました。

 

 また、この「碇山」にあるイヌグスの巨木は、船頭にとつて船着場の目印とされていたと伝えられており、「碇山のイヌグス」と呼ばれ、親しまれてきました。

 

 かつては、夏になると、涼を求めてイヌグスの木蔭に集まり、地域の憩いの場となっていました。子供たちは、枝にロープを付けてブランコ遊びをしたり、昼時になると、近くで働いていた職人たちの食事の場となり、イヌグスの枝の上で涼しむ人もいたようです。

 

 このイヌグスは、現在も地域の人々に愛され、春日部の歴史を現代に伝える貴重な地域資源となっています。

  

 平成三十年二月 春日部市

◆舟運と河岸

舟運は江戸時代初頭から年貢米の輸送手段として発達し、陸送では馬一頭につき米二表しか運べず、船積みにすれば人手も少なくて済み、一度に三百表ものコメを積むことが出来ました。そのため、多少の危険を冒しても安く早く運ぶ舟運(しゅううん)が利用されたようです。

特に、北武蔵(現在の埼玉県)は、東北や上信越方面からの中継地として栄え、河川の舟運(しゅううん)が盛んで、河川の要所には集積地と河岸(かし、人や荷物を船から上げ下ろしする集積場)が整備されていました。

当時は、年貢米などが上り荷(のぼりに)として地方から江戸へ、塩・綿・木綿・干イワシ・小間物・荒物などが下り荷(くだりに)として江戸から地方へ運ばれていたそうです。 

〘参考〙

宮代町の町史には、次のような、記述があります。

◆川舟と舟運

 河川舟運の主力は、川舟という喫水(きつすい)が浅く船底が平たい舟であった。利根川・江戸川の水運で活躍した高瀬舟などは有名である。町域にも杉戸にも杉戸町境に大落古利根川が流れている。古利根川では舟運がなかったのだろうか。

 結論からいうと、幕府公認の河岸場は古利根川にはなかったので、公には年貢米の回漕はなかった。川沿いの杉戸、粕壁などの宿場でも、河岸問屋が栄えるということはなかった。これは、古利根川下流に松伏堰(まつぶしぜき)(松伏溜井、堰下流の村々に用水を供した)が設けられており、江戸と直結していなかったことによるようである。また、葛西用水(古利根川)川俣元圦(羽生(はにゅう)市)から利根川の水が通水し、かつ農業の水が松伏で堰き止められる。夏季には古利根川は水量が豊富だが、冬季には逆に減少するため、大きな舟の乗り入れに不便だったことも考えられる。運上金を納めることで幕府公認となっていた、江戸川沿いの河岸場の利害もあったことだろう。

   

 しかし、例えば粕壁宿(かすかべじゅく)の年貢米は、冬季には江戸川の金野井河岸(庄和町金野井(しょうわまちかなのい)に運び出すものの、六〜八月は古利根川を利用して回漕しており(享保十八年「村鑑書上ヶ帳」粕壁宿文書)、全く古利根川で舟運が行われていなかったわけではなかった。同じ粕壁宿では年貢米の直接回漕は宝暦十三年(一七六三)には取りやめられるものの(「村明細帳」粕壁宿文書)、文政十三年(一八三○)にも高瀬舟(たかせぶね)、似高瀬舟(にたりたかせぶね)、瓢艜船(にたりひらたぶね)などの川舟ニ一艘を所持しており(「公用鑑」(こうようかがみ)粕壁宿文書)、民間の荷物搬送は依然として行われていた。以下略

引用:宮代町史 通史編 第四章 御成道と宮代の道 第ニ節 近世宮代の橋と舟運(宮代町立図書館)

「春日部市史」も参考にしましたが、お隣の「宮代町史」を引用させて頂きました。

この時期(冬季)の大落古利根川は、

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川底が露わで確かに水量はありません。昔もそうだったのでしようね。 これでは大きな舟は到底無理ですね。

続く…



日光道中粕壁宿・川のある風景「大落古利根川」

2022-07-26 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/02/13・更新日:2022/07/26

大落古利根川

粕壁宿の裏手を日光道中とほぼ平行に流れる川が「大落古利根川」です。春日部市を舞台とした国民的アニメ『クレヨンしんちゃん』の世界では「カス川」と呼ばれ親しまれています。そして、江戸時代には、古利根川の舟運で粕壁宿と共に歴史を刻んできました。

