かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・ミセと蔵のある町家

2022-07-10 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/05/16・更新日:2022/07/10

ミセと蔵

粕壁宿の道しるべからさらに200m程度下った交差点の角に立派な蔵のある商店があります。

ミセと蔵

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写真の建物は、粕壁宿に現存する土蔵のある町家(「田村荒物店」)。

かすかべ大通りと公園橋通りの交差点の角にあるこの町家(「田村荒物店」)では、一番、三~五番蔵と呼ばれる4棟の蔵が残っています。

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ミセの前にあるポール型の案内板

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◆案内板

中宿(なかじゅく・仲町)と呼ばれたこの辺りには、江戸時代に米問屋など蔵造りの商家や旅籠屋(はたごや)などが多く並んだ。

粕壁宿の商家は、間口が狭く奥行きの長い敷地で、街道の並びには商業空間としての「ミセ」を、その奥には生活空間としての「オク」がつくられた。

このような短冊状の地割は、江戸時代の宿場町にみられる歴史的な景観の一つである。街道の北側の商家は古利根川まで蔵を連ね、舟を乗りつけ荷を上げ下げされた。現存する蔵造りの建物は、火災除けのため、幕末から明治期にかけて建てられものが多い。 

  平成二十七年七月

  春日部市教育委員会

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ポール型の案内板の絵図を拡大すると

◆中宿

この「かすかべ大通り(旧日光道中)」は、電線が地中化されていて、そこに設置してある「配電盤」には、粕壁宿の旧町名とその町を表す絵が描かれています。

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中宿の場合は

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歩道側、神社は粕壁神明社でしょうか?

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車道側、お祭り?

春日部市史(第5巻・民俗編)にこの商家の例が「T家」として記載されています。

それによると

T家が雑貨商を始めたのは終戦後のことで、それまでは質屋をしていた。住居部分の先に内蔵があるのは預かった品物を保管するためであった。しかし、T家はもと四〇町余の大地主であり、その小作料が主な収入源であった。主として米を入れる蔵は、幅三間(※1)・長さ八間のものと、幅ニ間半・長さ九間のものと二つあった。蔵の一部には床を張り、年寄りの部屋になっていた。

 質物や米俵を多く収納していることはもちろん、隣家と軒を連ねている町家では、防火の備えを常に怠ることがなかったという。

 店はチョウバ(帳場)といい、床部分は畳三枚分で、あとは土間だった。恵比寿・大黒が祀ってあった。

 竈は別棟で、井戸のそばに二つあった。餅は竈のそばの屋外で餅を搗いた。

 実に立派な笠間稲荷が祀られている。かつては、オビシャ(※2)には、近所のお祖母ちゃんがよく集まったものであるという。スミツカリ(※3)も作ったものだった。

 母屋の裏の畑は自家用の野菜を作った。茶の木も植えてあった。

(引用:春日部市史・第5巻・民俗編・第一章・第三節・住居・三・町家)

※1:1間=1. 1818メートル

※2:オビシャ=主に茨城県から千葉県にかけての利根川沿いで多く行われてきた農村の神事で、年頭に行う。三本足のカラスや鬼を描いた的を弓で射て、その年の豊凶を占うものであるという。馬に乗って弓を射るのに対して、馬に乗らずに弓を射る徒弓(かちゆみ)神事。「歩射(ぶしゃ)」がなまったものという説が有力とされる。また、的を射る行事が脱落し、単に年頭の初寄り合いになっているところも少なくない。

※3:スミツカリ=栃木、茨城、群馬、埼玉各県の郷土料理。二月の初午(はつうま)の日によく作られる。初午の日に赤飯とともに稲荷神社に供える行事食。鮭の頭と大豆、ニンジン、大根などの根菜、酒粕を煮込んだ料理である。地域により「しもつかり」、「しみつかり」、「しみつかれ」、「すみつかれ」、「すみつかり」とも。

◆町家

間口が狭くて、奥行きが長い、いわゆる「うなぎの寝床」のような建物は、京都の町家などで多く見られます。

前掲の春日部市史では、粕壁宿の町家の特徴として、

通りに面する側は、現在の様子から推定すると、七間半ぐらいで、店の建物がおよそ四間半、荷車を引き込める一間半ほどの道幅と植え込みになっている。奥行は二○間ないし三○間余のものもある。

