かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・千住馬車鉄道(前編)/粕壁「最勝院」から千住「茶釜橋」へ

2022-10-30 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/04/08•2022/10/30

最勝院



最勝院

境内
境内

本堂
以前の最勝院の境内はかなり広かったといわれています。高札場跡がある高層マンション付近まであったそうです



最勝院境内から粕壁宿を見る。約1kmの直線「かすかべ大通り」です。

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案内板

まさにレジャーランド

そして、明治期、境内には、小学校(粕壁小学校、明治5年)や税務署(粕壁税務署、明治42年)等がありました。

大相撲の地方巡業、サーカス、村芝居等の興業に利用されたそうです。まさに“レジャーランド”といった感じですね。

今は、小学校も税務署も別の場所に移転しています。でも、この最勝院が、かすかべの発展に大いに寄与したことは間違いありません。

そして、なんと言っても、忘れてならないのは、この最勝院が「千住馬車鉄道」の発着所だったことです。

折しも今年2022年10月14日は、新橋〜横浜間に鉄道が初めて開通した明治5年(1872)から数えて150年目の記念すべき節目の年ということで、テレビでも盛んに取り上げられました。

翁の地元、埼玉県春日部市は、今から約130年ほど前、馬匹が車両を引き、軌道の上を走る馬車鉄道が開通しました。

「古文書」以外何の痕跡もありませんので、知っている人はほとんど無いと思いますが、まだ東武鉄道の無かった頃、短い期間でしたが、文明の足として人々の役に立っていました。

千住馬車鉄道の開通


古利根公園橋にある「雨宮一正作:滝と噴水(テト馬車)」のレリーフ

明治26年(1893)年2月7日に、千住茶釜橋(せんじゅちゃがまばし、足立区北千住の千住新橋付近?)から越ケ谷町(現在の越谷市)まで、既に開通していた「千住馬車鉄道」が延伸され、明治26年(1893)6月1日、「最勝院」が「千住馬車鉄道」の発着所になりました。 

当時、東京に出るには、徒歩か馬車、あるいは舟運のいずれかしかありませんでした。

明治15年(1882)に営業を既に開始していた「東京馬車鉄道」に触発されたかのように、明治22年(1889)、陸羽街道(日光道中)の沿道地域の住民を中心に、東京府下南足立郡千住町(現在の東京都足立区)から埼玉県北葛飾郡幸手町(現在の埼玉県幸手市)まで、馬車が軌条の上を走る馬車鉄道の敷設が計画され、敷設願が埼玉県県知事と東京府知事に出願されました。

認可に至るまでには、沿線の地域住民の根強い反対がありましたが、明治23年(1890)11月6日、運輸業を営むことが、時の内務大臣西郷従道から特許されました。

この特許を受け、直ちに工事が着工されましたが、沿線住民の反対、そして陸羽街道はもともと地盤が弱く元荒川の橋梁工事に時間を費やすなど難工事が続き、敷設出願から4年後の明治26年(1893)ようやく営業を開始しました。

発起人(32名)らは、当初、幸手から千住、さらには東京・浅草までの路線営業を考えていたようですが、沿線住民による敷設反対などで工事が遅れ、さらに資金難もあり、区間短縮を余儀なくされ、結局、粕壁〜幸手間は、普通馬車での運行として開業しました。

馬車は、6人掛け2列で12人乗り、粕壁から千住まで約40キロメートルを3時間かけて運行し、一日2往復、運賃は千住まで、通しで27銭だったそうです。

今は、東武鉄道に乗れば、特急で20分、急行だと30分位ですが、江戸の昔には、ほほ一日を要したことを考えれば、地域の人々にとっては、まさに“文明の足”と言っても過言ではありませんでした。


後編に続く…




日光道中粕壁宿・最勝院の旅する板碑「青石塔婆」

2022-10-26 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/ 04/02・更新日:2022/10/26 

最勝院


本堂

境内
板碑「青石塔婆」

もう少し最勝院のことを続けます。お付き合いください。 

前回、建武二年銘の板碑「青石塔婆」のことに少し触れましたが、須賀芳郎氏の『春日部の寺院』(1996年)によると、昭和の初期には、春日部重行公の墳墓の上にあったそうです。おそらく重行公の追善供養のため建てたと思われます。



鳥居の向こうは春日部重行公の墳墓

当時、板碑は二つに割れていたので、新町橋のたもとの鋳かけ屋(今は石材店?)で周囲を銅板で補修したとのことです。
そして、この板碑、いつしか行方不明になっていまいました。これは事件ですね。

