かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・業平朝臣が隅田川で都鳥を見た季節(後編)

2022-09-28 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/06/28•更新日:2022/09/28

…前編からの続き

都鳥を見た季節

ところで、業平朝臣が「東下り」の時、武蔵国と下総国の国境の隅田川の渡し場で、都鳥を見たとされる季節は一体いつなのでしょうか? 

どうでもいいことですが、とても気になります。

都鳥をユリカモメだとすると、隅田川の水面にいるのは、晩秋から早春(3月頃?)までだと思います(古利根川の場合はそうです)。

第九段の前半で、愛知県八橋で杜若(かきつばた)の花を織込んで、

  らころも 着(き)つつなれにし

   つましあれば るばるきぬる

      たびをしぞ思ふ

『新版 伊勢物語』(石田譲二=訳注、角川文庫466)

と詠んでいます。

杜若(かきつばた)という花は5月の上旬〜中旬に咲く花です。

それから、駿河の宇津の山(現在の静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境にある峠)で富士の山を見て、歌を詠み、五月のつごもり(晦日)に、富士山には雪が白く残っていると書かれていますので、五月末には駿河(静岡県)にいたことになります。旧暦の五月末は、新暦だと七月初旬でしょうか。

そして、武蔵国と下総国の国境にある隅田川の渡し来たのは、その後ということになりますので、六月に入ってから。当然、旧暦ですので、新暦だと、八月の初め頃でしよう。

そうすると、いわゆる冬羽(頭部が白い)のユリカモメ隅田川にはいないことになりますが。

もし、いたとしても夏羽は頭部が頭巾をかぶっているかのような黒褐色になるといわれますので、「白き鳥」には見えないと思います。

芭蕉に随行した曾良の随行日記のように書いてあれば別ですが、『伊勢物語』はあくまで「歌物語」であり、「紀行文」ではありませんので、日時を追って書いてあるわけはないと思います。後の編集や増補があったのでしょうか。

もしかしたら、隅田川に至る間、いろいろな土地を巡り、晩秋から初冬に武蔵国と下総国の国境に来たという解釈も成り立ちますが、そうするとその間は何処に?と、また疑問が生じます。まあ、それはないでしょう。

伊勢物語と古今和歌集

なお、前掲書の補注で、訳者は、既に歌が古今和歌集等に載っていることなどを踏まえて、

〜略

諸種の点から見て、四段および九段の八橋と都鳥の両条が先に存在し、初冠本の成立した時に、宇津の山と富士の山との両条が加えられて、現在見るような九段が構成されたものであろう。以下略〜

と注釈されています。

初冠本=伊勢物語の写本のうちで、「昔をとこ初冠(ういかうぶり=元服)して〜」という段から始まっている写本を「初冠本(ういこうぶりぼん)」という。なお、「昔をとこありけり、伊勢の国に狩りに使ひに行きけるに〜」の段から始まっている写本を「狩使本(かりつかいぼん)」という。 

確かに、「かきつばた」と「都鳥」の歌は、古今和歌集に、「かきつばた」の歌は410番、「都鳥」の歌は411番として載っています。

古今和歌集の都鳥の歌「411番」の詞書(ことばがき)には、

武蔵の国と下総(しもつふさ)の国との中にある隅田川のほとりにいたりて、都のいと恋しうおぼえければ、しばし川のほとりに下りゐて、思いやれば限りなく遠くも来にけるかなと思いわびてながめをるに 〜以下略〜

『新版古今和歌集』(高田祐彦訳注、角川ソフィア文庫)

となっており、下線の「下りゐて」の部分の註釈として、「馬を下りて座って」と書いてあります。業平朝臣はどうやら馬に乗って旅をしていたようです。

『伊勢物語』には、そのような記述はありませんので、てっきり徒歩で旅をしていたとばかり思っていましたが、馬に乗っていたとは知りませんでした。 

業平朝臣と紀氏そして春日部氏の縁

また、業平朝臣は、当時、妻帯していたようです。「かきつばた」の歌でわかります。業平の妻とされる女性は、紀有常(きのありつね)の娘です。もっとも、妻と言っても平安時代のことですので、単なる愛人かも知れませんが、でも、やんごとなきお方の娘さんですので、やはり正妻なのでしよう。