通りに面した店から部屋を直線的に奥に続けて、住宅部分・文庫蔵など、次いで別棟の竃場・井戸・灰小屋・便所・蔵・倉庫など、また屋敷神が祀られ、奥へ奥へと続いていた。広い敷地の場合、一番奥辺りは自家用の菜園になっていた。

竃や風呂場など火を使う所は、母屋と別に、母屋と平行させ、わずかでも距離をおいて別屋根の小屋を作る。灰小屋は、どの建物からもできるだけ離した位置においてある。火事の火元になってしまったときの社会的制裁は取り返しのつかない恐ろしいものである。

としています。

一説には、江戸時代、間口(家などの正面)の広さで税(間口税)を課していたところから、税負担を軽くするため間口が狭く細長い家が多くなった、と言われています。もっとも、それは俗説とも。 

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脇の歩道

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土蔵 裏から
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土蔵の裏には菜園(?)

以前、土蔵の中を観せて頂く機会がありました。その際、ご主人(四代目?)は

明治8年に店と母屋内蔵が、明治23年に裏の土蔵が完成。市史にあるように、初代と二代目は終戦まで質店を経営、三代目が昭和22年に荒物店を開業。また、昭和61年の道路拡幅の際、店前側歩道と川端側の三方に道路がかかり、曳家工法で増改築した。この道路拡幅で、敷地はかなり狭くなった。そして、本当に観てもらいたいのは江戸時代から庭にある梅の老木なんだけどね。

などと仰っていました。また、敷地内には屋敷稲荷も祀ってありました。

歩道脇には

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人工の清流(?)が

そして、粕壁宿では〇〇〇にも絵が

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向かいの公衆トイレ
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壁面には宿場の様子(?)の絵が描かれています。

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こちらにも清流

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コンコンと

僅か数十メートルの小さな木陰ですが、下を通ると涼しい川風が吹いてきます。


日光道中粕壁宿・土蔵のある町家

2022-07-06 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/05/14・更新日:2022/07/06

古い建造物

現在のかすかべ大通り(旧日光道中・粕壁宿)沿いは、都市化の進展もあり往時の姿はほとんど留めてはいませんが、それでも僅かながら幕末以降に造られた土蔵を持つ古い建造物が残されています。  

土蔵とは

土蔵は土壁で造られた蔵の総称で、現在残っている白や黒の漆喰で仕上げる大壁造りの土蔵は近世(幕末以降)になってから造られたと言われています。

耐火建築を目的に造られた土蔵は、屋根は瓦葺きにし、壁は太い竹を芯に入れ土壁を重ねて塗り、最後に漆喰(しっくい)で仕上げます。また、扉や窓には段を設け密封性を高めます。

それらの建造物は、用途によって「主屋」・「米蔵」・「店蔵」・「文庫土蔵(土壁で造られた蔵の総称で、現在残っている白や黒の漆喰で仕上げる大壁造りの蔵)」等に分けられていました。「米蔵」は集積した米等の商品を、「店蔵」は帳簿等を、そして「文庫蔵」は美術品等の大切な家財を保管するものでした。  

◆土蔵の普及

土蔵が本格的に普及し始めたのは江戸時代の中ごろで、度重なる大火を経験した江戸の町に対して、幕府が防火対策として耐火建築の土蔵を奨励したことによります。

そして土蔵建築が粕壁など江戸近郊に広がったのは幕末から明治のころで、蔵造りの町並みで知られる川越の蔵も明治の半ばごろに造られました。 

粕壁宿に現存する土蔵も同じ時期に造られたと考えられています。一説には、古利根川対岸の小淵村から出火した「島村の大火」(天保6年(1835))によって被害が粕壁宿内に広範囲に及んだため、その後の明治23年頃から防火対策として土塀漆喰の土蔵造りが、この付近に普及したと言われています。

◆土蔵のある商家 

そのシンボル的な建造物がこちら


前回ご紹介した「道しるべ」がある「東屋 田村本店」

店の前に「道しるべ」が建っている「東屋 田村本店」では、「店蔵」から、幕末の弘化3年(1847)、嘉永4年(1852)銘の、そして「穀物蔵」から大正2年(1913)銘の墨書が確認されているそうです。 


突き当りの大落古利根川まで続く土塀 

奥行きがかなりあります。狭い間口に比べて奥行きがあるのが特徴です。

春日部市立郷土資料館のジオラマで見ると良くわかります。(許可を得て撮影)