さあ、ここからが板碑の旅(たび)の始まりです。

板碑の旅

まず、東京の人(収集家?)の手に渡り、戦時中に、新潟県の旧家に疎開。
その後、新潟県立博物館(当時の)が所有していましたが、終戦後、同博物館がアメリカ進駐軍の本部になり閉鎖。
そして、新潟県の豪農といわれた伊藤家に引き取られ、最終的には、同家が設立した「北方文化博物館」(新潟県新潟市)に収蔵・保管されていたそうです。
そのことを人伝てに聞いたかすかべの市の関係者が現地調査をして確認、最終的に当時の市長自らが現地を赴き、板碑の返還をお願いしたそうです。 
幸いにも「北方文化博物館」のご理解を得ることができ、昭和52年(1977)、無事、当地へ里帰りされました。よかった!!

その時、板碑の裏面に「粕壁最上寺より出土」と書かれていたことが決め手になったとのこと。それにしても、「最上寺」って、、、
もしかして、建武二年の頃の寺院名は「最上寺」? なんて、そんなことはありませんよね。

この板碑、今は本堂内にあるそうです。一度見てみたいなぁ。

なお、「北方文化博物館」(ほっぽうぶんかはくぶつかん)については、こちら

↓↓

豪農の館「北方文化博物館」

因みに、「北方文化博物館」は、藤の花が有名だそうです。この点も藤の街かすかべとのご縁を感じます。

なお、須賀芳郎氏の『春日部の寺院』には当時の市長などのお名前が書いてありますが、ここはあえて参考にとどめお名前は省きました。

句碑

最後に一句、墳丘の前にあった句碑

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句碑

さきたまの空

  

蒼然と 雁渡る      

    

         花人(?)


この句は季語の雁からすると秋を詠んだ句なのでしょうね。

 


注記:本記事は当初2019年4月2日にエントリーしましたが2021年5月14日にリライト、2022年10月26日に再エントリーしました。


日光道中粕壁宿・最勝院にある墳墓(後編)

2022-10-22 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/03/30・更新日:2022/10/22

…前編からの続き 

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真言宗智山派華林山最勝院
最勝院の伝記

第十二代の住職で、中興開山の俊弘は、京都の本山智積院号の一老であったが、江戸幕府が二老の運敞僧正を本山の住職に任命したのでに、これは、古法に違背する旨を唱え、普山道日智山の門を閉じたので、幕府に反対するものとみなされて、流罪を申し付けられたが、俊弘僧正の行徳高きを以て罪を赦され、僧正の出生地【大場村】の近く最勝院の住職として帰院され、末寺の一属の教化に心を尽くされ寺の隆昌にあたられた。特に僧正は火防の法に通じ、いかなる火災も僧正の臨場によって消滅したと伝えられいる。僧正は、示寂に際し、「われ不動明王となり火難を救わん」と、遺言したとも伝えられている。現在は、最勝院内に俊弘堂が建立されていて、毎月十二日に護摩供養が旭町々内会で行なわれている。

また、第三十六代鷲尾諦仁僧正は、明治三十六年、京都醍醐三寶院から、住職として、この寺に赴任されて、明治三十二年五月、放火により焼失した寺の復興に尽力されながら、「春日部重行公」の事跡を調査研究して、『春日部重行公事蹟』・『春日部重行公勲功記』・『春日部重行事蹟考』を作成して、顕彰運動を推進し、大正五年、忠臣孝子節婦の調査で、重行公の事蹟を宮内省に具申した。大正七年、この具申により春日部重行公は従四位の位を受けた。また、僧正は、漢字・語学に優れ、粕壁中学校【現春日部高等学校】の生徒を指導されていた。【註:鷲尾家は伯爵の公家であった】 

 

引用:『春日部の寺院』須賀芳郎著、1996年

※大場村とは、春日部市武里にある字名です。

この伝記に、春日部重行公が大正になってから贈位された経緯が書かれています。数百年の時を経てようやく重行公の事績が認められました。ということは、それまで、南朝方の公家や武将は、冷遇されてその事績が公には認められてこなかったということでしょうか? わかりませんが。

