かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・春日部八幡神社のパワースポット

2022-08-30 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/07/14・更新日:2022/08/30

神社などには俗にパワースポットと呼ばれる場所があります。もちろん春日部八幡神社にもあります。

春日部八幡神社の境内にあるパワースポットは、なんと言っても境内中央にある御神木の大銀杏でしょうね。今回は、その大銀杏について。

春日部八幡神社の大銀杏

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御神木の大銀杏

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樹齢は約700年?

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昔は3本の銀杏があったとか

伝説

境内にある説明板には、

鎌倉の鶴岡八幡宮の銀杏の木の一枝が飛んできて一夜にして大木になった。

また、春日部八幡神社のサイトにも

参道中央部に空高くそびえる大銀杏は、鶴岡八幡宮の御神木の一枝が飛び来たり、一夜のうちに繁茂したと伝えられています。

とあります。

このようなお話・伝説は、かすかべに限らず、全国各地にも結構あるのではないでしょうか?

でも、一夜と言うのは???

それは後ほど。

御神木に不敬にならないように、少し考えてみました。

◆御神木に銀杏が多い理由

粕壁宿にある神社の御神木には、銀杏が多く見られます。「八坂香取稲荷合社」、「東八幡神社」、それと「秋葉神社」の夫婦松の一方の木は銀杏でした。

確か、東京・浅草の浅草寺境内にも、あの源頼朝が戦勝祈願に訪れて参拝時に挿した枝から発芽した、と伝わる銀杏があった(?)と記憶しています。

それでは、一体何故、神社に銀杏が植えられているのでしょうか?

それは、

  • 銀杏は幹や葉に水分を多く含んでいるため火事に強い「銀杏は水を吹く」とも。
  • 銀杏は油分を含み水はけがよく、材料も均一で加工性に優れ、歪みが出にくい特質を持つので、神社の家具・建具をはじめ、構造材・造作材などの補修材として広範に利用されている。
  • 銀杏の実(ギンナン)は、食料にもなる。ただし、食中毒(銀杏中毒)の危険性も指摘されているので、注意が必要。健康な一般成人では、適切な量であれば食用として安全である。
  • 銀杏の乾葉は防虫剤として用いられる。
  • 喘息等の症状に対する鎮咳去痰作用など薬草としての効力もある。

などなど、多くの説があり、どれもなるほどと、説得力があります。

でも、やはり、神の依代として尊崇の念を持って銀杏を植えたのが一番の理由なのでしようね。

また、

鎌倉から飛んできた一枝

前述のとおり、春日部八幡神社の御神木の大銀杏は、鎌倉の鶴岡八幡宮から飛んできた一枝が一夜にして大木になったと伝えられてきました。

鶴岡八幡宮の大銀杏といえば、樹齢1,000年を超えるとされる鎌倉・鶴岡八幡宮のシンボル的な樹です。 

「七里ヶ浜の磯づたい~」で始まる文部省唱歌「鎌倉」にも「由比の浜べを右に見て雪の下村過行けば、八幡宮の御社。上るや石のきざはしの左に高き大銀杏〜」と歌われていました(古いなぁ)。

また、この大銀杏は、鎌倉時代に、三代将軍源実朝の暗殺の舞台になったとも伝えられ、「隠れ銀杏」と呼ばれていました。

ところが、この鶴岡八幡宮の大銀杏、平成22年(2010)3月10日の早朝、強風にあおられで根元から倒れ折れてしまい、当時ニュースになりました。

その後、鶴岡八幡宮に参拝の機会がありましたが、根元だけ残った無残な銀杏を見ました。

でも、鎌倉市民をはじめ、鶴岡八幡宮の関係者の皆さん、そして樹医さんなど専門家のご支援を受け、再生に向けた取り組みが行われ、今は、大銀杏の木は少しづつ元気な姿を取り戻しつつあるそうです。

それにしても、凄い生命力。この生命力こそが、銀杏が神社の御神木として植えられている大きな理由なのかもしれません。

春日部八幡神社の銀杏の木は、鶴岡八幡宮の大銀杏の一枝と言われていますので、鶴岡八幡宮の大銀杏のいわば子孫と言っていいでしょう。

鶴岡八幡宮の大銀杏の倒木の時に、春日部八幡神社の銀杏の里帰りの話しはあったのでしょうか。もちろんそんなことはありませんでした。

◆一夜にして大木にとは

ところで、「一夜にして…」ですが、科学的には、あり得ない話しですよね。食べ物では「一夜干し」、「一夜漬け」などがありますが。

豊臣秀吉の小田原攻めの時の一夜城「石垣山城」が有名ですが、この「石垣山城」は、小田原攻めの際に陣城として築かれた城で、小田原方から気付かれないように小田原城側の山の木をあえて伐採せずに築城し、ほぼ出来上がった時点で、木を一気に伐採することで、あたかも“一夜にして”城が出来上がったかのように見せかけたそうです。やはり仕掛けがあったようです。

