かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・春日部稲荷神社で新発見?!

2022-09-08 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/07/22・更新日:2022/09/0

春日部八幡神社の本殿の右手から細い道を登って行くと、春日部稲荷神社があります。今回はこの神社のこと。また、そこで自分にとって新しい発見がありました。

◆春日部稲荷神社

この稲荷神社もかなり古い神社と言われています。

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稲荷神社へ

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朱い幟が

と、その前に、

今更ですが、稲荷神社のことをいろいろと、

◆稲荷神社とは

稲荷神社は、八幡神社と同じく、「お稲荷さん」とか「お稲荷さま」と呼ばれ、親しまれている、いわば一番身近な神社です。全国的には八幡神社を上回る数の稲荷神社があると言われています。そして、朱い鳥居が特徴的ですね。

でも、何故多く祀られいるのか、何故狐(キツネ)なのか? 

などわからないこともも結構多いですよね。 

そんな疑問に答えてくれるのが、こちらのブログです。

↓↓

【7割の人が知らない?】お稲荷さん、稲荷神社の神様はキツネではありません

お稲荷さん、稲荷神社の神様は、キツネ様ではありません。伏見稲荷大社を総本宮とする稲荷神社は、キツネの神様というイメージが強いかもしれませんが、実はそれは違います...

神社専門メディア奥宮

また、狐の神は、別名「命婦神(みょうぶがみ)命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)」とも言われています。なお、「命婦」とは、五位以上の女官のことで、何故か狐と女官がつながっていったのかは、わかりませんが、きっといろんな説があるのでしょうね。

狐は、春から秋にかけて、山から下りて里に現れます。そして、春の稲の田植えの時期と秋の実りの時期に、現れるので、山に住む農業を守る神(作神)の使いであると考えられるようになったともいわれています。

さらに、稲荷と狐の関係は、神仏習合と「荼枳尼天(だきにてん)」の話に関係しているという説もあります。この「荼枳尼天」を篤く信仰したのは、平氏の平清盛とのことです。そして、八幡信仰は源氏。また、両方の神社とも秦氏に関係しているとか、う〜ん。

その他、狐は頭が小さくお尻が大きいという形から、瓢箪(ひょうたん)によく似ているという説もあります。そういえば、狐と瓢、字のつくりは瓜で同じですね

いずれにしても稲荷神社は謎めいていてとても興味深い神社です。

なにしろ、狐は、五穀豊穣の神商売繁盛の神と言われていますので、これからも変わらず大切に。

さて、前置きは、これぐらいにして、 

◆春日部稲荷神社参道

今回は、正式に参道から

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春日部稲荷神社参道

ここを右折→

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何やら鳥居らしきものが

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一の鳥居

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まるで朱いトンネル

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ニの鳥居

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三の鳥居

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四の鳥居をくぐると狐が

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こちらもうしろから

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本殿

◆御祭神・由緒・沿革・鎮座年月日

御祭神は、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)

由緒・沿革:鎮座年月日は不詳なれども、故老よりの伝承によれば、昔、春日部氏が此の地に築城の際、氏神として祭祀し、領土安穏・五穀豊穣を祈願したものであると伝えられている。

(ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎著、1996年)

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説明板

この説明板は、「ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎著、1996年」によると、

筆者【須賀芳郎】は、昭和五十五年、社殿改築・遷宮の際、氏子会長の依頼を受け、故老よりの伝承と史書の閲読を基に推察して、当社の由緒を記した。【現在社前入口に掲示】これは、『春日部』の地名から類推して記したものである。

と書かれており、どうやら、須賀芳郎氏ご自身がお書きなっ説明文のようです。

◆説明板

当神社は春日部稲荷大明神と申し上げ、ご祭神は「倉稲魂神」と申し上げます。
 縁起・由緒については詳らかではありませんが、「春日部」と言う地名と、この場所より推察して当神社の由緒を記します。

春日部と言う地名は、古代の雄略天皇【二十一代天皇】の期 生歴四七八年に大和朝廷の属地として定められ、「皇女春日大娘(かすがのおおいらつめすめらひめ)」の御名代部(みなしろべ)として命名された地名であります。

 御名代部を統治・管理するために派遣された在庁官人がこの地に居を構えていたことが、遺跡の発掘により推測されます。
中世の時代になって、武士団が結成され、この地に住していた領主は、武蔵国荏原郡に住した本姓紀氏の一派であり、在地名「春日部」を名乗ったと言われる豪族であります。
当社の所在するこの地は春日部氏の屋敷跡であり、春日部稲荷大明神は春日部氏の屋敷神として京都伏見稲荷大社より勧請し祭祀されたものであります。

創建の年代を案ずるに伏見大社は奈良時代の和銅年間とあり、それより降ること二百年位と推定されるので、平安期と思考され、およそ千百年位以前の創建と推擦する次第です。

     昭和五十五年庚申六月

      

         春日部稲荷神社

       当社の総敷地面積 壱千四百六拾六坪

参考までに、伏見稲荷大社のサイトを

↓↓

伏見稲荷大社

河畔砂丘「浜川戸砂丘」

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河畔砂丘「浜川戸砂丘」
春日部八幡神社や春日部稲荷神社が鎮座している箇所は、埼玉県指定 天然記念物「中川低地の河畔砂丘 浜川戸砂丘」で、榛名山や浅間山の火山灰等に由来する大量の土砂が利根川の旧河道沿いに堆積した内陸性の河畔砂丘です。

◆「盃状穴」発見!?