注:忠臣考子節婦

  1. 忠臣:忠義を尽くす家臣
  2. 考子:親孝行の子 
  3. 節婦:貞節を守る婦女

なお、この基準は最近まで、褒章(緑綬褒章)の授与基準だったようです。

明治、大正期には、時代的に、人の模範となるべき立派な人が求められていたのでしようね。少し窮屈ですが。

俊弘堂

そしてこれがその「俊弘堂」です。

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俊弘堂

その傍らには

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俊弘僧正を敬う石碑

火防俊弘尊弐百六十年祭記念 奉納参道敷石廿四枚 粕壁崇敬者一同 粕壁露商組合

建立年月日は、刻まれていませんが、この碑は、戦前に建てられたもののようです。なお、裏面に奉納者名や建立年月日があるようですが? 判読できませんでした。

俊弘僧正は、延宝七年(1679)に示寂されました。今から340年も前ですが、この碑にあるように後代の人々が僧正に対し、いわば火防の神(?)としてあえてを付けて崇めていたことが伺えます。

実際、明治三十二年の放火による火災の前にも、文化九年三月に火災があり、本堂・庫裡位牌堂が類焼し、門前の仁王門が焼失したとの記録があるとのことです(『粕壁宿名主公用日記』)。幸いにもいずれの火災においてもご本尊は焼失を免れたそうです。

また、鷲尾僧正が京都のご出身ということなんでしょうか、以前、現在のご住職のご好意で、所蔵の「洛中洛外絵図(地図)」(何時の時代のものかはわかりませんが)を拝見する機会がありました。また、本堂内には代々の徳川将軍の位牌も安置されていました。


最勝院のことはもう少し続けたいと思います。よかったらお付き合いください。



追記:本記事は、当初2019年3月28日にエントリーしたものですが、2021年5月20日に前後編にリライトし、2022/10/22に再エントリーしました。


日光道中粕壁宿・最勝院にある墳墓(前編)

2022-10-18 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/03/28・更新日:2022/10/18


…前回からの続き

鳥居の先には? 

最勝院の境内には立派な鳥居があります。

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鳥居

寺院の境内に鳥居があるのは不思議に感じるかもしれませんが、あの豊川稲荷も曹洞宗の「円福山妙厳寺」というお寺なので、寺院の境内に鳥居や稲荷社があっても別に不思議ではありません。春日部の他の寺院、例えば小渕の浄春院というお寺もそうです。

また、鳥居があるということは、『新編武蔵風土記稿』(前回掲)に記述されているように「稲荷社」があったのでしょうか?

その鳥居をくぐると、



鳥居の先には

その先には、立派な石柱が立っています。

春日部重行公ここに眠る

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従四位市祖春日部重行公之墳墓

その石柱には、従四位市祖春日部重行公之墳墓と記されてなっていました。市祖なんですね。そして従四位と。春日部重行公はここに静かに眠っていらっしゃるようです。

また、昭和初期には、建武ニ年(1336)の板碑【青石塔婆】がこの墳丘の上にあったそうです。それはそれでとても気になりますね。それについては、別稿で。

墳丘の前には、

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由来を記す石碑

立派な石碑ですが、光っていてよく見えません。でも、何とか判読しました。

春日部重行公御霊古墳の記

南朝の忠臣贈従四位春日部重行公は逆臣北條高時の専横極まるところ 恐れ多くも後醍醐帝は隠岐に遷され給い王業の光正に淡きを嘆ずる時 護良親王の念旨を奉じ勤王の義兵を春日部に挙げ 建武元年(一三三四年)新田義貞と共に鴟張(しちょう)の賊北條氏を鎌倉に滅ぼし建武の中興の大業を成す。

更に足利尊氏の反旗を翻して九州より東上するや血潮渾さかんに燃えこれを京に迎え撃つ然れども南風遂に競わずして戦時に利あらず延元元年(一三三六年)六月三十日鷺の森において恨み深き自刃を遂ぐ。

その長子家縄遺骨を携えて帰郷し 最勝院に墳を築き此処に葬る。

大正七年(一九一八年)其の功を嘉し 特旨を以て従四位を贈らる。

贈位(ぞうい)とは、

生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)。

天武天皇2年(673年)2月、壬辰の乱の功臣であった坂本財が薨じ大臣級の冠位であったことから小紫位を贈られたのにはじまる。贈位の場合、通常の位階の上に「贈」の字を加える(例:贈正四位)。

明治以降の贈位

明治時代以降も引き続き死者の功績を称える目的で贈位が行われた。幕末の尊皇攘夷や明治維新で功績を挙げながら亡くなった者、または南北朝時代の南朝方の公卿や武将、勤皇家とされる戦国武将、統治で功績を挙げた大名等が主であった。(参照・引用:Wkipedia)

そういえば、あの幕末の志士坂本龍馬も明治24年(1901)になってようやく正四位が贈られています。

春日部重行公は大正になってから従四位が贈されました。なお、春日部重行公の贈位の経緯については、後編で。

 