◆小説では

そこで、松本清張の小説(『眩人』)の一節を、

〜略〜

旋舞のほか幻術は大夫人をもつともよろこばせた。それは呑刀・吐火・舞剣・植瓜(しょくか)・種棗(しゅそう)などの種目である。

植瓜(しょくか)・種棗(しゅそう)というのは、共いま蒔いた種からすぐに芽が出て幹が伸び、たちまち花が咲き、実が成るという奇術だが、もちろんこれには仕掛けがある。鉢の中に発条(ばね)の付いた造り樹と花と実を隠しおいて、種を鉢の中に蒔くと、たちまち中の発条が伸び、樹木と花実が鉢の中から出現するというしくみである。これは大食国(アラビア)より渡ってきた手品である。〜以下略〜

(松本清張著『眩人』P338、中公文庫)

:大夫人とは、藤原不比等の娘で、文武天皇の后、藤原宮子のこと。

主人公の僧、玄昉が西域(波斯人=ペルシャ)出身の少年・康許生(小説では、後に李密翳(り みつえい)と改名)を伴い唐から帰朝。そして玄昉は、唐で仕込んだ知識と幻術を武器に、朝廷での権力伸張を狙う、と言うストーリー。

なお、李密翳(り みつえい)は、実在の人物で、『続日本紀』に名前の見える唯一の波斯人(ペルシア人)とされています。

大夫人宮子は、子(首皇子=後の聖武天皇)を出産後、心の病となりましたが、ある方法によって劇的に回復します。

引用した箇所は、大夫人を慰めるための幻術について語るシーン。

(うり)とか棗(なつめ)の話なので、銀杏とは直接関係はありませんが、単純な私は、大銀杏にもきっと何らかの仕掛けがあったのに違いないと想像(妄想かも)しています。

また、童話の『ジャックと豆の木』ではありませんが、樹木が一夜にして成長するなんて、洋の東西を問わず、見えざる何か? があったのかもしれません。それはわかりませんが。

言い伝え通りとすれば、大銀杏は700年近く春日部八幡神社を守ってきたわけですので、生命力溢れるパワーを感じます。

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これからも、参詣の時には大銀杏に手を当てて、パワーを頂きたいと思っています。

◆参考:

春日部八幡神社の公式サイト
↓↓
春日部八幡神社について | 春日部八幡神社

◆ 参考図書

眩人 (中公文庫)
眩人(中公文庫)

作者: 松本清張・出版社/メーカー: 中央公論社・発売日: 1998/06・メディア: 文庫



日光道中粕壁宿・粕壁宿の鎮守「春日部八幡神社」

2022-08-26 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/07/10・更新日:2022/08/30

粕壁宿には、春日部八幡神社、東八幡神社、元新宿の八幡神社と八幡神社が三社あります。東八幡神社のことは以前書きました。今回は、その内の一社、粕壁宿の鎮守「春日部八幡神社」のこと。

◆春日部八幡神社

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春日部八幡神社

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境内の説明板

 春日部八幡神社

      所在地 春日部市粕壁3597

新編武蔵風土記稿にも粕壁宿の鎮守として掲載されている春日部八幡神社は、元弘年中(1331〜1334)この地域の武将であった春日部氏により、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものといわれている。この神神社は、春日部氏の領地であった新方領(にいがたりょう)の総鎮守であり、その鳥居には「新方荘惣社」の額が掲げられている。天保十一年(1840)の氏子連名帳には、現在の久喜市、杉戸町、白岡町、宮代町を含む五十二ヵ村の氏子三千六十五名を記録している。

 

 本殿後方の高地にある旧本殿は、茅葺き、柱間一・六メートルの流れ造りで、室町期の流れをくむ桃山時代ごろのものと推定され、市内では最も古い建造物として春日部市指定文化財となっている。

 

 参道入口の左側には、嘉永六年(1853)に粕壁宿の名主関根孝煕らが建立した在原業平(ありわらのなりひら)の故事とこの八幡神社の由緒を伝える石碑がある。

 

