かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

粕壁宿の市神さま・八坂神社

2022-05-30 19:30:00 | 神社
更新日:2022/05/30公開日:2019/01/11
粕壁宿の市神様

一宮交差点
粕壁宿(春日部大通り、旧日光街道)に入る三叉路(一宮交差点)の少し右手前に、八坂神社(やさかじんじゃ)が鎮座しています。
天王様 八坂神社
八坂神社といえば、京都市祇園の八坂神社がよく知られていますが、八坂神社の関連神社は、日本全国に2千数百社あるといわれており、春日部のこの八坂神社もその内の一社です。

近くには東八幡神社、東町大下稲荷神社、日枝神社などがありますが、この八坂神社粕壁宿の市神様と言われています。

八坂神社




境内の案内板

粕壁宿は、日本橋から九里ニ丁(約三六キロメートル)の距離にある。幅は約九メートルの道沿いには、約一・一、キロメートルもの町並みが続いていた。嘉永二年(一八四九)には、人口は三七七九人、旅籠屋は三七軒あった。宿の入り口にあたる八坂神社は、江戸時代には牛頭天王社と呼ばれた。明和七年(一七七〇)に火災に遭い、詳しい由来は不明だが、宿の市神として信仰された。神社の祭礼は、現在の春日部夏祭りの起源でもあり、江戸時代には毎年絽六月(旧暦)に行われた。


江戸時代後期の八坂神社周辺・重要文化財 五街道其外絵図 日光道 巻第ニ 東京国立博物館所蔵)

◆残念なこと

ところで、神社を訪れると、社殿が新しいとに気づきました。実は、平成22年10月25日に放火被災により社殿が神輿共々焼失してしまいました。その後、関係者の多大なご尽力により、翌年の祭礼までに復興再建され、そして、祭礼は無事齋行されました。


八坂神社復興の碑

◎ご祭神 須佐之男命(牛頭天王)

◎祭礼日 七月十五日

(現在七月中の土曜日)

 

 明和七年(一七七〇年)の火災によって社殿が焼失したため、勧請の由来は不詳である。

 

 

 明治以降は、須佐之男命を祭神としてお祀りしているが、神仏分離以前は「牛頭天王」を祀っていた事から、今でも「天王さま」の通称で親しまれています。

古くから粕壁宿の守護神として信仰厚く、元来例祭は、七月九日から十五日まで一週間にわたって行なわれていました。太平洋戦争後は一時中断していましたが、復興が模索される中、春日部市制二十周年の昭和四十八年からは市民夏祭りとして、毎年七月中旬に例祭が執行され、神輿渡御と山車・屋台巡幸が盛大に行なわれています。

 

 氏子区域は、旧粕壁町一体の町会であり、通常は宮元である一宮町から総代が選出され、各町会並びに自治会の参加協力のもとで神社の管理運営を行なっています。

 

 去る平成二十ニ年十月二十五日夕刻、放火被災により社殿が焼失。その後、復興奉賛会を組織して工事を施工し、翌平成二十三年七月に社殿が再建され、内陣他調度品も整えて夏祭りが例年通り無事齋行されました。 

ここに後世のため、神社由緒を記します。

 

平成二十四年七月吉日

 

 八坂神社氏子中 粕壁二十四町会

先の案内板もこの復興の碑のいずれも勧請・創建の由来は不詳となっています。

郷土史家の須賀芳郎氏は、自身の著書『春日部の神社』(1996年)において、

 鎮座年月日は、不詳なれど、『武州古文書』の中に、延文六年[一三六一]の市場祭文に『下総州春日部郷市祭成之』とある。

 

これは、春日部市に市場が開かれ、市神様に祈願したときの祭文であることがわかる。春日部では、近在の農民の経済流通の手段として、四・九の日に市がたてられ、米の相場・反物の取り引き・生活物資の取り引き等が盛んに行なわれていた。中世の頃は物と物の交換市であったようである。この市は、昭和ニ十九年頃まで盛んであった。[これを六斎市と言う。]春日部付近では、越ヶ谷・岩槻・杉戸宿でそれぞれ市が開かれいた。