紀有常のことは『伊勢物語』第十六段に書かれています。有常は、『土佐日記』を書いた紀貫之(きのつらゆき)と同じ紀氏(きうじ)一族。

そういえば、紀貫之はこの『伊勢物語』の作者という説もありますね。

その紀貫之で知られる紀氏(きうじ)は、春日部氏の先祖とも言われています。もちろん時代は全く異なりますが、不思議なご縁といえます。

なお、春日部八幡神社を勧請したのは、鎌倉時代に当地を支配支配していたとされる春日部氏です。

ということで、

まとめ

別に、文学論を展開するわけではありませんので、これで終わりますが、いろいろ考えると、とても面白いですね。

  • 『伊勢物語』をもとに、業平一行が隅田川に来た季節について考え、少し遊んでみました。
  • 果たして、業平は隅田川の水面に遊ぶ冬羽の都鳥(ユリカモメ)をいつ見たのでしょうか?? 春、夏なのでしようか、それとも秋、冬??
  • おそらく多くの研究者の方の研究成果があるのでしようが、浅学な私にはわかりません。
  • 『伊勢物語』は一千年以上もの長い間、業平朝臣の実伝として多くの人に読み継がれてきた大事な文化遺産ですので、私ごときがこれ以上言うのは僭越ですので差し控えます。
  • でも、業平朝臣は昔の隅田川(できれば当地の)で冬羽の白い都鳥を見て、歌を詠んだと思いたいですね。
  • そして、ユリカモメに「お前さんは、一体、何時どこで業平朝臣に会ったんだい?」と、問いたい気持ちです。
なお、ここに書いたことは、あくまで私見です。どうぞご理解ください。

最後までお読み頂きありがとうございました。  


終わり


【参考図書】 










日光道中粕壁宿・業平朝臣が隅田川で都鳥を見た季節(前編)

2022-09-24 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/06/28・更新日:2022/09/24
◆ある疑問

「都鳥の碑」と「業平橋」のことを書いてきました。記事を書くにあたって、いろいろ調べてみました。

すると、ある疑問が湧いてきました。今回はそれについて、

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大落古利根川のユリカモメ

◆在原業平朝臣

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在原業平(狩野探幽三十六歌仙)(W ikipedia)

「むかし、男ありけり…」で始まる伊勢物語の主人公とされる在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)は、第51代平城天皇の皇子阿保(あぼ)親王の第五子。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。また、古今和歌集の歌人で六歌仙・三十六歌仙の一人とされています。なお、『伊勢物語』は、古くから在原業平実伝の物語であるとされてきました。

◆伊勢物語

●第九段「東下り」

『伊勢物語』には、

業平朝臣は、藤原氏の権勢が日毎につのりゆくのを憤って、心は常に穏やかならず、平安の都に住むのも厭とわしくなり、東国に居場所を求めて下って行った。と

 そして、九段の「東下り」後段には、

なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大(おほ)きなる河あり。それを隅田河といふ。その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかな、と、わびあへるに、渡守(わたしもり)、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」と言ふに、乗りて、渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京(きやう)に思ふ人なきにしもあらず。さるをりしも、白き鳥の、はしあしと赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚(いを)を食ふ。京(きやう)には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなん都鳥(みやこどり)」と言ふを聞きて、
名にし負はばいざ言問はむ都鳥
 わが思う人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣にけり。

 

『新版伊勢物語』(石田譲二=約注、角川文庫466)、伊勢物語は、作者、成立共に未詳。

訳としては、

そうして旅枕をかさねて、武蔵国と下野国の境にある隅田川の渡し場に着き、渡し守に急かされ、舟に乗って川を渡ろうとしたとき、川の水面に遊ぶくちばしと足が赤く翼の白い水鳥の群れを見て、都では見たこともない鳥と思い、渡し守に尋ねた。
すると、渡し守は「みやこ鳥」と答えたので、業平は京都のことを思い出して、ひしひしと迫る