 また、参道中央の大イチョウには、元弘(1331〜1334)年間に飛来したイチョウの枝が一夜のうちに成長し、参詣人を驚かせたという伝説がある。

 この神社の境内につづく稲荷神社には、通称「浅間山」と呼ばれる高さ八・ニメートル、周囲ニ百メートルにも及ぶ、この辺りでは最も大きい富士塚がある。この富士塚は、江戸時代に隆盛を極めた富士講による富士信仰の対象として築かれたもので、弘化ニ年(1845)に行われた修復工事には、粕壁宿はもとより、幸手領、岩槻領からも大勢の信者が集まったと記録されている。毎年七月一日の初山には、市内各地より赤子を抱いた母親が、子育ての無事を祈ってこの富士塚を訪れている。

  

  昭和六十一年三月 

         

              春日部市

この説明板は、設置後30年以上経っていますので、少し補足を。

白岡町は現在の白岡市。また、市内で最も古い建造物とされた旧本殿は、平成7年11月5日、不審火(放火?)により、残念ながら焼失してしまいした。

また、元弘年中と言えば、元弘元年(1331)後醍醐天皇によって起こされた政変。いわゆる「元弘の変」があった時です。

「元弘の変」は、鎌倉幕府滅亡の直接のきっかけとなったともいわれています。そのような時に鎌倉から八幡神を勧請するとは、よほど鎌倉幕府に忠誠を誓う必要があったのか、それとも戦に備えて八幡神に頼ったのか…。わかりません。

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郷社 八幡神社

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安政5年(1858)再建の鳥居 

安政5年と言えば、いわゆる安政の大獄があった年です。なお、この鳥居には「新方荘惣社」と刻まれた額があるとのことですが、いつ見ても額の文字はよく見えません。

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春日部八幡神社御社殿御末社案内図

◆ご祭神

  • 誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)
  • 息長足姫尊(おきながたらひめのみこと)(神功皇后)
  • 武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)
  • 豊受姫命(とようけひめのみこと) 

の四柱。

武内宿禰命は、景行天皇から、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇そして仁徳天皇までの5代の天皇に仕えた忠臣とされ、300年以上も生きたと言われています。三遊亭金馬師匠も朝鮮半島遠征から帰還した神功皇后を宇佐で出迎えた、と。いくら長命と言われも、300年とは、、、。

それぞれの天皇に仕え、似たような事績を残した何人かの人物を、一人の人物に統合して武内宿禰像をつくりあげたのでは、とも考えられ、そういう説もあるようです。

なお、この武内宿禰は、春日部氏の祖先紀氏の祖(おや)ともいわれています。そのため、春日部市内にある八幡神社には必ず祀ってあるとのこと。

豊受姫命の神名、「豊受」の「ウケ」とは食物のことで、食物・穀物を司る女神で伊勢神宮外宮の神様で知られています。天照大神の食を担った神。

『新編武蔵風土記稿』には、 

宿の鎮守なり、元禄年中、別当玉蔵院の住僧の書せし縁起に、昔元弘中新田左中将義貞の家臣春日部治部少輔時賢なるもの当所を領し多年相州鶴岡八幡を敬信し屡霊護を蒙りしゆへ遥拝の為則鶴岡を写してここに勧請すと云、因って昔は新方の惣鎮守にて社宇荘厳を尽くせしに其後遥かの星霜を歴て屡盛衰在りしが、今は又社殿備り頗る旧観に復す。末社弁天云々

と記されている。 

『武蔵国郡村誌』には、

八幡社「郷社」字浜川戸にあり、近郷数十ヶ村の総鎮守なり、誉田別尊を祭る。祭日九月十九日。相伝ふ元弘中新田左中将の家臣春日部治部少輔時賢なる者当所を領し多年相州鶴岡八幡を敬信し屡霊護を蒙りしゆへ遥拝の為鶴岡に擬して、此処に勧請すと云域内大杉古松等繁茂せり就中社前にある大銀杏二樹(元は三樹ありしが一本は近古枯れたりと云ふ)は鎌倉より飛び来ると云ヘり而して社宇は頗る荘厳を尽くせり。

ご神木のイチョウのことも記されています。古くは3本のイチョウのがあったようです。 

また、前出の説明板にある

『春日部八幡宮氏子連名帳』【八幡神社所蔵文書】には、

武蔵国埼玉郡新方庄八幡宮は、鎌倉大将軍旗下の大名春日部氏世々に居城の域地古隅田川を後にして大場沼・谷原沼を前に当たり一座の砂山杉松の古木鬱蒼たる処に鎮座ましまし新方四十余郷の宗祠にして城主の氏神と尊宗し奉る神社なり、境内除地壱町歩余其外免地の末社四方に羅列し毎年六月角力会・八月放生会・九月の神事月々朔望の神楽連綿として今に相続す。