このことから類推して、この神社の創建は中世の頃と思考される。

と述べています。なお、日本史の区分では、中世は鎌倉・室町時代とされています。要はわからないと言うことだと思います。

明和7年の被災焼失に加えて今回(平成22年)の被災焼失、いずれも地域の人々の力で無事に復興再建されました。これらの被災も八坂神社の歴史の一頁としてこれらも末永く語り継がれていくことでしよう。 

◆ご祭神  

八坂神社のご祭神は天照大神の弟神須佐之男命(すさのうのみこと)です。そして、須佐之男命『備後国風土記』(びんごのくにふどき)逸文(いつぶん)の蘇民将来の伝承から、牛頭天王 (ごずてんのう)と同一神と考えられてきました。

その伝承とは、

昔、貧乏な兄・蘇民将来(そみんしようらい)と裕福な弟・巨丹将来(こたんしようらい)兄弟のところに、旅の途中の汚れた身なりの旅人(武塔神、のちに牛頭天王と呼ばれる)が訪れ一夜の宿を請いたのに対し、ケチな弟は冷たく断った。一方、兄の蘇民将来(そみんしようらい)は、貧しいながらも、温かく迎え手厚くもてなした。それから数年の後、再び訪れた牛頭天王は、兄の蘇民将来に子孫が代々疫病にかからないための芽の輪(めのわ、疫病除けの呪符)を授けた。そのとき牛頭天王は、「われは、須佐之男命なり」と名乗った、と言う。

というものです。この伝承は、蘇民祭として、東北地方を始め日本各地に今も残っています。 そういえば、十数年前でしたか、下帯姿の男性の写真(JR東日本のポスターだったと思います)が物議を醸したことがありました。

また、須佐之男命牛頭天王も、どちらも大変な荒神(あらがみ)という点で共通していることも同一神と見做された要因の一つと言う説もあります。 

牛頭天王

なお、牛頭天王はインドの祇園精舎(ぎおんしようじゃ)の守護神、または、朝鮮半島の新羅にある牛頭山の神とも言われ、古くから疫病除けの神とされてきましたが、インドや経由地の中国、朝鮮半島などで、牛頭天王を信仰したという痕跡が認められないことから、近年の研究では、牛頭天王は、日本独自の神という説が有力とのことです。 

なお、牛頭天王を祀っている神社は、明治元年(慶応四年)神仏分離令まで、天王社天王様などと呼ばれて人々の信仰を集めてきましたが、神仏分離令後に於いては、現在の社名八坂神社となりました。

◆疫病除け

そして、この八坂神社が粕壁宿の入り口に鎮座している意味を考えてみました。そして、八坂神社の鎮座の意味は、粕壁宿に疫病が入り込まないように、という、宿場の人々の疫病除けの強い願いがあったのではないかと思いに至りました。疫病除けの願いは昔も今も変わりません。

境内

境内は、さほど広くはありません。神社によく見られる御神木も見当たりません。いくつか石碑も残っていますが、光と白カビの関係で、文字は良く見えません(見えても、解読できませんが)。

そんな中、こんな石碑がありました。

柳内匠の筆小塚(表面)
柳内匠は神事舞太夫をつとめる宗教家で、寺子屋で子どもたちに手習いなどを教える師匠(先生)。この地域の子どもたちの教育に多大な功績を称え、その子弟らが建立した筆小塚だそうで、貴重な石碑と言えます。

(裏面)
他にも


白カビで読めません。
その隣には、


猿田彦大神の文字が見えます。側面には、文政二年の文字、文政二年は西暦1819年です。今年は、2022年、200年以上前、まさに歴史。


※注記:ブログに、書いたことは、絶対ではありません。歴史には、その解釈に諸説があります。あくまでも、筆者の考え、意見ですので、どうぞご理解ください。

【八坂神社】


"傅”芭蕉宿泊の寺・東陽寺(其の三)

2022-05-26 19:30:00 | 地域発信情報
更新日:2022/05/26公開日:2019/02/05
前編では、芭蕉一行の当地カスカベでの宿泊先と曾良が用いた地名のカタカナ表記などについて郷土史家の説ご紹介しました。今回は僭越ながらそれについて私見を。
東陽寺にある曾良の随行日記の碑