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新町橋の川名表示

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古利根公園橋の川名表示

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案内板も新しく。

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「大落古利根川 広域案内図」

大落古利根川

 大落古利根川は、久喜市と杉戸町の境にある葛西橋から松伏町下赤岩付近で中川に合流するまでの延長26.7km、流域面積182.3k㎡の一級河川です。その名の示す通り古くは利根川の本流としていくたびかの大洪水を引き起こしました。

 

 江戸時代の初期に、利根川が現在の流路に付けかえられたため、この流れは大落古利根川として残されました。

 

 その後、この川は数回の改修を経て、今日の姿となり、中川流域の主要な河川として、また葛西用水の幹線として治水と利水の両面で重要な働きをしています。

なお、当川の「大落」とは農業排水を落とす幹線排水路の意味です。

河川改修と新田開発

徳川幕府は江戸時代の初期に、将軍のお膝下(おひざもと)である関東の生産基盤づくりのため利根川や荒川の乱流整理を行いました。その工事は、利根川の本流を鬼怒川の支流につなぎ太平洋に放流させるもので、約50年の歳月を要しました。こうした河川改修により、多くの新田が開かれるようになりました。古利根川は県東部低地の水田地帯を流れ、用水路及び排水路として重要な役割を果たしています。春日部市域でも大規模な新田開発が行なわれ、米の生産量が著しく増加しました。

河岸と舟運

江戸時代、河川は物資の輸送路として重要な位置を占めていました。大落古利根川沿いの粕壁宿は商屋や問屋があり、周辺の物資の集積地となつていました。そこから直接物資を送ったり取り寄せたりしたこともあったようです。おそらく米穀をはじめとする農産物を江戸へ送り、日用品や干鰯(ほしか)・〆粕(しめかす)の肥料が江戸から送られてきたものと考えられます。新町橋のたもとには上喜蔵河岸(かみきぞうがし)、碇山付近に下喜蔵河岸(しもきぞうかし)と呼ばれる河岸場があり大落古利根川に面した商家では、直接商家の裏に船を停めて、荷物の積み下ろしを行っていたようです。

そして、松尾芭蕉の句が書かれています。

草臥て 宿かるころや 藤の花(

くたびれて やどかるころや ふじのはな)

この句は、残念ながら当地で詠まれた句ではありません。『笈の小文』の句で、奈良大和の八木で詠まれたそうです。念のため。

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商家の裏には蔵。

大落古利根川再生事業

平成24年〜27年、大落古利根川流域の杉戸町、宮代町、春日部市、松伏町にわたって、行われた大落古利根川まるごと再生プロジェクトによって、遊歩道、水辺のテラスなどの整備が行われ、ウオーキング、ジョギング、犬の散歩など早朝から多くの人々を見かけます。現在、周辺の人々の憩い水辺となっています。

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水辺のテラス。コロナ禍前の夏にはイベントがいろいろ開催されました。

大落古利根川は、農業排水路のため、清流とはほど遠いですが、水質はさほど悪くはなく、水鳥のほか鯉などの魚も多く生息しており、橋の上からもその姿を見ることができます。また、秋から冬の時期の大落古利根川は、水量も少なく、どことなく寂しく感じます。

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水が少なく。
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川底が。

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埼葛橋から見ると、碇神社のイヌグスもよく見えます。昔は、イヌグスがもっと高かった(昭和54年の台風で途中から折れた)ので、船頭さん達の目印になったという話には説得力がありますね。なお、碇神社のイヌグスについては別稿でご紹介します。

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古利根公園橋から上流の新町橋方面

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新町橋の上流には左の方から古隅田川大落古利根川に合流しています。この合流する辺りの水面には、多くの水鳥が確認できます。左の橋は「十文橋」。

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一方、古利根公園橋から下流を見ると、以前は、西武百貨店(ロビンソン百貨店)が見えましたが、今は新しくマンションが建っています。栄枯盛衰を感じます。

最初この記事を書いた時は、コロナ禍前の2月上旬でした。そのため画像が少し暗いですが、どうぞお許しください。そして春になると両岸に桜が咲き、古利根川が最も映える素敵な春を満喫できます。

 


日光道中粕壁宿・江戸時代の俳人増田眠牛ゆかりの山中千手観音堂

2022-07-22 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/02/08・更新日:2022/07/22

公園橋通りとかすかべ大通り(旧日光道中)の交差点にある信用金庫の向かい側に「山中千手観音堂」という小さなお堂があります。

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江戸時代の俳諧師増田眠牛(ますだ・みんぎゅう)ゆかりの観音堂。屋根の上には、宝珠それとも土瓶?