6月には奉納相撲が、また8月には放生会が行なわれていたようです。

なお、放生会(ほうじようえ)とは、仏教の殺生戒(五戒)の思想に基づいて行われる鳥獣や魚を放つ宗教儀式。全国の寺院のほか、八幡神(八幡信仰)を祀る神社を中心に行われており、宇佐八幡宮や石清水八幡宮などの放生会はよく知られています。

奥の院

以前、市の指定文化財であった奥の院(旧本殿)は、前述の通り、平成7年11月に不審火により焼失しましたが、翌年(平成8年)に地域の人々の力により、復興・再建されました。

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奥の院参拝通路
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さらに…

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到着…

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焼失前の社名碑

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奥の院

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奥の院復興記念碑

春日部八幡神社の公式サイト

↓↓

春日部八幡神社について | 春日部八幡神社



参考・引用

  • ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎著/1996
  • 『春日部市の文化財』春日部市教育委員会 1979/12/01


日光道中粕壁宿・八幡さまは面白い

2022-08-22 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/07/06・更新日:2022/08/22
前回は、春日部八幡神社の入り口に建つ都鳥の碑について書きました。せっかくここまで来ましたので、その「春日部八幡神社」のことを。

とその前に、今更ですが、八幡神社、八幡さまって一体どんな神様なの? から。

庶民的な神

八幡神社は、八幡さまとか八幡さんと呼ばれ親しまれています。子供の頃、近くの八幡さまの境内でよく遊んでいました。お祭りもありました。

その八幡神社は、分祀も含めて全国に3〜4万社あるのことで、お稲荷さま(稲荷神社)に次いで、二番目に数が多い神社と言われています。日本全国どこの町や村に行っても出会う神さまです。

戦前までは、武神として崇められてきましたが、戦後は、平和の観念のもと、交通安全から学業成就、縁結びなど所願成就の神として、庶民的で親しみやすい神さまとしてすっかり定着しています。

古典落語の世界では

私は、八幡神社と聞くと、『紀州』という落語での三代目・三遊亭金馬師匠「まくら」(話しの前振り)を思い浮かべます。

三代目・三遊亭金馬師匠は、眼鏡を掛け、前歯が少し出ている個性的な風貌の古典落語の名人です。

『紀州』という落語は、徳川第七代将軍家継が7歳で亡くなり、その跡目として御三家の尾州公と紀州公が打診されるが、結局、紀州公の吉宗が八代将軍になるというお話。そして、「キシュー」という鍛冶屋の音が話のオチ。

金馬師匠は、「人間の命の短さから、母の胎内に一日でも長くいると賢い子になる、一番長くいたのは、三年三ヶ月もの間、母(神功皇后)の胎内にいたとされる応神天皇という具合に話を進めます。 

朝鮮半島遠征から帰国した神功皇后を武内宿禰が九州の宇佐で出迎え、無事、応神天皇が生まれます。応神天皇誕生に因む宇瀰(うみ)、嬉野(うれしの)の地名譚や屋根を菖蒲で葺く由来などなど(もちろん真偽の程わかりませんが)、金馬師匠の流れるような語り口に「ふ〜んそうなんだ」と妙に感心納得していました。

そして、応神天皇が母の神功皇后共に戦い強いということから、総本社の宇佐八幡宮(大分県)の御神体として、「弓矢八幡大武神」と崇められ、宇佐八幡宮から男山(石清水)八幡宮(京都府京都市)を中継し、源頼朝により鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)へ、そして、徳川家康により、江戸・深川の富岡八幡宮(東京都江東区)へと話しをつないでいきます。最後に八幡神社を最も篤く信仰したのは徳川家康、と「まくら」をまとめ、落語の本題に入ります。

◆八幡信仰

前述の通り、日本では、分祀を含め、稲荷神社に次いで八幡神社が多いとされています。 

八幡信仰は、金馬師匠の話の通り、九州・大分県宇佐市にある宇佐八幡宮から日本全国に広まりました。

古代の宇佐地方は、瀬戸内海方面と大陸や朝鮮半島との中継地として重要な立地にあり、そして、その他を拠点とする宇佐氏という地方豪族(首長)の本拠地でもありました。

宇佐氏は航海民(海人族とも)と言われ、漁業や航海に長けた人々でした。宇佐氏は、自分たちの祖先神として海人を祀っており、後にその神が八幡(やはた)の神と呼ばれるようになったとされています。八幡(やはた)「八」は大数で「多い」という意味で使われ、船に多くの大漁旗が立てられている様子を表す言葉と言われています。

