かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・本陣跡

2022-06-26 19:30:00 | 地域発信情報

粕壁宿・本陣跡   

前回は粕壁宿の脇本陣跡を紹介しました。そこから300m程日光方向に下って行くと今度は本陣跡があります。


小沢本陣跡

今は痕跡すらありませんが、群馬銀行辺りとポール形状の案内板に書かれていますので、位置的には、匠大塚春日部本店(旧西武春日部店)辺りかなと思われます。なお、許可を得て撮影しています。


そして、現在地の関根助右衛門家本陣は


こちらも飲食店の前にポール形状の案内板が建っているだけです。


道路の反対側から
案内板


◆本陣跡

本陣は大名や高僧が宿泊・休憩した公用の施設です。古くは、関根次郎兵衛家(せきねじろうべえけ)が勤め、その後、現在地の関根助右衛門家(せきねすけえもんけ)、見川家(みかわけ)、小沢家(おざわけ)、竹内家(たけうちけ)の順に四度移転した。日光山法会(にっこうさんほうえ)など、公用の通行者が多い時には、最勝院・成就院が宿泊施設として利用されることもあった。
本陣の変遷
関根次郎兵衛家 (仲町郵便局辺り
?関根助右衛門家 (現在地)
宝暦4年(1754)見川家 (埼玉りそな銀行向かい辺り)
文化6年(1809)小沢家 (群馬銀行辺り)
嘉永2年(1849)竹内家 (金子歯科医院辺り)
        平成二十七年七月
        春日部市教育委員会

粕壁宿の本陣は、時代とともに4回代わったことがわかりました。ジオラマを見ると立派な本陣だったことがわかります。

なお、見川家本陣跡とされる場所は「埼玉りそな銀行向かい辺り」とありますが、同支店は2022年6月13日に、春日部駅東口駅近くのパークホテルの一階に移転しました。従って、「旧埼玉りそな銀行の向かい辺り」が正しい表記になります。



日光道中粕壁宿・脇本陣跡

2022-06-22 19:30:00 | 地域発信情報
再び日光道中粕壁宿をみてある記ます。
日光道中の全景は、

春日部市郷土資料館にあるジオラマ、手前が江戸方向、反対側が日光方向、結構精巧に出来ていおり、往時の粕壁宿の姿が良くわかります。なお、許可を得て撮影しています。

東陽寺・源徳寺
東陽寺・源徳寺からかすかべ大通り「旧日光道中」を日光方向に100メートルほど下って行くと粕壁宿の脇本陣跡があります。
と言っても、今はマンションが建っているだけで、往時の面影は全くありません。
前掲のジオラマでは、

上の方に粕壁小学校・春日部市教育センターなどの表示が見えます。なお、許可を得て撮影しています。
そして、現在は、
マンションになっています。
マンションの前に、ポール型の案内表示があるのみです。



脇本陣跡
文化会館前交差点の付近には、かつて水路があり、三枚の板石の橋が架けられいたため、この辺りは三枚橋(さんまいばし)とよばれた。脇本陣(わきほんじん)は大名や高僧が宿泊・休憩した本陣の予備施設である。中宿(なかじゅく)〘仲町(なかまち)〙の蓮沼屋庄兵衛(はすぬまやしょうべい)が勤めた後、天保(てんぽう)元年(一八三〇)に現在地で旅籠屋(はたごや)を営んでいた高砂屋竹内家(たかさごやたけうちけ)が勤め、嘉永(かえい)二年(一八四九)から幕末までは本陣になった。明治九年(一八七六)六月、同十四年(一八八一)七月、明治天皇の東北巡幸の際、高砂屋は御昼食所となった。宅地は四一七坪あったと伝えられる。
       平成二十七年七月
       春日部市教育委員会
敷地が417坪あったと書かれており、ジオラマを見る限りでは、相当立派な建物(本陣)だったと思われます。約200年前の歴史の1ページです。
そして、約200年の時を経て、この辺りは一年前の東京2020オリンピックの当地での聖火リレーの出発地点となりました。
今は、何ら痕跡もありませんが、歴史のバトンは次の世代に繋がれて行くことを願っています。



粕壁宿と共に歩んだ東八幡神社(其の五)

2022-06-18 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2021/11/06

更新日:2022/06/18   

粕壁宿と共に

今まで粕壁宿の成立に縁のある神社東八幡神社につい書いてきました。今回はその最終回。

東八幡神社の境内には、その他にも面白いものが残っています。

◆彫刻

先ずは、本殿の欄間などに施された彫刻です。

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拝殿と本殿

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本殿

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彫刻
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隙間から
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なお、これらの彫刻が施された年代や作者は不明ですが、県内の神社の中でも貴重な彫刻と言われています。でも、柵が少し邪魔です。