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「山中千手観音堂」

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山中千手観音の由来

山中観音は、もとは粕壁の山中というところに祀られ、多くの人々に親しまれていました。 

観音様の由来は、江戸時代の俳諧師増田眠牛によります。当時、眠牛は千手観音を背負ってこの地方を行脚していました。そして、粕壁宿の米問屋伊勢平の家に止宿するようになり、伊勢平が好意で建てた観音堂で生活し、眠牛はこの地で一生を終えました。眠牛を慕う人々は、その観音堂の境内に墓標を建て、千手観音を祀って信仰しました。大正時代までは、縁日に人々が集まり講を開いていました。

平成五年四月吉日

春日部市史には

宝暦のころ、粕壁宿に六部(ろくぶ)の姿で現われそのまま米問屋伊勢平に寄寓した増田眠牛は、談林派系統の江戸座の流れを汲む俳人で匍匐庵(ほふくあん)と号した。日光道中の宿場町・在郷町として発展しつつあった粕壁宿の商人や周辺農村の村役人層などの支持者を得て活躍したものと見られるが、史料的に確認できる事績は少ない。春日部駅東口の側(粕壁東一丁目三番)に現存する山中観音は貴重な遺跡である。この堂は、伊勢平に代わり眠牛の世話をしていた醤油醸造家清水家(やまご)が、眠牛の菩提を弔うために建立したものである(『春日部市の文化財』)。没年は、堂前の墓石から明和八年(1771)三月七日、享年六三歳であったことがわかる。また、観音堂の本尊は眠牛が携えてきたという千手観音の画像で、托鉢に用いた鉢やあかざの杖などの遺品も残る。

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『春日部市史』第六巻 通史編 近世 第九章 文化と生活 第二節 農村文化の展開(平成6年9月1日、春日部市教育委員会編)

宝暦年間は1751−64年。芭蕉が当地に泊まった頃から60〜70年後の時代。 

六部

もともとは、法華経を六六部書き写し、日本全国六六か国の国の霊場に一部ずつ奉納してまわった僧。鎌倉時代から流行。江戸時代には、諸国の寺社に参詣する巡礼または、遊行(ゆぎよう)の聖(ひじり)。白衣に手甲・脚絆きやはん・草鞋(わらじ)がけ、背には阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。(スーパー大辞林)

「花見の仇討」と言う古典落語に「六部姿」と言うのが出てきます。そして、落ちにも「ろくぶ」という言葉が使われています。

 埼玉県内の近世俳人、俳諧史に詳しい俳人の小林甲子男氏(1925―2010)は、 

増田眠牛

眠牛の俳系は文化二年の谷素外編『西山家連俳系譜』によれば、

梅翁

 |

西鶴

 |

才麿―佳風

 

 |

逸志―旧室

     

 |

佐簾―二世佐簾―眠牛 

私(小林)がこの眠牛の句を最初に確認したのは、宝暦ニ年の『名月句集』に見える。

三月の夜は明に鳧 けふの月 眠牛

※鳧=けり

さらに同じ年『太山樒』にも一句。これは上野富岡の人、雲郎の妻の追悼句集であり、鴻巣の柳几の句もある。

眠牛は各地を歩いて多くの俳人たちと交遊していたことがわかる。

宝暦七年の『歳月帳』(祇貞)には、

恋ならで またるるものは 厄払 眠牛

明和二年の『歳旦』(吾山)には

年守る 火鉢に酒の 匂ひかな 眠牛

春日部市備後の石井家には眠牛の短冊が一枚残っている。

話し手もなくふけたり 今日の月 眠牛

眠牛は明和八年に没した。墓石は市内山中観音堂の入り口に建っている。

かかれぬぞ もう命げのつくつくし 眠牛

という辞世の句とともに、

 

諦誉華岳眠牛居士

  明和八年三月七日

と記述しています。

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元の「山中千手観音堂」

『埼玉史談』第三十八巻 第三号 通巻ニニ七号 「近世・春日部の俳諧」(平成三年十月一日、埼玉県郷土文化会)

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近くの建物に描かれているシャツターアート

「米問屋」でなく「八百屋」になっています? 