後編に続く…


備考:本記事は、当初2019年3月28日に公開したものですが、前後編に分けて2021年5月30日に更新、今日再更新しエントリーしました。



日光道中粕壁宿・最勝院(後編)

2022-10-14 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/03/27•更新日:2022/10/14

…前編からの続き 

岩槻の慈恩寺

前掲の『新編武蔵風土記稿』の記述にある慈恩寺とは、「華林山最上院慈恩寺」という天台宗の寺院で、お隣の、さいたま市岩槻区の慈恩寺(地名になっていいます)にあります。

岩槻の慈恩寺は、天長年間(824年 - 834年)円仁(慈覚大師)の開山によって創建されたと伝えられています。

天正18年(1590)関東に入部した徳川家康から翌天正19年(1591)に寺領を寄進され、江戸時代には江戸幕府のほか岩槻城主の帰依も得たとされています。

また、戦前の日中戦争時の昭和17年(1942)12月に日本軍が南京で発見した三蔵法師玄奘の遺骨の一部が、終戦後にこの寺に奉安され、その後、昭和28年(1953)5月に落慶した十三重の花崗岩の石組みによる霊骨塔・「玄奘塔」があることでも知られています。

また、昭和30年(1955)に日台友好のため、台湾に分骨され、現在は日月潭の玄奘寺に奉安されているとのこと。

さらに昭和56年(1981)には、玄奘の属する法相宗の奈良・薬師寺にも分骨されており、現在は薬師寺境内の玄奘三蔵院に奉安されています。

そして、『新編武蔵風土記稿』の記述の通り、岩槻の慈恩寺の僧奝尊が“かすかべの最勝院”を創建し、その際、山号・寺号は岩槻の慈恩寺そのまま受け継ぎ、「華林山慈恩寺」とし、院号は岩槻の慈恩寺(院号は最上院)に憚って(遠慮して)「最勝院」として、通称にしたようです。

しかし、岩槻の慈恩寺側では、この経緯を知らないと言っています。一体何があったのでしようか?

郷土史家の須賀芳郎氏は、この辺の経緯を

最勝院は、現在地に設置されたのは、平安時代と思考される。

最初は、この地に紀氏朝臣の子孫である、兵三武者紀氏實直【さねなお】の四男の左衛門尉【さえもんのじょう】實高【さねたか】が、在地名、春日部を名乗り春日部氏となった時、春日部氏の学問の師として迎えたのが、慈恩寺の別当奝尊僧正であった。初めは寺と言うより学問所の庵として設置されたと推定される。後に慈恩寺から、弘法大師作の『千手観音菩薩像』を移され、ここに寺を開いたもので、寺号も本寺の名称『華林山最勝院慈恩寺』と唱えたが、本寺と紛らわしくなるので、院号と寺号を入れ替えて『華林山慈恩寺最勝院』と称したと伝えられている。
元は天台宗であったが、『玉藏院』の先々代の児島隆傳和尚より聞かせられたところによると、江戸時代になって、新義真言宗智山派の本寺が江戸に建立されて、江戸付近の主要な町に、学僧を派遣して『真言問答』を展開し、宗派の拡大の布教を始めて「問答」に負けた寺は、その場で転派させられた時代があり、粕壁宿内の主たる寺は、新義真言宗智山派に隷属したのだと言われている。最勝院は粕壁宿近在の寺院の本寺であったので、それぞれの末寺も本寺に倣って転派されたと聞かされている。 

引用:『春日部の寺院』須賀芳郎著、1996年

と書いています。

当初は別院?

つまり、当初は、別院(学問所)として創建され、のちにご本尊の「千手観音菩薩像」(伝弘法大師作)が移され、正式な寺院となったと考えられます。

また、山号・寺号の順序が案内板と違うような気がしますが?

本寺を憚ったということですので、『新編武蔵国風土記稿』や須賀氏の表記「華林山慈恩寺最勝院」がやはり正しいのではないかと思います。

そうなると、門前の案内板の表記は???

 なお、『寺の宝』は、三代将軍、徳川家光より十五代将軍徳川慶喜までの寺領十五石の御朱印状とのこと。


最勝院の境内

お寺の境内に鳥居が、、、。



境内にある鳥居

この先には何があるのでしょうか??

それは別稿で、、。

 


備考:本記事は、当初2019年3月26日に公開したものですが、前後編に分けて2021年5月28日に更新、今日再更新しエントリーしました。