旅愁とともに懐旧の想いに心乱れて、

「名にしおばいざ言問はん都鳥わが思う人はありやなしやと」と歌を詠まれた。

と、一部略しましたが、概ねこのように書かれています。

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風流錦絵巻伊勢物語歌川春章画。第九段の東下り隅田川の景を描く。(Wikipediaより)

この「東下り」の段は有名ですね。高校生の時習いました。その頃は、当地とは全く無関係でしたが、半世紀を経て、業平のことを書くなんて、今はとても不思議な気がしています。 

ところで、業平朝臣が「東下り」の時、国境の隅田川の渡し場で、都鳥を見たとされる季節は一体いつなのでしょうか? 

どうでもいいことですが、とても気になります。

この点について、後編で愚考したことを書きます。

後編に続く…



【参考図書】


 

 


日光道中粕壁宿・埼玉県内最古級の石橋「やじま橋」

2022-09-20 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/8/28・更新日:2022/09/28

◆県内最古級の石橋

在原業平朝臣が渡ったという伝承をもつ「業平橋」と同じく古隅田川に架けられていた橋に「やじま橋」という石橋があります。

この「やじま橋」は、昭和59年(1984)3月の改修工事の際に撤去され、今は近くの古隅田公園に移築され保存されています。もちろん橋の下に川は流れていません。

「やじま橋」は埼玉県内で現存する最古の石橋の一つとされ、昭和60年(1985)2月26日に春日部市の指定有形文化財に指定されています。

ということで、今回は「やじま橋」のことを。

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やじま橋

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立派な石橋

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左端

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説明板

やじま橋

  この橋は、市内南中曽根と岩槻市小溝の間を流れる古隅田川に架けられていたものですが河川の改修工事により現在地へ昭和五十九年三月に移築されたものです。橋は元文二年(西暦一七三七年)今から二四七年前)に構築された埼玉県内で最も古い石橋のひとつとされ、橋板・橋脚・橋桁・岸壁いづれも石造りで、中でも橋板には長方形の大石十八枚を敷き、その一枚に「元文二巳歳 永井氏のため志 鶴のハシタテ 亀のカウラン」の銘文が刻まれています。

  橋の由来については、古来より「やじま橋」と呼ばれ「矢島橋」「八島橋」とも書かれてきました。いづれが正しいかは定かではなく、また地元の有力者の矢嶋氏、あるいは谷嶋氏(現在も矢島姓は現存)が中心になって造営にあたったからこの名があるという説もあるなど確証はありません。

  江戸時代この春日部市豊春地区は岩槻領に属しており、特に粕壁から岩槻に通じる唯一の道になっていたので人馬の往来も多く、藩政上きわめて重要な役割を持っていたようです。
 この橋が今日まで当時の姿をそのまま残していることから堅個な設計と高度な技術によって完成されたことがわかります。
 この橋に使われている石材は安山岩類の新小松石で、(俗に真鶴(まなづる)小松とも呼ばれる)産地は神奈川県真鶴地方で、この石は江戸時代広く土木建築面で利用され、特に江戸城構築時の石垣などとして使用されていてことから、御用石(ごよういし)とも呼ばれています。なお、この銘文にある永井氏とは信州飯山城主を経て、正徳元年(西暦一七一一年)岩槻城主となった永井直敬(ながいなおひろ)をはじめとして、以後尚平(なおひら)・直陳(なおのぶ)と三代四十五年間当時禄高三万二千石の岩槻城主をつとめ、宝暦六年(西暦一七五六年)美濃加納城主に転じた永井氏のことです。