◆放火事件

平成26年(2014).4.9の午後11時頃、放火されるという事件がありましたが、幸い、火事に気づいた近所の方の素早い対応で、堂内の床が少し焦げた程度ですみました。約250年もの長い間守り続けてきた貴重なお堂が焼失を免れて良かったです。

◆守られた観音堂と慕われた増田眠牛

遺品などは、山中観音堂に保管され、遺骸は、伊勢平の菩提寺の成就院に葬られましたが、墓標は、観音堂内に建てられました。

その後、眠牛を慕う人々により観音堂は守られ、家内安全の観音様として地域の人々の信仰を集めるようになりました。しかし、お堂は狭く、毎月17日の縁日には、全ての信者が堂内に入ることが出来ず、近所の世話人の家に観音堂の掛け軸を持ち込んで、観音経を唱え、来会者に食事を出す行事(講)を行っていました。この行事は、案内板にあるように、大正時代まで続いていたそうです。今でも、拝んでいる人の姿を見ることがあります。

なお、観音堂も春日部駅東口の区間整理に伴い、元の場所(元ラオックス、現在はマンションのそば)から今のこの場所に移転しました。

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「 眠牛の墓標」側面に辞世が刻まれているとか。読めませんので未確認。

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「山中千手観音堂」落成記念碑

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今年の正月には灯りが。
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堂内

街角の小さなお堂気にも250年余の長い歴史があることがわかりました。春日部の魅力の一つですね。長い間守り続けた世話人会の人々のご尽力に感謝し、敬意を表します。


日光道中粕壁宿・新町橋と上喜藏河岸跡

2022-07-18 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/03/12・更新日:2022/07/18

◆新町橋

高札場から100メートル程の大落古利根川に架かる橋は新町橋です。今は、ごく普通のコンクリートの橋ですが、江戸時代には大橋と呼ばれ、あの松尾芭蕉一行も陸奥の旅の際渡ったとされる歴史がある古橋です。

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ポール型の案内板

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新町橋全景

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新町橋のプレート

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よく見ると、「しんまち“ばし”」ではなく「しんまち“はし”」です。


新町橋

新町橋は、江戸時代には大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋であった。長さ16間(約29m)、横3間(約5m)の板橋で、高欄が付いていた。架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、往来を妨げないように仮橋が架けられていた。新町橋の上流には上喜藏河岸と呼ばれた船着場があり、石垣の一部が現存している。江戸時代、粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い六月中旬〜八月中旬(旧暦)には、小型の高瀬船などで米や生活物資を運搬した。 

       平成二十七年七月

       春日部市教育委員会

幕府が費用を負担すると言うことから、この橋が日光道中の重要な橋だったことがわかります。東北の大名の参勤交代の時に必ず渡る粕壁宿唯一の橋でした。現在の橋は平成17年3月竣工。

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この付近は、下流の中川合流点から約15kmの地点。

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ポール型の案内板の絵図 手前が粕壁宿

プレートの絵図をよく見ると、江戸時代、大落古利根川は、武州埼玉郡と葛飾郡との境だったようです。また、この大橋を渡ると幸手領の八丁目村字新町字大橋板橋と言う地名でした。

◆上喜蔵河岸

そして、橋のたもとには、上喜藏河岸と呼ばれた船着場(河岸)がありました。下流の碇神社がある碇山付近には、「下喜蔵河岸」があり、こちらが「“上”喜蔵河岸」でした。

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公園橋の近くに設置されている「大落古利根川周辺地図」にある「上喜藏河岸」の写真。郷土資料館にあるジオラマを撮影したもの、許可を得て撮影しています。

見た感じですが、こちらの「上喜蔵河岸」の方が水深はありそうです。

対岸から見ると、

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今は、集会所が建っています。

河岸の石垣は、集会所が新築された際、上部がコンクリートで固められてしまいました。

◆石の積み方

以前は、全長11.2m、地表面から約70cmの高さで2〜4段が残っていましたが、今はどうでしょうか。個々の石は正方形、五角形に整形されている輝石安山岩で、一つの石の上には上の石の約1/2が積まれた状態で、ほぼ横方向へ目地が通った布積みで、近世城郭建築の石垣で見られる切込ハギと呼ばれる工法によって隙間なく整然と積まれていました。