関根名主(許可を得て撮影)
土塀の先には白壁が

白壁は2011年の東日本大震災で少し崩れていましたが、その後きれいに修復されています。

古利根公園橋から見ると



渋沢栄一やあの宮様も

東日本大震災の前年、この商家の屋根を修理した(株)オオギヤさんのブログ(2010.6.20〜22日に書かれた)がありますので、こちらをどうぞ。とても参考になります。

↓↓

オオギヤ 国内・海外旅行、屋根、久喜の瓦のブログ

ブログでは、

ー前略ー
また、離座敷は現位置を保つ数少ない敷地内の建造物で、古利根川を意識した高貴な客を招き入れる構造で、渋沢栄一を始め東久邇宮等が来訪したという由来が残されているそうです。
春日部の田村家は春日部市内でも有数の旧家で、大地主であった。現在の中川、旧古利根川の水運によって、小作農家から揚がってきた米、麦、豆などの五穀を中心に、江戸より買いいれた塩、砂糖などを販売していたそうです。
ー以下略ー

と書かれています。何分、個人のお宅であり、公共の建物ではありませんので、今まで知りませんでした。

また、ブログには、

渋沢栄一や東久邇宮様(宿泊もございました)が来訪された

とも書いてあります。そして、宮様の来訪、ご宿泊を記念した「記念碑」が邸内にあるそうです。あとはブログをお読みください。 

伊藤博文

また、こちらのサイト(埼玉県住まいづくり協議会)には、伊藤博文も来訪されたと書かれています。初めて知りました。

↓↓

#20 舟運と陸運の要路 春日部


後に日本銀行券(お札)の顔となる二人が訪れたということです。






         


日光道中粕壁宿・道しるべ

2022-07-02 19:30:00 | 地域発信情報
更新日:2022/07/02・公開日:2018/12/27
◆粕壁宿
埼玉県東部にある春日部市は、江戸時代、日光道中4番目の宿場町として栄え、往時、多くの旅人がこの粕壁宿に一夜の宿をとりました。そして、旅人が行き交う街道沿いには、旅程を示す一里塚や道しるべがあり、道先案内人の役割を果たしました。
◆道しるべ
春日部駅の東を南北に通るかすかべ大通り(旧日光道中)沿いにある東屋田村屋本店の前に道しるべが建っています。
建立から200年程経っていますが、昔の雰囲気がそのまま残っていますので、立ち止まって写真を撮る方もよく見かけます。

東屋田村屋本店

道しるべと赤いポスト
この「道しるべ」は、天保5年(1834)二月銘の残る専用道標(道しるべ)で江戸時代から現存しているものです。
道しるべ西南 いはつき

東江戸・北日光
光の関係でよく読めないところはありますが、側面には、「西南い八つき、東江戸 右乃方陸羽みち、北日光」と刻んであり、往時の活発な人の往来が伺えます。

また、「古来立木表以記岐路方向今胥議以石代之(古くは分かれ道の方向を示すには、木を立てていたが、今回、皆と相談して石に代える)。さらに、天保五年二月 春日部駅長煕等立(電車の駅ではありません、馬駅・うまや=馬の乗り継ぎ所)と刻んであり、粕壁宿の当時の名主、関根次郎兵衛が立てたことが分かります。面白いのは春日部となっているところ、粕壁ではないのですね。

胥議:互いに相談すること。皆で相談することの意。

なお、春日部市郷土資料館には、この「道しるべ」のレプリカが展示されています。

また、この「道しるべ」は、 以前、田村家の裏庭にあったものを、旧街道通りを整備したときに表通りに移したと言われており、刻んである方角からすると、元々は、最勝院方面の高札場(高層マンション付近)辺りに建てられていたと思われます。

◆テレビ番組に

そう言えば、昔、NHK-BSの「街道てくてく旅」というシリーズ番組で、旅人の卓球選手四元奈生美さん(当時ファッショナブルなユニフォームで有名でした)が当地を訪れ、田村家の道しるべの脇の駐車場で地元の方と卓球の試合をされた映像を思い出しました。

人生は長い旅、この先、人生の岐路に立った時、果たして「道しるべ」があるのか無いのか誰にも分かりませんが、自分の信じた方向に進むしかありません。それはそれでまたいいではありませんか。