かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・樋堀大師堂(其のニ)

2023-06-19 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/06/01•更新日2023/06/20

◆樋堀大師

 春日部市立東中学校の西方、県道宝珠花線から少し左に入ったところに大師堂が建っています。

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厄除樋堀大師堂 これが目印
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少し入ると

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さらに進むと大きな案内板が見えます。
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厄除樋堀大師

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 この場所には、その昔、新義真言宗最勝院の末寺で「白雲山正福寺」と云う寺院がありました。また、以前記事にした白山神社もかつてはこの境内にあったとされています。現在は、樋堀地区集会所と当時からの墓地、そして大師堂が残っています。

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厄除樋堀大師由来

昔この地に新義真*ママ宗最勝院の末寺で白雲山正福寺という寺があった。この正福寺に文政の頃(一八一八年)一人の旅僧が弘法大師とほか二幅の画像を描いた掛軸を背負って来訪し数日宿泊したという。

 

 旅僧が寺を去ろうとすると、急に足腰が痛み出発できなくなったという。再び出発しようとすると、またも足腰がおもうようにならなかった。旅僧は「これはきっと大師様がこの地にとどまりたいという思召のためではないか」と悟りこの三幅の掛軸を正福寺に残し旅に出ることにしたところ何の異状もなく旅立ちすることができたたという。

 

 この大師様については、古老からの話や本寺の最勝院にも語り伝えられているところによると、樋堀大師は西新井、川崎大師と共に関東三大師と云われていることについて、首の大師を樋堀、胴の大師を西新井、手足の大師を川崎と、いわれている。

 

 なお、正福寺は明治の初期無住寺であったため廃仏き釈令によって廃寺となったが地区民はこの建物を大師堂と改め大師様を祀り護持してきた。その後大師堂は関東大震災により倒壊するなどしたが二回再建された。

 

現在の建物は昭和六十一年十一月(西暦一九八六年)に再建され現在に至っている。

 

 なお、厄除大師祭は毎年四月二十一日にお開帳されている。

 

   平成六年八月吉日 建立

 大変立派な案内板ですが、「新義真宗」とあるのはおそらく「新義真言宗」のことでしょう。

 それはそれとして、この案内板には弘法大師とほか二幅の画像となっていますが、ほかに釈迦如来の画像があったそうです。

 これら画像の掛軸は今も存在している檀家の家に保存されていて、弘法大師の画像は縦74㌢・横34㌢の絹地に描かれており、釈迦如来の画像は縦130㌢・横69㌢の絹地に描かれているそうです。

 なお、釈迦如来の画像は雪舟筆とも云われているそうで(弘法大師の画像は筆者不詳)、掛軸を納めてある箱の蓋には「文政三辰年(1820)八月朔日調製  正福寺」と記されているとのこと。

 また、「ふるさと春日部『かすかべの歴史余話』須賀芳郎/著 1977年~」によると、以前は、毎年4月8日には釈迦如来画像の掛軸を、同4月21日には弘法大師画像の掛軸を掲げて御開帳が行なわれていたようですが、現在は、厄除大師祭として4月21日のみご開帳されているようです。

 そしてこの樋堀大師は、厄除大師として多くの参詣人を集めていたと云い伝えられています。

 西新井大師にも川崎大師にも参詣したことはありますが、この樋堀大師が関東三大師とは全く知りませんでした。

 首(かしら)の大師と言われていたそうですが、胴の大師が西新井大師、手足の大師が川崎大師と言われてもそれぞれの大師でそのことを聞いたことがありません。「う〜ん」としか言えません。

 また、案内板の伝説の部分についても??という感じですが、そう言えば、浅草の観音様は川の中から聖観音像が、川崎大師は海中から弘法大師像が網に掛かって、という伝説があります。恐らく多くの社寺には同じような伝説が残っていると思いますので、ここはあくまで伝説ということでお許しください。

 なお、旅の僧とは、布教のために旅をしていた高野聖のような僧だったかも知れません。わかりませんが。

 続く…


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