   昭和五十九年三月

     春日部市教育委員会

     春日部市文化財調査委員会

光線の関係と手すりが前にあり、大変読みにくい説明板ですが、何とか文字起こしすることができました。

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後ろには工事用のフェンスが

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橋板

◆鎌倉街道

かつての「やじま橋」が架かっていた場所は、旧鎌倉街道筋であり、明治21年10月下旬に開通した「岩槻新道」(旧16号)のできるまでは、この道が唯一の道路でした。俗に「岩槻古道」とも呼ばれ、この橋も昭和の中頃まで利用されていましたが、宅地開発が進みこの橋の際に新しい橋が架けられて、橋は撤去・移築されました。

「やじま橋」は、今から282年前の元文二年(1737)時の岩槻城主、永井伊賀守直陳(なおのぶ)の命により道順川戸村の名主、矢島氏(現八嶋氏)が新方庄・上蛭田村・徳力村等沿道の者から浄財と労力を集めて架けられたものと言われています。
かつての橋の位置は太田庄と新方庄の境界にあり、貴重な奥州街道の道筋でした。

◆難工事の末

橋の構築にあたっては地盤が軟弱のため難工事で、橋脚の沈下を防ぐため水中にある最下部には栗材や松材の丸太を幾重にも井形に組み、基盤を造ったとされ、その上に何百貫という石柱(橋脚)と梁を組み立て、長方形の石(タテ1.8㍍、ヨコ0.4㍍、厚さ0.06㍍)を18枚使用し架けられたものです。

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橋板・立入はできません

◆文字が刻まれた石橋

説明板にある通り、その中の一枚の裏側に次のような文字が刻まれています。
「元文二巳歳 永井氏のため志 鶴のハシタテ 亀のカウラン」
この文字は、「橋が永井氏の志により架けられたものであり橋脚を鶴の足にたとえ、橋板を亀の甲羅に見立てて鶴亀となし、「幾久しく後世に残れ」と願って刻まれたものと思われます。
昔、この街道が利用されていた頃、この辺りは岩槻藩の重要な位置であったので、橋の際(きわ)には太田庄(後の百間領)の番所晒場(さらしば)が置かれ、また通行人相手の商家があったそうですが、明治期、岩槻新道の開通により人家も移転し、田圃の中に忘れ去られた場所となりました。 

参考:「広報かすかべ昭和53年6月」かすかべの歴史余話)

※百間領(もんまりょう)、現在の南埼玉郡宮代町、春日部市の一部、さいたま市岩槻区の一部、白岡市の一部、久喜市の一部に相当する近世における武蔵国埼玉郡の地域名(領名)。

※晒場(さらしば)とは、江戸時代、罪人をさらしの刑にした場所。

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やじま橋ヘ

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古隅田公園

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堤防上へ

古隅田公園

現在、「やじま橋」が保存されいる「古隅田公園」は、古隅田川の堤防上にある公園です。堤防の南端には「巡礼供養塔」(享和3年、1803)、「馬頭観音」(寛政4年、1792)、「天王宮」(寛政3年、1791)などの石塔が祀られています。

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左手前:馬頭観音 中央:巡礼供養塔 右奥:天王宮

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巡礼供養塔

この内、道しるべを兼ねている「巡礼供養塔」には、「右かすかべ、左こしがや」と刻まれています。

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天王宮

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馬頭観音

また、「馬頭観音」には、「金野井川岸 馬持講中」とあります。金野井川岸とは江戸川右岸の西金野井地区にあった河岸場のことです。

これらの石塔も元は「やじま橋」を通る道筋にあり、この旧堤防が遠く江戸川の河岸場と粕壁宿や岩槻宿とを結ぶ街道の役割を果たしていたことが伺えます。

この場所は、駅からは少し距離があるので、訪れる人はあまり多くはないと思いますが、先人たちが遺した貴重な文化財として後世に残していってほしいと思います。

 

 [古隅田公園]


日光道中粕壁宿・在原業平が渡ったという「業平橋」

2022-09-16 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/06/22・更新日:2022/09/16

春日部八幡神社参道入口にある「都鳥の碑」については、以前ご紹介しました。 

今回ご紹介するのは、かすかべにある「業平橋」です。

業平橋

▼東京の業平橋

私は単純なので、東京の「業平橋」を、東京都隅田区にあり、隅田川に架かっている橋だとばっかり思っていましたが、実は、隅田川ではなく、大横川(現、大横川親水公園)に架かっているそうです。初めて知りました。