芭蕉と曾良が描かれたシャッターアート

◆漸(ようよう)草加
まず、芭蕉の『おくの細道』(草加の項)にある「漸(ようよう)草加‥」について、

ー略ー
「草加」の項に『其日漸く草加と云う宿にたどりつけり。』とある。これは、草加宿に宿泊したのではなく、当時は千住から草加宿まで、途中に宿場はなく休息処もなく、日光街道の中で一番長丁埸の区間であったところから、芭蕉は疲れて待ち遠しく思っていたところ、漸く草加宿に着いたことを記したものと考えられる。
(引用:ふるさと春日部『春日部の寺院』須賀芳郎/著 1996年)

と、「疲れて待ち遠しく思っていた」と書かれています。確かに、新暦の5月半ばですので、初夏とも言えなくはなく、早く何処かで休みたい、と思っても何ら不思議ではありません。

しかし、『野ざらし紀行』や『笈の小文』などの紀行文でもわかるように芭蕉は長旅には慣れていると思われます。また、芭蕉忍者説までもありますので、千住宿〜草加宿間の2里余りで「疲れた」は、考えにくいと思います。

それより、門弟など多く親しい人々の見送りを受けての旅立ちだったので、惜別の思いやこれから向かう陸奥への漠然とした不安な思いなどが入交じり、それらの気持ちを整理するためには少し時間が必要で、草加宿に着く頃になってやっと(漸く)旅への覚悟が定まった、という意味で、「漸(ようよう」(漸く)という言葉で表わしたのではなかなと思います。

◆地名のカタカナ表記
次に、地名のカタカナ表記についてですが、前掲書に

ー略ー
芭蕉に随行した弟子の曾良の日記によると、この日は、『カスカベ』に泊るとある。
それでは曾良は何故か「カタカナ」で『カスカベ』と記したのであろうか、筆者【須賀】は、次のように推測する。粕壁宿は昔から俳句の盛んな土地柄で、多くの俳人が出入りしているところで、当時有名な芭蕉が行脚の道すがら、粕壁宿に立ち寄ったので、宿内の有力者が出迎えて、もてなしをしたときに、曾良がこの土地の地名の文字を尋ねた際、ある人は「春日部」・「糟ケ邊」・「糟壁」と云、またある人は、この度の元禄の御触れで「粕壁宿」となったと答え、三者三様の答えがあり、曾良は、日記に『カスカベ』と片仮名で記したものと思われる。

と書かれています。

粕壁宿を案内するボランティアさんの中にも同じような説明をする方がいらっしゃいます。確かに、そのようなことが想像できますが、少々“盛り過ぎ” ではないでしょうか。

カタカナは、本来、漢文を読む時の補助記号として、生まれたとされ、主に公文書を読んだり書いたりする時にも利用されました。その他、学問をするためにも使われていました。

学問には多くの場合、漢字が使われていたので、カタカナは漢文を読むための補助的なものだったと言えます。曾良は元武士であり、漢詩や漢文の素養があったと思われますので、カタカナを使うのはごく当たり前のことだったのではないでしようか。

そもそも、芭蕉と曾良が立ち寄ることを地元の人たちはどうして知っていたのでしょうか? 旅立ちの前に前もって知らせておいたのでしょうか?

もし、そうだとすると、曾良は、「カスカベ」を「粕壁」と書くことは当然知っていたはずです。そもそも、初日は疲れていたのでしょう、地名は誰にも聞かず、単にカタカナで記したのに過ぎないのでは、と思います。

翌、3月28日には、

一 廿八日 マヽダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。間モナク降ル。午ノ下尅、止。此日、栗橋ノ関所通ル。手形モ断(ことわり)モ不入(いらず)。

続けて、

一 廿九日、辰ノ上尅、マヽダヲ出。  

とあります。

これらを見ると、曾良は「粕壁」や「間々田」の地名表記には特にこだわりはなく、やはり、ただ単にカタカナで書いただけなのかも知れません。

先述の通り、芭蕉の旅の目的は、あくまでも陸奥や北陸の歌枕を訪ねることであったので、歌枕でない土地には、さほど関心がなかったのではないかな、と思います。

4月1日の夜日光に到着した夜は、

…其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。 壱五弐四(不明)