また、古代の宇佐地方は、秦王国があった地域とも言われています。そのため「旗」は「秦」ではないか、という説もあり、秦王国との関わりを指摘する方もいます。

大和朝廷との関わり

宇佐の神が八幡神として信仰された経緯は、はっきりしていないようですが、4世紀頃、大和朝廷は九州を支配するため宇佐氏の力を重要視し、そのために宇佐の神を祀る宇佐八幡宮を重んじるようになったと言われています。

また、奈良時代の東大寺建立の際、宇佐八幡宮の巫女に「奈良に赴き大仏づくりを助けたい」という神託が下ったことを受け、聖武天皇は、この神託に大きな力を得て、大仏建立を成し遂げました。そして、奈良の都に手向山(たむけやま)八幡宮を建て、皇室が八幡神を祀るようになったと言われいます。

主祭神は

宇佐八幡宮の主祭神は、和風諡号が誉田別命(ほんだわけのみこと)・第15代天皇の応神天皇、母神の息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)神功皇后、そして、比売大神(宗像三女神)です。全国にある八幡宮・神社も主祭神は応神天皇です。いずれにしても、誉田別命よりも漢風諡号の「応神天皇」がよく知られています。

宇佐八幡宮には、6世紀の欽明(きんめい)天皇(539〜571)の御代、宇佐神が神職に「われは応神天皇である」というお告げを下したとする言伝えがあり、以来、八幡神が応神天皇であるとされました。もっともその当時、応神天皇と言う名前はありませんから、誉田別命ですが。

◆武士の信仰

しかし、その言伝えは平安時代後期にできたものと思われる、とする説もありますので?! 話しはややこしいですね。

それでは、何故、八幡信仰が全国に広まったのでしようか?

平安時代後期、武家の棟梁である清和源氏の八幡信仰が高まった時代がありました。勇名で知られた源義家(みなもとのよしいえ)は、京都・男山の石清水八幡宮で元服し、自らを「八幡太郎義家」と称しています。このように源氏が、八幡神と朝鮮半島遠征にまつわる応神天皇とを結びつけたと考えられます。

更に、清和源氏の源頼朝が鎌倉幕府を開き、鶴岡八幡宮を信仰したことをきっかけとして、鎌倉幕府の麾下の武士の間に、幕府に忠誠を誓う意味もあり、国家鎮護や家運隆盛をもたらす神として、八幡信仰が一気に広まっていったと考えられます。そして、全国にも。

私もコロナ禍前の正月には、「春日部八幡神社」に初詣に行っていました。地元の高校野球の強豪校なども県代表校として甲子園大会に行く場合甲子園球場に出発前には必ず必勝祈願にお参りすると聞きました。

ところで、ちょっと横道に、

◆邪馬台国は宇佐にあった?

私は、「宇佐」と聞くと、推理小説家の高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』という小説を思い出します。

同氏の『成吉思汗の秘密』は、源義経は成吉思汗である、という大変インパクトのある結末で、確か高校生の頃読みました。また、学校(高校)で著者の高木彬光氏の講演を聴いた記憶があります。

そして、その後出版されたのがこの『邪馬台国の秘密』

宇佐大神宮の御祭神は応神天皇神功皇后比売(ひめ)大神の三柱で、中央の社が比売(ひめ)大神。後年、大和朝廷が宇佐大神宮を伊勢神宮より重視したという記録があることから、比売大神即ち卑弥呼説?を展開しています。

入院加療中の名探偵・神津恭介(かみづ・きようすけ)と友人の推理作家・松下研三(まつした・けんぞう)が、『魏志倭人伝』をもとに、邪馬台国はどこにあった? 女王・卑弥呼とは?という謎に果敢に挑戦するストーリー。主人公は入院中で、ベッドの上で様々な推理(ベッド・ディテクティヴというそうです)を働かせ行きます。

そして、邪馬台国は宇佐にあった、卑弥呼は比売大神ではないかと推理し、更に、神功皇后は卑弥呼の孫(原文のママ)壱与に比定しています。

とすると、応神天皇は壱与の子?そして、応神天皇は異民族の血をひく君主とも。あくまでも高木彬光氏の説ですが。当時、ワクワクして読んだ記憶があります。また、結構、話題にもなり、確か、いろいろと論争もあったと記憶しています。半世紀も前のことですが。

なお、『古事記』(中村啓信=訳注、角川文庫)の解説で、

神功皇后という人物が注目に値するのは、母が葛城之高額比売(かずらきのたかぬかひめ)であることである。ちなみに父は息長宿祢王(おきながすくねのみこ)で、第九代開化天皇(かいかてんのう)の皇子日子坐王(ひこいますのみこ)の血を引く。この高額比売は早く我が国に渡来した新羅王の子天之日矛(あめのひほこ)の六代の孫、多遅摩比多詞(たじまひたか)の娘であり、『古事記』は「これは息長帯比売命の母君である」と注もつけている。つまり帯比売は確かに新羅王統の血を引くという。しかし、世系は遠く隔たり王族とも言えない。以下略

(新版古事記 現代語訳付き 中村啓信=訳注 角川文庫15906)

と書いてあります。やはり新羅王の血統なのでしようか??