そして、今は、「東京スカイツリー駅」という駅名に変わりましたが、以前は「業平橋」という名の駅もありました。東武伊勢崎線の終着駅で、押上駅とも地下通路で繋がっていました。高架状のプラットフォームで、改札口までかなり距離があったと記憶しています。

東京にある現在の「業平橋」は、昭和5年(1930)に架けられた橋で、近くにあった「業平山南蔵院」(現在は他所に移転している)という寺院の境内にあった「業平天神社」(現存せず)に因んで橋の名としたそうです。墨田区には業平と言う地名もあります。

▼かすかべの業平橋

一方、かすかべにある「業平橋」は、市立豊春小学校正門の東側に架かる全長十メートルほどの小さな橋で、明治21年(1889)に岩槻新道(現、県道2号さいたま春日部線)が開通した際に架けられた橋です。もともとは川の百メートルほどの上流に架かっていたとのことですが、その名のとおり在原業平が渡った橋と言い伝えられています。下を流れているのは古隅田川。

とても小さい橋なので、思わず通り過ぎてしまいました。もしかして、と思い戻って橋名を確認すると確かに、

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業平橋 橋名板のルールから手前(岩槻方面)が橋の起点

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なりひらはし 「なりひらばし」と濁ってはいません

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下を流れる川は「古隅田川」

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ふるすみだかわ

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進行方向春日部方面

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業平橋から見た古隅田川

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きれいとはとても…

『春日部市史 第6巻 通史編Ⅰ』には

業平橋

岩槻道の古隅田川に架かる橋で、昔、在原業平がこの橋を渡って旅をしたと伝えられている。かつては、この付近「業平団子」を売る店もあったという。

団子屋さんがあったのですね。もちろん今はありません。

ところで、在原業平は橋を渡って、と書いてありますが、果たして業平は橋を渡ったのでしようか? 伊勢物語には、渡舟に乗って川を渡ったと書いてありますが、、、。

◆隅田川が国境

業平の物語の時代は平安期であり、この時代から室町時代までは、隅田川が武蔵・下総の国境だったと伝えられています。昔の利根川(現在の古利根川)や隅田川(現在の古隅田川)は、今はその面影もありませんが、往時、大河だったといわれています。

従って、その当時、大河に橋を架けるとはとても想像できません。昔の橋は、最初は丸木橋のような素朴な橋で、そして時代とともに次第に堅固な橋になっていったのでしょう。

また、当時、川の流れがまだ一定していない濫流時代であったためか、今の川よりも川幅も広かったと言われています。その後の度重なる洪水や火山の噴火などによって土砂が徐々に堆積し、流路も変遷し、川幅も狭まったものと考えられます。

そのことは、春日部八幡神社境内付近が、平安〜室町時代に形成された河畔砂丘(浜川戸砂丘)の名残りであると伝えられていることからも想像できます。 

春日部八幡神社の境内にある説明板には、

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「中川低地の河畔砂丘群 浜川戸砂丘」の説明板

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下流の様子

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小川のような

このように、隅田川は、今は流れも細くなり、名も“古”隅田川と変わっています。

◆後の鎌倉街道?

古隅田川の流域にある新方袋の満蔵寺門前にある「梅若塚の伝説」などからも、この辺りが武蔵国と下総国の国境で、京の都から陸奥への古道の通じていたことが伺えます。

春日部八幡神社の参道前の道は、鎌倉街道だったと云われています。また、奥州道とも。

もっとも、

「鎌倉街道」という単語自体、鎌倉時代にはなく、江戸時代の文献で現れるそうで、江戸時代の人々が、村内の廃れた道をかつての「鎌倉への道=鎌倉街道」ととらえ、それが歴史的事実扱いされていった可能性もある。(読売新聞2019.6.19朝刊「文化面」)