さらに、翌4月2日の夜は、下野の玉入(たまにゅう、栃木県塩谷郡塩谷町玉生)に宿をとったが、

一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。

と、宿を変えたことが記されています。「粕壁」でも宿の名を書いておいてくれたら良かったのですが、、、。

なお、当地では、この「東陽寺」の他、修験の寺、小渕の「観音院」にも泊まったとする伝承があります。でも、元禄の頃、小渕は粕壁宿ではありませんので、わざわざ「カスカベ」と表記しないと思います。

それより、

◆旅を急いだ理由
疑問というかとても不思議なのは、「芭蕉は、なぜ、日光までをそんなに急いだのだろうか?」ということです。

何しろ、千住宿を出てからわずか4日で日光に着いているのですから。

前述の通り、芭蕉忍者説もあるそうなので、私的には、むしろそちらの方が気になります。

なお、3月は、陰暦で小の月なので、29日まで。従って、翌日が4月1日となります。

以前、通信制の大学に行ってた頃、ある方が、この課題(「芭蕉は、何故日光までそんなに急いだのか?」)を卒論のテーマに選んだと仰っていました。

その仮説は、

江戸時代、毎年4月に日光の大祭に朝廷から派遣された日光例幣使が、4月の中旬に日光東照宮に到着するので、その前に日光を訪れたかった。即ち、街道筋の警戒が厳しくなる前に通過したかったのではないか。

とのことでした(後で少し説を変えられたようですが)。とても興味深いと思いませんか。

そう言えば、曾良は、栗橋の関所を「手形も断(ことわり)もいらずに通った」と、書いています。厳しい警戒が無かった安堵感とも解釈できます。

日光例幣使(にっこうれいへいし)

①日光へ例年、幣物(金色のぬさ)を奉献する勅使のこと。日光東照宮で毎年4月15日から家康の命日の17日まで大祭が行われる。この祭礼に朝廷からの幣物を持って行くのである。正保4年に始まり慶応3年までの221年間毎年中止することなく続いた。正保3年(1646年)より、日光東照宮の例祭に派遣される日光例幣使の制度が始まった。江戸時代には、単に例幣使と言えば日光例幣使を指すことの方が多かった。
②日光例幣使にとって、当時日光へ出向くことは大変な「田舎道中」であり、一刻も早く行って奉幣を済ませて帰りたいという心理があり、また道中で江戸を経由することとなると幕府への挨拶など面倒も多かったため、例幣使は、往路には東海道・江戸を経由せず、中山道~倉賀野宿~例幣使街道という内陸経由で日光に向かった。
③日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。中山道の倉賀野宿を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。

◆若き日の苦い思い出

私の高校二年生の時の恩師担任が、当時、若手の芭蕉研究者と言われた先生で、後に、某有名私立大学の教授になりました。

修学旅行で東北に行った時のこと、平泉の中尊寺で、お坊さんたちが、先生を取り囲むようにして、芭蕉について、色々質問していたことを思い出しました。当時、生意気にも「凄い先生なんだ!」と思ったことがありました。

今さらながらもう少し芭蕉のことを聞いておけば良かったなあ、と我が身の不勉強を少し悔いています。

少し強引だったかも知れませんが、“傳”芭蕉宿泊の寺「東陽寺」と松尾芭蕉・河合曾良について、思っていること、考えていることを書いてみました。


おわり



【参考書籍】

  • 新版 おくのほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き (角川ソフィア文庫)



”傅”芭蕉宿泊の寺・東陽寺(其の二)

2022-05-22 19:30:00 | 寺院
更新日:2022/05/22・公開日:2019/02/04

◆旅立ち
俳人松尾芭蕉は、崇拝する西行の500回忌に当たる元禄2年(1689)3月20日、江戸深川を舟で出発、千住に上がり、旅支度を整え、27日の朝、

行く春や鳥啼魚の目は泪

と詠み、門弟河合曾良を伴い陸奥への歌枕の旅に出ました。

芭蕉齢46歳。そして、今年(2022年)は、芭蕉の陸奥の国への旅立ちから333年にあたる年となります。

陸奥の国や北陸は、大和や近江と同じく歌枕が多いとされ、芭蕉にとっては、未知なる国への憧れがあったのではないか、と言われています。

なお、この旅立ちの旧暦3月27日(新暦では5月16日)を記念して、日本旅ペンクラブにより、新暦の5月16日は「旅の日」として制定されています(昭和68年(1988)制定)。