しかし、

邪馬台国を研究している考古学者はいない?

以前(8年程前)、奈良大学のスクーリングを受講した際、考古学者の酒井龍一教授(当時)は、「考古学者で邪馬台国を熱心に研究している考古学者は皆無である」と仰っていました。「何しろモノの史料が全くありませんので」と。そういうことなのでしようね。 

すみません、落語から推理小説まで、かなり散らかってしまいました。春日部八幡神社のことを書く前にいろいろ遊んでみました。

次はいよいよ春日部八幡神社のことを。



参考書籍等 Amazonより

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邪馬台国の秘密 改稿新版 (角川文庫 緑 338-51)

邪馬台国の秘密 改稿新板 緑(角川文庫 緑 338-51)/作者:高木彬光/出版社・メーカー KADOKAWA/発売日:1979/04/メディア: 文庫

新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

新版 古事記 現代語訳付き(角川ソフィア文庫)/出版社・メーカー:KADOKAWA/発売日:2014/03/06/メディア:Kindle





日光道中粕壁宿・春日部八幡神社の「都鳥の碑」

2022-08-18 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/06/18・更新日:2022/08/18

前回書いた記事中の大落古利根川のユリカモメ(都鳥)に因む石碑について、

◆市指定有形文化財「都鳥の碑」

2019年3月26日春日部市有形文化財(歴史資料)に指定された「都鳥の碑」(みやこどりのひ)春日部八幡神社参道入口の鳥居の脇に建っています。碑文は読み難いですが、ご紹介します。

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左側が文化財に指定され石碑

◆都鳥の碑

名称

都鳥の碑

員数

1基

所在地

春日部市粕壁字浜川戸5597番

所有者

宗教法人 八幡神社

概要

本資料は、在原業平(ありわらのなりひら)の隅田川の伝承などを伝えるため、1853年(嘉永(かえい)6年)、粕壁宿名主の関根(せきね)氏らによって建立された石碑です。刻まれた和歌や詞書は千種有功(ちぐさありこと)によるものであり、当時名のある歌人であった京都の公卿(くぎょう)と粕壁宿の住民に国学に関する交流があったことがうかがえることから、粕壁宿民らの文化活動の広まりとその成果の反映といった文化史的な価値が認められる資料です。また、碑の内容が地域を流れる古隅田川に関わる伝承であることや、中世の武士である春日部(かすかべ)氏に関わる春日部八幡神社の由緒を伝えることから、地域の伝承の継承に寄与した資料であることも評価できます。(『春日部市広報』より)

春日部八幡神社表参道入口の左隅に建立されている碑(高さ3. 37㍍、幅1.8㍍の石碑)を「都鳥の碑」といい、江戸時代末期に建立されたもです。

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現地の説明板には

「都鳥の碑」について

 

「名にしおばはいざ言問はん都鳥

   わが思ふ人はありやなしやと」

この歌は、在原業平(平安初期の歌人)が奥州を旅をしたとき、武蔵国と下総との境にある隅田川の渡しで詠んだものである。往古当神社の辺りが両国の境になっており、奥州への通路にもなっていました。この石碑は、その故事を後世に伝えんと、江戸末期嘉永六年(1853年)粕壁宿の関根孝凞が千草正三位有功に依頼し由緒をあらわしたものです。

この「都鳥の碑」を建立した関根(旧姓多田、明治期に関根に改姓)孝凞は、江戸末期、幕末時の粕壁宿名主の関根次郎兵衛孝凞(安政4年5月21日没75歳)のこと。

関根次郎兵衛孝凞は歴史を研究、また書をよくし、粕壁宿近郷にも次郎兵衛の書いた碑文が散見されます。粕壁宿の道標にもその名が刻まれています。

次郎兵衛の子八郎孝純氏(粕壁町初代町長の多田亀十郎氏のこと)も父親と同じく歴史、書を好み多くの事績を残しています。

また、この碑の右側には道標石が、

「参道入口道標石」について

当神社前の道路は、往古下総国より武蔵国向かう鎌倉街道の道筋であり、数多くの歴史が刻まれれてきました。

この道標石は、これまで金山の踏み切りの先、三叉路に当神社の「参道入口道標石」として建立されていましたが、自動車によって倒壊することが多く安全のため去る平成九年二月にこの参道に移設しました。