◆力石

そして、神社と言えば、やはり力石ですね。もちろんこの東八幡神社神社にもあります。

力石と石碑

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後ろの石碑は、判読は厳しいですが、大正7年1月に建立されたもので、新宿組、三枚橋、大砂組、川久保、大下組、大田組、松之木、大池組などと、氏子連の名前が刻まれています。そして、その手前には、
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力石
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案内板

三之宮卯之助の力石

卯之助は、江戸時代の文化四年(西暦一八〇七年)越谷市の三之宮に生まれ江戸時代の見世物興行の力持ちとして日本一になったこともあり、牛一頭を乗せた小舟を持ち上げるのが売物だったと言う。

この一〇〇貫目(375㎏)の力石は、卯之助が八幡神社で興行したさい、持ち上げた記念に奉納されたものである。

           

                   東八幡神社

神社の境内には、その昔、力競べに用いたとされる大きな石がよく置かれています。これは、力石と呼ばれ、日本全国各地に多く見られますが、特に東北や関東地方には多いと言われています。

当東八幡神社に奉納された力石には、越谷出身の力持ち三ノ宮卯之助の名があるものが2つあります。どちらにも天保3年(1832)の銘が刻んであるので、当時卯之助がここで興行を行ったことを記念して奉納されたものと思われます。

なお、卯之助の正式な名前は「三野宮村の卯之助」が正しく、「三ノ宮」は名字ではなく通称名です。

卯之助は、武蔵国岩槻領三野宮村(現越谷市)の生まれで、越谷で最も名の知られた人物かも知れません。

越谷市にある「埼玉県立大学」近くに、今でも「三野宮」と言う地名が残っています。

なお、卯之助は、地元越谷を始め、岩槻、春日部など近隣の神社や江戸・深川の富岡八幡宮なとで興行を行なったとされ、卯之助が持ち上げた力石が残っています(以前『ブラタモリ』で放送されたのを観ました)。

なお、卯之助について、詳しくは、こちらのブログをご参照ください。

↓↓

越谷市に残されている江戸後期・三ノ宮卯之助銘の力石

江戸時代後期、日本一の力持ちとうたわれた怪力の持ち主が越谷の三野宮村(現在の越谷市三野宮)にいた。名前は三ノ宮卯之助(さんのみやうのすけ)。力持ちを見せ物として...

越谷探訪

◆石碑

また、神社境内の片隅には多くの石碑がまとめられて並んで建っています。

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これらの石碑は、元々は氏子連の地元に建立されていたものだそうですが、関東大震災やその後の戦争の際に整理してここ東八幡神社境内に移設統合されたものと言われています。

◆終わりに

この神社がある地域は、今の住居表示では、粕壁東1丁目ですが、昔は、「大砂」と呼ばれてました。地名の由来は、

大砂

下八幡社の大門と現八幡橋通りの東側の砂塚という集落が合併して伝馬組織を作ったのでそれぞれの頭文字をとって称えたものである。  

引用:ふるさと春日部『かすかべの歴史余話/粕壁地区の地名』須賀芳郎/1977年 

と、記されています。全国何処でもそうですが、今の地名(住居表示)は何となく味気ないですね。

また、石碑には「三枚橋」という地名がありました。参考までに、

三枚橋

古利根川から草刈場の田に潅漑用の水路が街道を横断していた(現在は暗渠)。その水路に架けられた橋の名三枚石橋より称えられたもので、日光道中宿村大概帳に「字三枚橋・石橋・長三尺・三間・是を自普請仕来」と記されている。橋の架けられていた所は粕壁小学校入口の「ハヤシヤ」の右脇で、三枚の石板で構築されていたので、この名があると伝えられる。

 

引用:ふるさと春日部『かすかべの歴史余話/粕壁地区の地名』須賀芳郎/1977年


ここまで5回にわたり下の八幡さまとして親しまれた東八幡神社について書いてきましたが、これで終わります。

最後までお読み頂きありがとうございました。


粕壁宿と共に歩んだ東八幡神社(其の四)

2022-06-14 19:30:00 | 神社

更新日:2022/10/14・公開日:2021/11/02

◆末社群
東八幡神社境内の本殿裏には、その他にも末社の祠が並んでいます。順に見ていきましょう。

◆浅間神社

浅間神社

祭神 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

富士山の浅間神社を勧請したもので、安産、子供の安全成長の守護神で、毎年七月一日には、赤子の初参の風習がある。

※木花咲耶姫命は、日本の木の花を代表する桜の美しさを象徴していると同時に、日本を象徴する富士山の神霊でもある。本来の山の神の性格と火を吹く富士山を神聖な山として崇める古くからの信仰が結びついたものと言われている。さらに、民間信仰の子安神と結びつき、子授け・安産の神として庶民の生活に密着し広く信仰されている。

