公開日:2019/05/28•更新日:2023/05/29
久しぶりの更新です。今後は週一回程度の頻度で更新していく予定です。
東武スカイツリーライン春日部駅東口から北東に1.2km程のところに「樋堀」(ひぼり)という地区があります。
この樋堀地区は大落古利根川沿いの沖積地に位置し、直ぐ側には旧倉松落が流れていています。
◆樋堀という地名
「樋」とは用水の樋(とい)、堀とは用水路のことで、用水路の樋の意(『埼玉県地名誌』)。
また、古くは、慶安2~3年(1649~50)の『田園簿』に、既にその名があり、村高は五一石余で全て畑であったことが記されています。
『新編武蔵風土記稿』(巻之三十四・葛飾郡之十五・松伏領) には、
◎樋堀村❲附持添新田❳
樋堀村は 江戸より行程九里余 民家十六 東西七町余 南北二町余 東は牛島村 北は樋篭村 南は古利根川を越て埼玉郡粕壁宿なり 用水の便なく専天水を頼めり 外に持添の新田あり 寛延ニ年吉田源之助 稲森勘右衛門糾して 御料所となれり
とあります。江戸時代後期に幕府の御料所になりました。
※寛延ニ年:1749年。第九代将軍家重の時代。
※持添新田:新開地で反高はあるが村居の農民が不在の土地。出作するために拓いた新田。
※御料所:幕府の直轄地
また、『武蔵国郡村誌』に、「稲麦に宜し水利便にして時々水害に罹る」と記されているように古くは農業地帯でしたが、時々水害もあり、そのため「倉松落大口逆除」のような逆流防止装置(樋門)が設置されました。
その農業地帯も昭和三十年以降、宅地化が進み、現在では、その面影はなく、ほとんどが住宅地域となっています。
※『埼玉県地名誌 名義の研究』(韮塚一三郎著 北辰図書 1969):『新編武蔵風土記稿』、『武蔵国郡村誌』所載の16郡名と約2千の宿町村名の名義の研究をまとめたもの。項目が市町村別になっており、各市町村にある地名の起源や由来が掲載されています。巻末に索引あり。(『国立国会図書館レファレンス協同データベース』)
※『田園簿』:『武蔵田園簿』は『正保田園簿』とも呼ばれ、正保国絵図の郷帳の案であるとされている。幕府は正保元年(一六四四)に全国に国郡図と諸城図の作成を命じている。このうち武蔵国図の作成は慶安二年から三年にかけて行われていると考えられている。『武蔵田園簿』からは、村名・村高・田高・畑高・領主名および支配高を知ることができる。(『宮代町史民俗編』)
※『新編武蔵風土記稿 全12巻、索引編』(蘆田伊人編集 校訂 雄山閣 1996): 徳川幕府が文化7(1810)年~文政11(1828)年に編纂した武蔵国の地誌。各村にある山、川、寺社なども掲載され、当時の村の状況を知る上で欠かせない資料。由来が掲載されている地名もあります。(『国立国会図書館レファレンス協同データベース』)
※『武蔵国郡村誌 全15巻』(埼玉県編 埼玉県 1953-1955):明治8(1875)年の太政官布告により全国で行われた地誌編纂により、埼玉県が地理寮に提出したもの。明治初期の各村の状況がわかります。(『国立国会図書館レファレンス協同データベース』)
そして、その樋堀地区にあるのが、
◆樋堀の鎮守「白山神社」( はくさんじんじゃ)
ごく普通の小さな社ですが、白山と言う神社名が気になります。
この神社は、伊弉諾命を祀り、加賀国一宮白山比咩神社(かがのくにいちのみや・しらやまひめ・じんじゃ)の分霊を祀ったといわれています。かなり遠方なのですが、何かご縁があったのでしょうか、もしかして、この白山神社も、「しらやまじんじゃ」と読むのでしょうか。わかりません。
参考:白山比咩 (しらやまひめ)神社
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この白山神社は、樋堀村の鎮守として祀られており、前掲の『新編武蔵国風土記稿』の樋堀村の項に「白山社 村の鎮守なり、正福寺持」と、また、明治九年の『武蔵国郡村誌』には、「平社々地 東西五間一尺六寸八分 南北二十五間 面積百二十二坪 村の西方にあり 伊弉冊命を祭る 祭日二月六日七月六日」とあります。
後編に続く…
【白山神社】
※「埼玉の神社 北足立、児玉、南埼玉」(埼玉県神社庁)を参考にさせていただきました。