とあります。

因みに

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金山踏み切り 参道入口道標石の跡が
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参道入口道標石があった跡が残っています。

都鳥の碑の碑文

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表面はこんな感じ、 私には読めません。

実は、次のように刻まれています。

表面

隅田川は むさしと下つふさ(下総)の國の界なり 陸奥に往きかふ道にあたる所を 春日部のうまや(駅)といふ 在原中将の いざこととはん都鳥とよめりし跡ながら ふち(淵)とかはりて 今小川となり むかしのわたりは岡となりしが 元弘の年さが美の国鶴岡の銀杏の一えだ(枝)飛来りて、ひとよ(一夜)のほどの おひ(生)たちけり、其神木のもと(元)に鎮りいます(在)神のみいづ(御稜威)の、いやましに 幸ひ給へる みやしろ(御社)のあたりぞ いざ舟にのれと云ひけん 昔の名残なりけリふ

      

     正三位 有功

 

とはれつるあとだにとめよ都鳥
   むかしは遠きわたりなりとも

 

神垣にたてるひと木をためしにて

   千々にさかえん春日部の里

( 『春日部の文化財』1979.12.1 春日部市教育委員会)

なかなかの名文です。表面に、確かに「正三位 有功」の文字があります。

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裏面は茂みがあり撮影は断念。

裏面には、次のように刻まれているようです。

裏面

新方四十余郷惣社春日部八幡宮は 旧領主春日部治部少輔時賢(かすかべじぶしょうゆときかた)主 隅田川の岡に造立せられたる所なり こたび千種殿に乞い奉りて詠歌を碑面に彫刻す 又放生会再興の為に高田貳反五畝三歩を寄付して永て永世に伝ふる者なり

   嘉永六年五月立
放生祭事いははら住る人々

 

関根八郎以下30名

『春日部の文化財』1979.12.1 春日部市教育委員会

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微かに嘉永六年五月の文字が見えます。

◆千種有功

この都鳥の碑文を書いた千種源有功(ちぐさ みなもとありこと)は堂上公卿で、正三位千種有条の次男、八代目当主。寛政8年11月9日(1796.12.7)生まれ、嘉永7年8月28日(1854.10.19)没。兄有秀の跡をうけて家を継ぎ、左近衛中将正三位に任叙した。和歌に優れて四条派の画をよくし、洒落(しゃらく)な人柄で、また、刀剣の収集家としても知られた人物だったそうです。「都鳥の碑」が建った翌年にお亡くなりになっています。

なお、東京の須賀神社(東京都新宿区須賀町)に肖像・大岡雲峰画、歌・千種有功筆の三十六歌仙図が社宝として残っており、新宿区の指定文化財(絵画)に指定されています。

↓↓

須賀神社の三十六歌仙絵-新宿歴史博物館

※堂上公家とは、公家の家格の一つ。御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄。

また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族とも呼ばれる(Wikipedia)

◆最後に

確かに、幕末の頃、粕壁宿の名主と京都の上級貴族(公卿)との交流があったことはとても興味深いですね。

千種有功は歌人であり、和歌に優れていたということですので、業平の故事ことも良く知っていたのでしよう。

そして、京都の上級貴族(公卿)で著名な歌人の千種有功に詠歌を頂き、業平の故事に因んで碑を建てることは、当時の粕壁宿人々にとっては、とても誇らしいことだったのでしょうね。

この碑が残されていることで、地域の伝承が永年受け継がれてきたことを考えると、市の文化財としてもう少し早く指定されても良かったような気もします。

地域の貴重な文化財を大切に護り、次代に受け継がれていくことは、今を生きる私たちの大事な責務なのかも知れません。

【春日部八幡神社】




日光道中粕壁宿・大落古利根川の主役ユリカモメ

2022-08-14 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/01/18・更新日:2022/08/14

今回は、粕壁宿に沿って流れる大落古利根川と毎年晩秋から冬にかけてそこに飛来する渡り鳥について書いてみます。

橋上の公園

大落古利根川に架かる「古利根公園橋」

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この橋は、昭和59年(1984)に春日部市市制30周年を記念して造られた日本でも珍しい橋上公園です。全長は79メートル。

そしてこの大落古利根川やその周辺に晩秋から初冬にかけて大陸から飛来する渡り鳥が主役のユリカモメです。

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主役は、君、ユリカモメ!!