※筆者補足。

◆大杉神社

大杉神社

祭神 大山津見神(おおやまつみのかみ)

天下泰平、国土安穏、災難悪病避けの守護神で、従者は天狗と伝えられる。茨城県稲敷郡桜川村の大杉神社を勧請したもので、古くから代参詣りとして大杉講がある。

※大杉神社は、現在の茨城県稲敷郡阿波にある神社、主祭神は、倭大物主櫛玉命(やまとおおものぬしくしかたまのみこと)。日本唯一の夢むすび大明神で、「悪魔ばらえのあんばさま」と称され、厄除け、八方除け、星除けの神と言われている。(※「観光いばらき」より)

ご祭神は大山津見神と書いてあります。大山津見神は日本の山の総元締めの神で、浅間神社の祭神・木花咲耶姫命(このはなさくやひめやみこと、富士山の神)磐長姫命(いわながひめのみこと、岩の神)の父神で、

茨城県の大杉神社のご祭神倭大物主櫛玉命とは違っています。

何故そうなったかはわかりませんが。大杉神社は末社として春日部市内の多くの神社でよく祀られています。疫病や自然災害が多かった時代、毎月お金を積み立てて、代表者が参詣する代参講(大杉講)が盛んであったことが伺えます。末社として東八幡神社に大杉神社が祀られていると言うことは、災難厄除けの神として、大落古利根川の舟運での安全祈願を祈ったのかもしれません。

※筆者補足

◆大国玉神社

大国玉神社

祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)

大国主命とも呼ばれ親しまれている神で、島根県出雲大社より勧請したもので、縁結びの神として崇敬されている。

※ご祭神の大己貴命は、「因幡の白兎」の話の主役としてよく知られていますが、出雲神話の中では、国土の支配者で国つ神の絶対的な存在としてその存在感を示しています。また、大国主命は、中世以降、インド生まれの仏教の守護神・大黒天と習合し、ダイコクさまと呼ばれるようになり、のちに民間信仰の七福神の大黒さまと同一視されるようになりました。以後、打ち出の小槌を持ち、大きな袋を担いで米俵を踏まえて立つ、お馴染みの財福の神のイメージが定着しました。そして、現代でも五穀豊穣の神、商売繁盛の福の神として大黒さまは信仰されています。

なお、少し気になったのは、案内の立札のご祭神・大己貴命のフリガナですが、立札は「おおなむのみこと」となっていますが、正しくは「おおなむのみこと」ではないかなと思います。今まで何方も指摘されていないようなので、これからもこのままなのでしょうね。

※筆者補足

◆豊玉稲荷大明神


鳥居

祭神 宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)

三河国豊川稲荷を勧請したもので五穀豊穣、商売繁盛、の守護神である。神使は狐と伝えられる。

なお、「ふるさと春日部『春日部の神社/東八幡神社』須賀芳郎/著/1996年」には、

往古粕壁宿川久保の金子豊次郎氏の屋敷神として鎮座ありしが、明治末期にここ八幡神社境内に奉遷される。

と記載されており、この「豊玉稲荷大明神」も明治末期の合祀令で当社に合祀されたことがわかります。

◆天満宮


天満宮

祭神 菅原道眞朝臣(すがわらみちざねあそん)

 

京都北野天満宮より勧請したもので、学問、書道の守護神として信仰厚い。

菅原道眞、弘法大師、小野道風を日本三聖人として称えている。

いわゆる「天神さま」です。東京の湯島天神のように、学問・受験合格祈願の神さまとして親しまれています。なお、学問、分筆の神としての天神信仰が、庶民の間に広まったのは、江戸時代に寺子屋が隆盛してからのことと言われており、今も盛んな受験合格のご利益のはしりとされています。

また、菅原道眞、弘法大師、小野道風の三人は書道の世界に於いて平安末期の書論『夜鶴庭訓抄』(類従本)に、書の三聖として挙げられています。書論とは、書道に関する理論のことで、一般にはその著作物をさし、書論書とも言われます。(Wikipedia)

◆神社は面白い

如何でしたか、こうして身近な神社の境内を歩くと結構面白いですよ。

さらに、当東八幡神社にお詣りすることで、日本各地の神々にお詣りすることができるので、何かお得な気分にもなります。

末社のご紹介はこれでひとまず終わりますが、境内には、まだまだ面白いところがありますので、この続きは次回に…。

続く…


粕壁宿と共に歩んだ東八幡神社(其の三)