そして、『おくのほそ道』の「草加」の項に、

其日漸(やうやう)早加(草加)といふ宿(しゆく)にたどり着けにけり
(新訂『おくのほそ道』付現代語訳曾良随行日記 頴原退蔵・尾形仂=訳注、昭和42年9月20日、角川文庫)

という記述があることから、芭蕉と曾良はその晩は「草加に泊まった」という説が有力とされてきました。

しかし、同行した曾良の随行日記には、

巳三月廿日 日出、深川出船。
 巳ノ下尅 千住ニ揚ル。
一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。 江戸ヨリ九里余。

(前掲書)

粕壁宿にある曹洞宗の寺・医王山東陽寺は、



芭蕉一行が宿泊したといわれる寺です。


“傳”芭蕉宿泊の寺

その東陽寺にある「曾良の随行日記の碑」には、前掲の『おくのほそみち』の一部分が刻まれています。


東陽寺にある曾良の随行日記の碑

以来、「カスカベ」(碑文はカスカヘ)に泊まった、とする説が定着しています。



「東陽寺」の隣の店舗に描かれているシャツターアート。

「ものいへば 唇さむし 秋の風」(?)と書いてあります。

◆カスカべ着

ともあれ、3月27日は、千住宿から、草加宿、越ヶ谷宿と6里18丁(町)歩き、その日の夕刻、最初の宿、粕壁宿に到着しました。

粕壁宿は千住宿より6里18丁の距離にあり、草加宿からは越ケ谷宿を経て4里10丁。千住宿から草加宿まで2里8丁、草加宿から越ケ谷宿まで1里18丁、越ケ谷宿から粕壁宿までは2里18丁。なお、「江戸ヨリ九里余」とは日本橋からの距離です。

※1里=36丁(町)、約4km(3.93km)、丁(町)=約109m。

当時の旅人は、一日に、だいたい8〜10里(約32キロメートルから約40キロメートル)歩いたそうですので、草加に泊まったとするには、少し距離が短いかな、と思います。

なにしろ、翌日(28日)も9里歩いてマゝダ(間々田)まで行っていますから。

なお、「カスカベ」 に泊まったことは、ほぼ間違いないとして、残念ながら「カスカベ」のどこに泊まったか、まではわかりません。最も有力な説はこの東陽寺です。

◆単なる通過点
芭蕉にとって、この旅の目的地は、あくまで陸奥の国であり、草加やカスカベは、単なる通過点にすぎせん。どこに泊まったかは、あまり重要ではなかったと思います。