以前、見た時には「えっ、こんなの?」と思いましたが、それでも、なんとなく往時の面影が感じられだのですが。

今は、こんな感じ。

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上部がコンクリートでガッチリ固められています。
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今は、2〜3段程度?、仕方がありませんね。

ここのところの雨で、心なしか、古利根川の水嵩も増してきました。水嵩が増えると、暑い暑い夏がやってきます。






日光道中粕壁宿・高札場跡と浜島家住宅土蔵

2022-07-14 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/03/16・更新日:2022/07/14
◆粕壁宿の高札場跡
かすかべ大通り(旧日光道中)の突き当たりの寺院、最勝院の右手前に高層マンションがあります。その場所には江戸時代「高札場」がありました。

ポール形式の案内板


左隅の案内板が建っている辺りに高札場があった? 右上日光方面へ


案内板の絵図 中央に高札場が描かれています。「高札」と言う文字もあります。町名は横町? そして寺町道、馬止?とも。ここで下馬したのかな?

◆高札場

高札とは、法度(はっと)・掟書(おきてがき)、罪人の罪状などを記し、人通りの多い所に高くかかげた札。室町時代からあったが、江戸時代に最も盛んに行われた。制札。立札。たかふだ。(スーパー大辞林)

高札場は、文字通り高札を掲げておく場所。

なお、起源は、平安時代の初期にまで遡るという説もあり、明治の初めまで使われました。

高札場は、道の辻、宿場の出入口など多くの人の目につきやすい所に設置されていました。東京の「札の辻」の地名もここからきているようです。 

要するに公設の掲示板ですね。時代劇でもよく目にします。なお、御触書等は、紙に書いて貼るのではなく、直接板に墨で書かれたようです。当時の人々の識字力の高さに感心します。日本人の民度は、とても高かったことが伺えます。


 高札場・浜島家住宅土蔵

(こうさつば・はまじまけじゅうたくどぞう)

この十字路は、明治22年(1889)の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だった。多くの人びとが集まる場所であることから、幕府からの触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置された。通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた、浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。明治時代前期には建てられていたと推定され、1階は座敷、2階は使用人の部屋兼倉庫として利用された。  

  

 平成二十七年七月 

 

    春日部市教育委員会

高札場が置かれていた場所は、大橋(今の新町橋)のたもとで、粕壁宿の出入口付近であった場所。宿場の入り口なので人通りも多く人々の一番目につきやすい場所だったことがわります。 

浜島家住宅土蔵


浜島家住宅土蔵



なかなかの迫力です

黒漆喰の土蔵がある浜島家住宅土蔵は、東日本大震災の前から保存修理が行なわれていました。以前は、白壁の土蔵でしたが、保存修理の際、当初の黒漆喰の痕跡が確認されたことから、外壁が黒色に復元されました。

地震の激しい揺れにも耐え抜き、隣の古い家屋も取り壊され、すっきりと黒色が映える土蔵となりました。

平成27年3月26日、市内で2例目となる国登録有形文化財(建造物)に指定されました。

文化庁のホームページ

登録有形文化財

平成8年10月1日に施行された文化財保護法の一部を改正する法律によって、保存及び活用についての措置が特に必要とされる文化財建造物を、文部科学大臣が文化財登録原簿に登録する「文化財登録制度」が導入されました。

国指定文化財等データベース(抜粋)

時代:昭和前

年代:明治前期/昭和37改修

西暦:1868〜1882/1962改修

構造及び形式等:土蔵造2階建、瓦葺、建築面積50㎡

登録基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの

解説文:旧日光街道沿いに建つ、もと米穀屋の座敷蔵。外壁を黒漆喰塗とし、桟瓦葺屋根の鬼瓦に影盛を施すなど関東地方の土蔵造の特徴を示す。南面二階窓の庇は起り付の切妻屋根で銅板葺とし、懸魚を吊る。旧粕壁宿の商家の数少ない遺構で、往事の面影を伝える大型土蔵。

登録年月日:2015.3.26(平成27年3月26日)

また、三叉路の向かいにあった商家(現在スポーツジムや第9保育所等になっています)に、明治33年(1900)に鷹狩のため来訪した晩年の徳川幕府第15代将軍徳川慶喜が宿泊したそうです。



徳川慶喜宿泊の地(許可を得て撮影)