2022-06-10 19:30:00 | 神社

更新日:2022/06/10・2021/10/28

「摂社」と「末社」  

境内本殿の左手には小さな社殿(・ほこら)が幾つか並んでいます。本殿に祀られている神様が主祭神とすれば、その境内にある祠(ほこら)にお祀りされているのが従の神様。そのような従の神様を祀る小さな社殿は「摂社」(せっしゃ)もしくは「末社」(まっしゃ)などと呼ばれています。

「摂社」は主祭神と関係性の高い神様を祀っている(やしろ)、「末社」は主祭神と関係性の低い、他所から勧請した神様などを祀っている社と概ね区別されています。

当神社の場合は、主祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと=第15代応神天皇)ですので、境内の祠は全て関係性の低い末社と見做していいと思います。

と言うことで末社を順に観ていきます。

まずは、

松の木稲荷大明神

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朱い鳥居 稲荷社です。
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松の樹

稲荷大明神

祭神 宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)

京都伏見稲荷を勧請する。農工の守護、商売繁盛の神として信仰厚く、神使いは白狐と伝えられる。

古時松ノ樹の氏神として祭られていたが、明治末期の頃、政府の神社統合令にもとづき、当境内に合祀される。

※神社合祀令:明治39年(1906)内務大臣 原 敬によって発出された勅令

なお、この「松の樹稲荷大明神」について、「ふるさと春日部『春日部の神社/東八幡神社』須賀芳郎/著/1996年」には、

由緒は不詳なれど、古来粕壁宿の松樹の里【現在の粕壁東…三枚橋町内会で粕壁小学校の裏手】に鎮座せるものを、明治四十四年十一月、ここ八幡神社境内に奉遷される。
社前に『春日部駅松之樹の里』と刻まれた石碑が建立されている。

と記載されています。

その石碑

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石碑 表面には「春日部驛松樹里」の文字が、

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また、側面には「庚申塔」の文字が刻まれています。

◆川久保雷電神社

松の木稲荷大明神の隣りには、

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雷電神社
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川久保雷電神社
祭神 別雷命(わけいかずちのみこと)

群馬県板倉雷電将軍

を勧請する。古時川久保地区の氏神として祭られていたが、明治末期の神社統合令にもとづき、当境内に合祀される。

※群馬県板倉雷電神社は群馬県邑楽郡板倉町にある、主に関東地方にある「雷電神社」や「雷電社」の事実上の総本社格の神社で、板倉雷電神社とも呼ばれています。

※雷電神社はその名の通り、落雷から身を守ってくれる神さまであると同時に稲作の守護神として信仰されており、雨乞いなど農業守護のご神徳があるとされています。春日部市内にも板倉雷電神社を勧請した雷電神社が数社あります。

前掲書『春日部の神社/東八幡神社』には、

「雷電神社」
往古粕壁宿川久保に鎮座せるも、明治末期にここ八幡神社境内に奉遷される。

と記載されている。なお、川久保とは、粕壁宿の南東に位置する地域で、この雷電神社も、やはり明治の合祀令により当神社に合祀されました。

◆弁天社

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古利根川方向に少し下っていくと
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鳥居がありました。

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弁天社です。

また、社殿の左手には、小池の跡地のような低地あります。

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昔は水のある池だったようですが、干上がったのでしょうか、今は水はありません。

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弁天社

祭神 

市杵島姫神命(いちきしまひめのみこと)

福徳開運、財福をもたらす神。

女性加護の神として信仰が厚い。

神使は白蛇と伝えられる。 

市杵島姫命は、宗像三女神の内の一神。市杵島姫命は、神仏習合によって仏教の弁財天と同神とされ、「弁天様」として知られ広く信仰されています。また、弁天社は、知恵、財福、戦勝、子孫繁栄のの他、音楽、技芸など芸能に関する神徳があるとされています。

由緒などは書いてありません。この弁天社は他の末社から少し離れたところに在ります。ことから、この弁天社は、元元々ここに在ったの神社のようにも考えられます。

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土地奉納の石碑

御大典記念

土地五畝十歩

関根嘉兵衛

昭和三年十一月十五日建之

昭和3年(1928)の大典とは、11月10日に京都御所で行われた昭和天皇の即位の礼のことだと思います。

その慶事を寿ぎ約150坪の土地を奉納した石碑です。もしかしたら、弁天社があった土地ごと奉納したのかもしれません(あくまでも推測ですが)。

当東八幡神社には、この他にも明治末期の合祀令によって合祀された末社が何社かあります。時代は変わっても土地の氏神さまは地域の人々の心の拠り所であることには今も変わりません。

次回に続く…