郷土史家の須賀芳郎氏は、著書『春日部の寺院』(1996年)「東陽寺」の項で(少し長文ですが)、

一番目の宿場に泊り、旅の手続きを【道中手形・出国手続き等】を済ませ、愈々千住を出発、奥羽長途の旅に立つ、「草加」の項に『其日漸く草加と云う宿にたどりつけり。』とある。これは、草加宿に宿泊したのではなく、当時は千住から草加宿まで、途中に宿場はなく休息処もなく、日光街道の中で一番長丁埸の区間であったところから、芭蕉は疲れて待ち遠しく思っていたところ、漸く草加宿に着いたことを記したものと考えられる。芭蕉に随行した弟子の曾良の日記によると、この日は、『カスカベ』に泊るとある。それでは曾良は何故か「カタカナ」で『カスカベ』と記したのであろうか、筆者【須賀】は、次のように推測する。粕壁宿は昔から俳句の盛んな土地柄で、多くの俳人が出入りしているところで、当時有名な芭蕉が行脚の道すがら、粕壁宿に立ち寄ったので、宿内の有力者が出迎えて、もてなしをしたときに、曾良がこの土地の地名の文字を尋ねた際、ある人は「春日部」・「糟ケ邊」・「糟壁」と云、またある人は、この度の元禄の御触れで「粕壁宿」となったと答え、三者三様の答えがあり、曾良は、日記に『カスカベ』と片仮名で記したものと思われる。
それでは『カスカベ』の何処に宿泊したのであろうか?推測の中では現在の一宮町にある『禅寺の東陽寺』ではないかと考えられる。何故なら代々の寺の住職の口伝もあり、さらに筆者は、芭蕉の経歴から見て、主君の死後、京都の五大山の一つ『建仁寺』に入門し、禅・托鉢の修行をし、また俳諧の所属が壇林とあり、壇林とは禅寺に多く、談林とはおのずと異なるものと思われるからで、芭蕉は、いわば禅宗の僧籍を持った人と考えられる。『おくのほそ道』紀行では、それ程多額な費用は持っていないのではないか?【おくのほそ道の記述の中に『痩骨の肩にかかれる物先ず苦しむ。只身すがらにと出立ち侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雤具・墨筆のたぐひあるはさりがたき餞などしるしたるは、さすが打ち捨てがたくて路地の煩いとなれるこそわりなけれ。とあり。】深川の庵を処分したり、多少の餞別程度でこの長い旅路の費用は大変な負担になるので、最小限度の費用で旅をしたのではないかと想像されるから、【記述の中で、旅用としての最低限の着物・雤具・筆墨を持ち、しかし多くの人から贈られた餞別は重いなれど道中では、打ち捨て難く荷物になるがやむをえない。と記されているがさほどの金額ではないと推定する】旅篭は利用されず、旅先の禅寺や宿場の有力者の家に宿泊したのではないかと思う。

曾良の日記からもそのことが推定される。
(引用:ふるさと春日部『春日部の寺院』須賀芳郎/著 1996年)

と記述されていますが、違和感を感じる点が少しありますので、後編ではこれらについて私見を書いてみたいと思います。


続く…


【参考書籍】

新版 おくのほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き (角川ソフィア文庫)/作者: 松尾芭蕉 出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川学芸出版 発売日: 2014/03/06 メディア: Kindle版









((備考:本記事は当初2019年2月4日にエントリーした記事ですが、今回リライトして前後編に分け、2021年6月26日に再エントリーしました。))





“傅”芭蕉宿泊の寺・東陽寺(其の一)

2022-05-18 19:30:00 | 寺院
更新日:2022/05/18・公開日:2019/01/30
昨日、5月16日は、俳人松尾芭蕉と弟子の河合曾良が歌枕を訪ねる陸奥に旅立つた日(旧暦の3月27日)を記念して旅の日に制定されています。今回は、その旅の日に因んだ話題を。

◆“傅”芭蕉宿泊の寺

粕壁宿の入り口、一宮交差点の北側に、俳人松尾芭蕉と弟子の河合曾良が陸奥の国への旅の一日目に泊まったとの伝承が残る曹洞宗医王山東陽寺(そうとうしゅう・いおうさん・とうようじ)というお寺があります。

案内のポール
まずは、このお寺について、

曹洞宗医王山東陽寺

◆本尊

ご本尊は薬師如来坐像脇仏は日光菩薩立像月光菩薩立像。作者、年代等は不詳。

"傳"芭蕉宿泊の寺

かわいいお地蔵さん

六地蔵

◆縁起・沿革・由来

東陽寺の縁起・沿革・由来については

『新編武蔵風土記稿』には、禅宗曹洞派足立郡片柳村万年寺末、医王山と号す。古は大寺なりしが、永禄年中焼失の後衰微せしを、寛永年間、熊厳といへる僧再建せり、因って是を中興開山とす。同19年10月示寂。鐘楼万治元年鋳造の鐘を掛け、秋葉社、金毘羅社・観音堂。と記されている。 

引用:ふるさと春日部『春日部の寺院』須賀芳郎/著 1996年

となっています。

なお、

※開基は寛永9年(1632年)に入山の熊巌呑藝(ゆうがんどんげ)和尚。
新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)と

昌平黌地理局総裁林述斎(はやしじゅっさい)編。全265巻。武蔵国の総国図説から建置沿革、山川、名所、産物、芸文と各郡村里に分かれている。文書や記録も収録され、村の地勢、領主、小名、寺社、山川や物産等の記述は、詳細で正確である。幕府官撰の地誌として