でも、何故一羽なの? もしかして、名前は、ジョナサン? それとも、“ヒトリ”という鳥かな?

因みにジョナサンとは、1970年代に公開されたハリウッド映画『カモメのジョナサン』のあのジョナサンです。仲間と離れて交わらない孤高のカモメ、ジョナサン。内容は忘れましたが、タイトルだけは今でも覚えています。 

そう言えば、「やもめのジョナサン」というのもありました。

菅原文太さん主演の映画『トラック野郎』シリーズでキンキンこと愛川欽也さん演じる、相棒の“やもめのジョナサン”、と言う架空の人物です。でもジョナサンには、奥さん(確か春川ますみさんが演じていました、それに子沢山)がいましたよね。なのに、何で“やもめ”なんでしようか?

やはり、カモメのジョナサンからパロった(パロディ化した)んでしようか。わかりません。

因みに、この『トラック野郎』というタイトルですが、当時流行っていた映画『男はつらいよ』シリーズで、渥美清さん演じるフーテンの虎さんに対抗しようと、トラを食う(凌ぐ)という意味で、トラを食う野郎、つまり『トラック野郎』としたのだそうです。文太さんが亡くなった時の追悼番組で知りました。制作の方は、よほどパロディが好きだったんですね。

前振りが長くなりましたが、本題に入ります。

春日部市の市鳥(市長ではありません)は、ご存知の通りユリカモメです 。因みに東京都の鳥もユリカモメ。

また、ユリカモメは漢字で「百合鴎」と書くカモメ科の鳥です。色が百合の花のように白いから「百合鴎」とする説、河口の入り江に多く生息しているので、入り江のカモメが転じてユリカモメとなり、花の百合の字が当てられ「百合鴎」となったとする説など諸説あるそうです。なお、カモメ、シロカモメ、セグロカモメ、ウミネコなども仲間の鳥だそうです。

ところで、

「名にし負はばいざ言問わむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」  

(なにしおはば いざこととわんみやこどり わがおもふひとはありやなしやと)

有名な『伊勢物語』や『古今和歌集』にある歌です。その『伊勢物語』(九段・東下り)には、その鳥は、「白い鳥で、嘴(くちばし)と脚(あし)が赤い」とありますので、業平が見た都鳥は、やはりこのユリカモメだったのでしょうね。この由来に関する石碑が、春日部八幡神社の入り口に建っています。

公園橋の少し上流にある新町橋のすぐ上流に左から合流しているのが「古隅田川」、大落古利根川に合流(ただし、昔は流れる方向が今と逆だったとか)しています。文字通り“古い隅田川”なので、もしかしたら、在原業平朝臣もこの辺にきたのかなあ、と考えると、春日部市民としては、ロマンが膨らみます。 

また、松尾芭蕉35歳の時の句に、

「塩にしてもいざ言伝えん都鳥」

(しおにしても いざことづてん みやこどり)

という句があるそうです。

都(京都)に帰る俳人仲間に対する餞別の意味で読んだ句とのことで、都へ帰る友に、「都鳥を塩漬けにしてでも持って帰ってください」、と言う意味だそうです。芭蕉にかかるとユリカモメは、塩漬けにされてしまうのですね(もちろん比喩だと思いますが)。

この句は、先の歌をパロった(パロディ化)もの、と言われています。それにしても、洒脱な句ですね。

芭蕉も当然、『伊勢物語』や『古今和歌集』を読んで知っていたということで、とても興味深いですね。

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欄干の上はラッシュ状態 押さないで、ハイ整列 番号! 1 2 3 …

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こっちにも、 欄干は、君達の“落としも”ので少々汚れ気味、お帰りの節は、綺麗にしていって下さいね。

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ふうーっ、風が強くて疲れました。

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よっ、ご両人.!

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川面には、大勢のユリカモメ固まっています。もしかして、ユリカモメのミナサン(ジョナサンではなく)ですか?

大落古利根川のユリカモメは、11月中旬頃に、遠く、ユーラシア大陸、カムチャッカ半島の方から日本に飛来して、3月初旬頃には、再び彼の地へ飛び去って行きます。

滞在期間は長くはありませんが、冬の風物詩として、市民を癒やしてくれます。見ると本当に癒やされます。

◆姿を見せず

ところが、新型コロナウィルス感染症のパンデミック以来、当地春日部の大落古利根川近辺には、その姿を全く現しません。 

まさか、渡航自粛があるとは思いませんが、新型コロナと関係あるのでしょうか?

今年こそと思いつつ、まもなく3度目の秋、冬を迎えます。行動制限も解除されている現在、その白い姿を見せて欲しいと願っています。