そうですので、

八幡神社参道前の道がいわゆる鎌倉街道だったかどうかはわかりません。

また、郷土史家の須賀芳郎氏も

江戸時代に入り道路の制度が整ってからは、必ずしも鎌倉へ往来する道路でなくとも、古くから開かれていた道路をすべて鎌倉街道の名で呼んだもののようである。

市内で鎌倉街道とよばれているのは二路線ある。
ひとつは現在の春日部八幡神社前の道で、春日部治部少輔(かすかべじぶしょうすけ)が鎌倉への通路として利用したと伝えられる。

(ふるさと春日部『かすかべの歴史余話・鎌倉街道』須賀芳郎/著 1977年~)

と書いています。

平安時代、鎌倉街道と呼ばれる道はなかったと思いますが、後にそう呼ばれるような古道は既にあったのではないでしょうか。

そして、東海道を下って来た在原業平がその古道を通って当地の国境にまで到達し、隅田川に架かる木橋(?)を渡ったのでは、と勝手に想像しています。

でも、業平は渡舟で隅田川を渡ったのですよね。私はそう信じています。 

続きます…

【業平橋】


日光道中粕壁宿・かすかべのフジの山!?

2022-09-12 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/07/26・更新日2022/09/12

◆かすかべのフジの山

「春日部稲荷神社」から道を下って行くと石の鳥居があります。その先は、神の領域、そしてそこには富士山(浅間山)が…

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浅間社ヘ

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鳥居

◆浅間山

春日部稲荷神社の右隣りにあるこの小高い山は「浅間山(せんげんやま)」と呼ばれています。昔、春日部氏がこの地の領主だった頃、城の物見(見張所)として使用されたと伝えられています。なお、製鉄の登り窯跡や古墳という説もありますが、それは?です。

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浅間山

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別の角度から

そして、江戸時代には、「富士講」の信仰の地となり、信者の手によって「富士山」を形どって「富士塚」が形成されました。頂上につづく道には富士山と同じように、一合目・二合目などの標識が建てられ、今もその標識が残っています。

登山道へ

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登山道の入口

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登山道

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浅間大神

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二合目

三合目はすぐには見つからなかったのですが、よく見ると…

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何やら標識石らしきものが

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確かに三合目の標識です 弘化2年(1845)?

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さらに登ります

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四合目

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頂上の鳥居が見えます

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五合目

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ようやく頂上に

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不弐大神

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裏面

◆富士山の名前

頂上にある神名の石碑に「不弐大神」と「不弐」の字が刻まれていますが、ふじの山の呼び方には、いろいろあるようです。

そこで、まずは、ふじのやまの地名の由来を少し。

「かぐや姫」で知られる『竹取物語』は、日本人であれば、知らない人はまずいないと思います。源氏物語にもこの『竹取物語』は物語の「出来はじめの祖(おや)」とも言われています。

その『竹取物語』にある「ふじのやまの由来」について、興味深い話があります。

〜略〜

この竹取物語は、かぐや姫が昇天にあたり奉った「不死の薬の壷」を、みかどは、今さら「何にかはせむ」と、使い命じ駿河国にある天に近い山の頂で燃やして終わる。

そして、「(御使)つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、その山をふじの山とは名づけける。その煙いまだ雲の中ヘたち上るとぞ言ひ伝えたる。」と結ばれる。つまり、ふじの山が、なぜ富士の山と名が付いているかは、勅使の「(つはもの)ども(あまた)」具した出で立ちを記念したものだと言うわけである。これは、当時の貴族の男達が好んだ、土佐日記などでも盛んになされている、いわば、駄洒落のオチである。当時の読者も、その言葉遊びに興じはしても、なるほどフジの命名の謂われとはそうだったのか、などと心底納得するというものではなかっただろう。しかし、このような結末にすることで、竹取物語は、実は、「物語の出来はじめ」というよりも、富士の山の長い長い地名由来語りとしての古来の体裁を整えたことになる。〜以下略〜

(『ヤマトコトバの考古学』木村紀子著、2009/7/2、平凡社)

