この牛島の藤がある「藤花園」(とうかえん)は、もともとは、「蓮花院」(れんげいん)という真言宗のお寺でした。廃仏毀釈の影響などで明治7年に廃寺となり、その後、何人かの個人の方が所有、現在は所有する小島家の有限会社藤花園さんにより管理・公開されています。
なお、郷土史家の須賀芳郎氏によれば、
この藤は「野田フジ」の一種で花房は、2㍍ほどの長さになります。樹齢は1200年以上で、伝説では弘法大師のお手植えともいわれています。
昭和30年、国の特別天然記念物に指定された「藤花園」は、蓮花院跡と伝えられており、藤の所有は蓮花院(廃寺)から田中源太郎氏、藤岡氏へと移り、現在は小島すい子氏が管理しています。
明治33年5月発行の「粕壁藤の紫し折おり」に、大和田建樹が「牛島の藤」と題し、紀行文を寄せていますが、その一節に「藤は一つの幹より枝さしひろがり、長さ18間、幅5間の棚にぞ作られたる。それより幾千幾ともなき花房氷柱の如く滝波の如くしな垂れて。下いく少女の顔に映つしあいたるさますべていふべくもあらず。桜は吉野といへど。梅は月瀬といへど藤の名所はまだ知らぬを、あにおもはんや帝都を去る十里の地にして此見ものあらんとは花房の長さ去年に劣れりといえど。なお4尺はあるべし、300 年来の木なりというも遠くはたがはじとぞ思う。」と讃美しています。
詩人三好達治の詩集の中にも「牛島古藤歌」があり、その一節にも
ゆく春のなかき花ふさ
花のいろ揺れもうごかず
古利根の水になく鳥行々子啼きやまず
メートルまりの花の丈
匂ひかがよう遅き日の
つもりて遠き昔さへ
何をうしじま千とせ藤
はんなり、はんなり
とあります。
昭和初期の長谷川零余子は、
人の世のいさかいは知らず藤の花
人の目に藤たれて虻のうなりかな
と牛島の藤を詠んでいます。
(引用:ふるさと春日部『かすかべの歴史余話』須賀芳郎/著 1977年~)
と書かれています。多くの詩人や俳人が訪れて詩や俳句を残しています。
なお、現在の園長は小島喜久雄氏。
※大和田建樹(おおわだ たけき)=『鉄道唱歌』『故郷の空』などで知られる明治期の詩人、作詞家、国文学者。
※三好達治(みよし たつじ)=昭和期における古典派の代表な詩人、翻訳家、文芸評論家。
※長谷川零余子(はせがわ れいよし)=明治から昭和初期にかけて活躍した日本の俳人。
※「はんなり」とは、上品ではなやかなさまを表現する言葉。
なお、現在の園長は小島喜久雄氏。
◆新一万円札の顔も
下記のブログによると詩人や俳人の他、昨年2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公渋沢栄一翁が今から110年前の明治45年(1912)4月28日、講演で来訪の際、牛島の藤をご覧になったそうです。
↓↓
大阪市福島区野田はノダフジ(野田藤)と呼ばれる藤の名所で、牧野富太郎による命名のきっかけとなった。同区玉川の春日神社には、野田の藤跡碑がある。(wiklpedia)
※牧野富太郎(まきの とみたろう)=「日本の植物学の父」と言われた著名な植物学者。
なお、この野田藤は、今でも牛島の藤(埼玉県春日部市)、春日野の藤(奈良県奈良市春日大社)と共に日本の三大名藤の一つとされています。
その一方、「野田藤」の原産地は、はっきりしないとも言われています。いずれにしても野田市(千葉県)ではないことだけは確かなようです。
最後に、
とその前に、園内には、
花壇と
躑躅
◆牛島の地名
牛島の地名について少々、郷土史家の須賀芳郎氏は、
ウシジマはウチ(内)ジマの意とみられ、シマには「川添いの耕地」「村」などの意がある。おそらく川荒れによりおこった地名。(「埼玉県地名誌」)
また、小野文雄氏(春日部市史監修者)は自身の著書「埼玉県の歴史」の中で「國府への道(古道)は、武蔵國は東山道に属しており東山道から國府までの五駅の一つである浮島の駅(うまや)の地で、後に牛島と変化したのではないか」と述べています。
と書いています。興味深いですね。
なお、牛島の地名については、後日改めて。
◆ぷらっとかすかべ
春日部駅東口にある春日部市の情報発信館「ぷらっとかすかべ」にはこんなコーナーもありました。
藤は春日部市の花ですから、この時期は多くの方がお見えになります。