武蔵国研究にとって重要な史料。《大日本地誌体系》所収。なお、大日本地誌大系(だいにほんちしたいけい)とは、江戸幕府が編集した国内地誌の集大成である。[神崎章利](『日本史大辞典』第三巻(平凡社、1993年))。 

また、 

武蔵国郡村誌』には、粕壁宿の東方字新々田にあり、曹洞宗足立郡片柳村萬年寺の末派なり。開基未詳。と記されている。

※武蔵国郡村誌(むさしのくにぐんそんし)とは

明治8年(1875)6月5日付けの太政大臣三条実美の示達に基づき、全国的に地誌の編纂が行われた

埼玉県では、時の県令白根太助のもとで調査が実施され、取りまとめのうえ地理寮に差し出した。郡村誌は、この副本(原本は、関東大震災で焼失)であり、全103巻から成る。現在は埼玉県立文書館に保存されている。
その内容は県下全域の地誌であり、記載事項を見ると、往時の郷庄領名、疆域、幅員、管轄沿革、里程、地勢、地味、税地、飛地、字地、貢租、戸数、人口、牛馬、舟車、山川、湖沼、森林、道路、提塘、神社、仏寺、役場、学校、郵便局、古跡、物産、民業などの項目にわけて、村々の実態を順序正しく、かなり詳細に書きあげている。
(『研究紀要『』第20号、埼玉県立歴史資料館、1998.3.27 p41〜p42。『武蔵国郡村』に見える比企の物産、1.郡村誌の成立)

さらに、寺の伝記では

寺の言伝えによると、この寺は文明年間(1475)頃の創建で、現在の八幡公園付近(『新編武蔵風土記稿』の中に寺迹(てらじ)と称する字があった)で、古文書にも、東陽寺屋敷の文字が記されている。故老の伝えるところによると、この辺り(寺迹辺り)に行基菩薩の作と伝えられる薬師如来像が忽然として出現し、霊験あらたかで眼病を始め種々の病平癒祈願の参詣者が多かったという。
文禄年中(1596年)頃焼失し衰微して一時期は消滅したが、寛永2年(1625年)足立郡片柳村の萬年寺の六世熊厳和尚が現在地(今の東陽寺)に再興されて、開山僧となったという伝えが残されている。

注:伝えられる薬師如来は、一時期東陽寺に安置されたが、(元の寺迹)付近に災厄があり、住民が薬師如来は、出現した場所にお返しするべきであるとして、今の浜川戸薬師堂に、お祠りしたと伝えられている。

引用:ふるさと春日部『春日部の寺院』須賀芳郎/著 1996年

折角なので、その薬師堂について、

浜川戸薬師堂 

春日部久喜線を少し入ったこの辺りが寺迹(てらじ)なのでしょうか?


正面の建物が「浜川戸薬師堂」


浜川戸薬師堂
中を覗いて観ると


堂内

中央薬師如来坐像、左和脇侍(向かって右)「日光菩薩立像」、右脇侍(向かって左)「月光菩薩立像」、手前には十二神将も。この薬師如来坐像こそ、かって東陽寺に安置されていた薬師如来なのでしょうか? それはわかりませんが。 

さらに近くには


八幡公園

この地の下に、平安・鎌倉時代の武将春日部氏の館跡?と言われる「浜川戸遺跡」があります。


浜川戸遺跡
そして、今は畑のこの辺にも「浜川戸遺跡」があったとされています。なお、向かいの木の繁った高いところは不弐大神が祀られているかすかべの富士山です。

今回ご紹介した東陽寺の檀家は、宿場の商家や下組以東の農家の方が多く、学者や知識人の菩提寺とのことです。

そして、寺の境内には、松尾芭蕉ゆかりの石碑があります。それは次回に、、、。

つづく…


あの『じゅん散歩』が“かすかべ”にやってきた!(2月17/18日放送分)

2022-05-14 19:30:00 | テレビ番組
更新日:2022/05/14・公開日:2022/02/28
今年2月にテレビ朝日地上波で放送された『じゅん散歩』の記事です。今回は、17日、18日放送分を。
◆地域の守護神
2月17日放送の『じゅん散歩』で、じゅんさんこと三代目散歩人の高田純次さんは、春日部市東部にある「首都圏外郭放水路」を訪れ、地下神殿で遊びました。