かぐや姫の「竹取物語」は、実は富士山の地名の由来譚だったのですね。知りませんでした。「竹取物語」は、高校生の頃、古文の授業で習いましたが、富士山の地名由来の物語だとわかっていれば、もう少し楽しんで勉強したかも知れません。

さらに、ふじ山の『ふじ」の表記について、

万葉集の表記は、正訓的な表記の歌中で「不尽・布士・布仕」とあり、一音仮名表記の歌中で「不自・布自・布時」とあるが、いずれも仮名表記と見られる。霊異記の「富岻」、常陸国風土記の「福慈」、そして「富士」も、つまりは仮名であろう。要するに、「言ひも得ず 名づけも知らず 霊(くす)くも 坐す神かも」(万葉319)というわけで、フジは、結局正字表記はなかったのである。

〜中略〜

太古以来、雄壮な活火山だったフジの本義とは、単純に「(吹き出す)(基)」ではないかというのが、以上による試みの解だが、本義不明の「霊(くす)しき」存在としておく方が、むしろよいのかもしれない。

(『ヤマトコトバの考古学』木村紀子著、2009/7/2、平凡社)

結局、どの字が正解かは無かった。つまり、いずれの表記もありということなのでしようね。従って、「不弐」でもOKということです。

富士信仰

富士信仰(ふじしんこう)は、富士山の神に対する神祇信仰。山岳信仰の1つ。富士信仰は、富士山そのものを神と見立てるなど、何らかの形で富士山を信仰・崇拝の対象とすることであり、代表的なものとして、(浅間信仰(せんげんしんこう)。富士浅間信仰とも)がある。その他、著名なものに村山修験や富士講などがある。(Wikipedia)

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◆富士講「丸岩講」

鳥居に「丸岩講」の文字が見えますが、「丸岩講」は、江戸時代に興った冨士講の一つで大正から明治にかけて隆盛を極めた富士講です。なお、「丸岩講」は、岩槻を発祥とし、丸の中に岩槻の岩が入るものが講印とされました。

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丸岩講が奉納建立した鳥居

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確かに、鳥居には丸にの文字が

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粕壁丸岩元講社

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扶桑教信徒中

扶桑教(ふそうきょう)は、散在する富士講を結集し1873年(明治6年)に設立した「富士一山講社」に起源をもつ教派神道の一派である。(Wikipedia)

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奉納の石碑  
江戸小舟町三丁目 鰹節店 遠州屋興八 奉納

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ふじせんげん…?

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弘化四年(1847)?

◆浅間山の修復

市内、皆川家所蔵文書の「仙元記(せんげんき)」によると、弘化2年(1845年)6月、この山が風雨により崩れたので、山の形を整えるため粕壁宿はもとより、近郷の幸手領・岩槻領・新方領等から多勢の人々が集まり「笊(ザル)」と弁当を持参で崩れた山に砂を運び盛り上げたと記されているそうで、このときの砂土運搬に使用された「笊(ザル)」が今も春日部八幡神社内に保存されています。

土取り場

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案永三年の粕壁宿の絵図

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少し拡大

2019年7月6日、春日部郷土資料館に企画展を見に行った時、古い絵図が参考展示されていました。よく見ると、春日部八幡神社の文字の上に「土取り場」なる箇所が描かれていました。この絵図が描かれたのは安永三年(1774)となっていますので、上記の富士塚修復工事の80年程前になりますが、その当時から堆積した砂土を掘る場所があったようです。とても興味深いですね。残念ながら、ズームして撮影しなかっので、文字はよく見えません。

◆「初山」行事

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初山の準備 以前撮影したもの

この浅間社浅間山では、毎年7月1日、「初山」という祭礼が行なわれていましたが、コロナ禍で行われていないようです。

以上数回にわたり、春日部八幡神社同稲荷神社のことを書いてきました。まだ、知らないことが沢山あると思いますが、八幡神社編はひとまずこれで、、、

さて次は何処へ行きますか、お楽しみに、、、。