かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・命と財産を守る水塚(其の一)

2023-07-10 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/11/06•更新日:2023/07/10

◆8年前

 8年前の平成27年(2015)9月に、台風17・18号の影響で「平成27年9月関東・東北豪雨」と言われる豪雨災害が発生しました。

 特に茨城県常総市付近では鬼怒川の堤防が決壊し、常総市役所の本庁舎まで水に浸かるなど多くの家屋が全半壊する甚大な災害でした。車で近くを通る時に、いつも思い出しています。

◆今年(令和5年)も

 そして、今年隣接する越谷市で予想を超えた大雨による浸水被害が発生しました。

 今日も早朝から九州地方に線状降水帯が停滞し、河川の氾濫の様子がテレビの画面越しに伝わってきます。

 毎年、9月、10時の台風シーズンには、さらに広範囲で被害が出て、大切な命や財産が失われてていきます。

 自然の猛威の前には人間はなす術もありません。

 ところで、「水塚という避難施設をご存知でしようか?

 「水塚って? と思われる方も多分多いのではないでしょうか。

 そこで今回はこの「水塚」について私見を交えて数回に分けて書いてみたいと思います。

水塚

 水塚(みづか、みつか、みずか、みずつか)」は、洪水の際に避難する盛り土で嵩上げした水害時の私設の避難施設です。敷地の一部を1~3㍍程度、場所によっては5㍍の高さに土盛りし、河川の氾濫(はんらん)時には水没せず、押し寄せる水から母屋を守るために築いたといわれています。
 台上の広さは50平方㍍程度で、災害時の食料備蓄用に蔵などを建てました。

 また、関東の利根川、荒川中・下流域では「水塚」、淀川下流では「段蔵」、信濃川下流では「水倉」、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)や筑後川下流では水屋(みずや)と呼ばれています。

 そういえば、木曽三川の下流の河口部には、「輪中(わじゅう)」とよばれる土地がありましたね。昔、授業で習いました。「輪中」は洪水から村を守るために、周りを堤防に造って囲んだ土地のことで、輪中に住む人々は、昔から堤防を造ったり洪水の時に助け合ったりしてみんなで協力してきたのです。その「輪中」にもこの「水屋」がありました。

◆巡回展「埼葛・北埼玉の水塚」

 8年前の平成27年、宮代町郷土資料館で「水塚」に関する巡回展を拝観しました。その直後、前述の「平成27年9月関東・東北豪雨」が起きました。堤防が決壊し、集落が水に浸かる様子がテレビのニュースで流れ、今更ながら自然の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。そして、今回の九州地方の台洪水被害です。

 巡回展「埼葛・北埼玉の水塚」のことは、こちら

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平成27年度巡回展「埼葛・北埼玉の水塚」開催しました。 | 埼玉県宮代町公式ホームページ

 巡回展の資料をまとめた『埼葛・北埼玉の水塚』(東部地区文化財担当者会報告書第7)によると、

埼玉県東部地域の歴史地理的概観
行田市から三郷市に至る埼玉県東部地域は、その大半が加須低地、中川低地といった沖積平野に立地する。低地の標高は、北部の羽生市・加須市で10〜13㍍ほど、南部の八潮市・三郷市付近では1〜4㍍ほどである。勾配は平均0.2%ほどということになる。低地を取り巻く台地部に立地する市町でもその標高は20㍍にとどまる。
こうした低地は、完新世への移行とともに渡良瀬川や思川水系の河川が、大渓谷を埋めながら奔放に蛇行を繰り返して南流することで形成された。やがて関東盆地運動とともに、この流域に利根川が流入することで、遅くとも中世期には、現在の様子に近い低地が完成されたとみることができる。坂東太郎「利根川」が時に荒れ狂いつつも、多くの恵みをもたらしながら「江戸湾」に注いでいた時代である。
近世初期、江戸幕府が開かれると、徳川政権は江戸の町を水害から守るとともに、水田や舟運の便を確保するために利根川の東遷、荒川の西遷に着手する。特に、利根川東遷事業は、当地域と密接な関係を持っている。
幾多の難工事と多くの犠牲を繰り返しながら17世紀の後半には、この歴史的土木工事は成就する。
「治水」は、古くから領主階層のための重要なボイントであったといってよいであろう。中でも、利根川の東遷と荒川の西遷は事業規模、その成果などの点から見て最も重要かつ完成度の高い事業であった。
流路変更 がなされたとはいえ、古利根川、倉松川、中川、大場川、綾瀬川などの河川が、相変わらず氾濫を繰り返していたことは想像に難くない。そうした地理的特徴も手伝って、加須低地から中川低地には、大小多数の河川後背湿地が残された。同時に氾濫土は自然堤防となって微高地を形成することとなる。近世村落は、こうした河川自然堤防などの微高地上に発達する傾向を示す。そして村落周辺の後背湿地を水田として開発し、耕地と密着した暮らしが続けられてきた。
微高地上の集落は、大水が出ると浸水被害をまぬがれない。こうした被害を軽減するための知恵の1つとして築かれたのが「水塚」であった。 
以下略
引用:『埼葛・北埼玉の水塚』(東部地区文化財担当者会報告書第7) 

 確かに、水は豊穣の恵みをもたらす反面、大事な命、財産を奪っていくものだったのです。そのため、農家の皆さんは、各自で敷地の一部に盛り土し、蔵を建てて水害に備えたのです。それが「水塚」なのです。

 埼玉県東部地域の北は行田市や加須市から南は八潮市、三郷市の地域には、今でも約1220基以上ほどの水塚が残っているそうです。

 水塚の歴史は、江戸時代の「日光道中絵図」にも描かれているように、江戸時代にまでさかのぼります。そして、明治時代に最も多く造られました。

 また、昭和22年の「カスカスリーン台風」の後にも水塚が設けられ、10基ほどが確認されてるとのこと。さらに平成期に築造された水塚もあるそうです。

 治水対策整備が進んだ現代も先人たちが残した出水に対する警戒意識は引き継がれているかもしれません。

 その一方、「無用の長物」として主屋の改築などに伴い消滅する水塚も年々増え続けているそうで、いずれ消滅する日が来るかもしれません。

 続く…




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