地底探検ミュージアム龍Q館(国土交通省江戸川整備局より)
◆立坑へ
第1立杭入口から立坑を見学、立坑は市内5ヶ所にあり、この第1立坑から調圧水槽を経て江戸川に放流されるそうです。立坑は直径30m、深さ70m。あのスペースシャトルや自由の女神がすっぽり入る大きさとの説明にびっくり。
◆地下神殿
続いていよいよ地下神殿へ。入口から入り、116段の階段を下りて、地下神殿に到着。

地下神殿(調圧水槽)国土交通省江戸川整備局より

神殿に立ったじゅんさんは、「これはこれは!下手な宮殿真っ青ですよ、見てください!」と興奮しきり。

地下神殿は高さ18m、幅78m、奥行き177m、そして柱は59本あり、一本の柱は長さ7m、幅2m。

じゅんさんは、柱の数が59本との説明を聞き、「59本に何か意味があるの?」と質問していましたが、特に意味はないそうです。

そして、今流行りの映え写真に挑戦、ジャンプしていましたが、やはり歳なんでしょうね、、、。

※画像は何れも国土交通省関東整備局江戸川事務所より

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首都圏外郭放水路

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地域の治水施設である「首都圏外郭放水路」の役割をもっと深く知っていただけるように、社会実験第2弾として新たな4コースの見学会がスタート。首都圏外郭放水路の壮大さを...

首都圏外郭放水路

江戸川河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局
そして、翌2月18日の放送では
県指定伝統工芸品
かすかべの名産品を求めて、日光街道を歩き、かすかべの伝統工芸品桐箱を製造している株式会社増田桐箱さんを訪れました。
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松田克哉社長から「春日部の桐箱は、江戸時代、日光東照宮の建築に携わった職人たちが移り住み桐の箱を作ったことから名産品になった」ことや、今はメロン贈答品の箱に使われいることを聞き、じゅんさんは「箱よりも、メロンは無いの?」とボケていました。
そして、桐製のアクセサリーボックスを見て、「ぴったりと合うんだよね」と感心していました。
更に「うちのかあちゃん4月生まれなので、ダイアモンド? 本当は11月生まれなのでトパーズ」と、ここでもボケていました。まさにテキート男炸裂。
そして、散歩の後の締めは、やはり食べること、「食」ですね。
◆かすかべ名物
かすかべでは、藤花園の国指定天然記念物「牛島の藤」が有名ですが、市内18の蕎麦店が協力している藤の花に因んだ薄紅色のうどん「藤うどん」があります。じゅんさんは、その藤うどんを食べに、蕎麦の名店「蕎麦匠ほりた」を訪れました。

蕎麦匠ほりたのホームページはこちら
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蕎麦匠ほりた|埼玉県春日部市緑町にある親子2代で続く蕎麦屋

蕎麦匠ほりた|埼玉県春日部市緑町にある親子2代で続く蕎麦屋

埼玉県春日部市緑町にある蕎麦匠ほりたは、これまで親子2代で蕎麦作りを行ってきました。挽きたて・打ちたて・茹でたての麺や出汁のきいた親子丼・牛丼などを提供しておりま...

蕎麦匠ほりた

じゅんさんは、薄紅色の藤うどんを見て「明太子でも入っているの? 違うなぁ」などと言っていました。説明では薄紅色の色は紅いもを粉末にして練り込んでいる、そうです。

日本のうどんに指定
じゅんさんは早速藤うどんを口に、そして、お店の方に、「質問です、日本の国鳥は何でしょう?」と問いかけ、お店の方は「鶴(ツル)」と答えると、じゅんさんは「鶴(ツル)、丹頂鶴(タンチョウヅル)だよね」と応じ、「雉(キジ)です」と返し、そして「この藤うどんを国のうどんにします」と宣言しました。ありがとう“じゅんさん”

このように、散歩人・高田純次さんは、行く先々で会う人たちとの出会いを大切に、と同時にご自分も楽しんでるんだなぁ、と思いしました。会話の端々にユーモアがあり、ボケも見事。
まさに番組コンセプトの通り「一歩一会」なんですね。じゅんさん、またかすかべにいらしてください。待っています!!

おわり