春日部稲荷神社参道の階段脇に古い水盤がありました。よく見ると、水盤の縁に盃状のくぼみがありました。もしかして、盃状穴?!

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水盤

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別の角度から

八丁目村新町 年号は、享保16辛亥年(1731)5月吉日でしょうか?

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そう言われれば、くぼみが

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こちらにも

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もう少し寄ってみます

ところで、

◆盃状穴とは

奈良大学の通信制で知り合った三重県鳥羽市在住の友人で日本民俗学会員の橋本好史さんが送ってくれた、ご自分のことが載っている新聞記事によると、

 盃状穴は、手洗い石などに硬い棒状の物で掘られた盃状のくぼみで、形状はさまざまだが、直径7㌢、深さ3㌢前後のものがよく見られる。1980年に梅光女学院大(現梅光学院大、山口県下関市)の故国分直一教授が、山口市の古墳から出土した石棺の穴に着目し、盃状穴と名付けた。

〜中略〜

 全国の盃状穴は、第一人者の兵庫県加古川市の三浦孝一さん(75)のまとめで、沖縄県から青森県まで3175件が確認された。主に江戸時代から明治にかけて寺社の石に掘られたという。北海道だけが未確認となっていたが、今回の確認で全都道府県で見つかったことになる。

 

 盃状穴は、欧州にもあり、「カップマーク」と呼ばれ、青銅器文化と関係した原始宗教の生産を願った表示と見なされている。

  

 韓国や中国でも「生産と豊穣のシンボル」として多数見つかっており、世界史と関連した考察が求められているという。

 

 全国各地で見られるにもかかわらず、これまで盃状穴があまり語られてこなかった理由について、橋本さんは「深夜の『丑三つ詣り』のように、穿(うが)つ行為が他人に知られると願掛け効き目がなくなるという口伝や迷信があったからではないか」と推測している。

(平成27年(2015).2.7付毎日新聞)『「盃状穴」北海道にも』

橋本さんは三重県鳥羽市にある神社の宮司さんです。

春日部稲荷神社の参道階段のすぐ脇にあるこの水盤に掘られていることから、これらのくぼみはやはり「盃状穴」の可能性が高いと確信しました。きっと参拝される方の「生産と豊穣の願い」が込められこめられたものだと思います。

◆八丁目村の盃状穴

なお、自分が確認した「盃状穴」と思われるものは、小渕にある宝暦年銘の「道標」の盃状穴です。その「道標」も八丁目村新町にありますので、八丁目村地域には、江戸時代に「盃状穴」を掘る民間信仰のようなものがあったのでしょうか。

なお、寺院や神社に参拝の時には、気を付けて見ていますが、春日部稲荷神社参道水盤小渕の「道標」以外では確認できていません。 

春日部稲荷神社の隣は八幡公園。鎌倉時代春日部氏の屋敷があった場所です。

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八幡公園案内図

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八幡公園

春日部稲荷神社では、思わぬ発見(盃状穴?)があり、少しだけ幸せな気分になりました。これもお稲荷さんのご利益なのでしょうか?!

終わり




日光道中粕壁宿・春日部八幡神社の気になるスポット

2022-09-04 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/07/18・更新日:2022/09/04

気になるスポットアレコレ

当春日部八幡神社には、他にも気になるスポットがいくつかあります。また、多くの方がブログに書いていますので、少しマニアックかもしれませんがあまり目立たないスポットを中心にご紹介します。

手水舎(てみずや、ちょうずや)

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手水舎

ごく普通の手水舎です。神社に参拝の際には、心身を清めるため、まず行なう作法は手水をすることです。

そのため一番最初に訪れるのが、水盤がある手水舍(てみずや、ちょうずや)と呼ばれる場所です。今まで、手水舎を「ちようずや」と読んでいましたが、神社本庁のサイトには、「てみずや」とありました。

神社本庁のサイトには、手水の作法が掲載されていますので、参考までに、

  1. 右手で柄杓ひしゃくを取ります。
  2. 水盤の水を汲み上げ、左手にかけて洗います。
  3. 柄杓を左手に持ち替え、水を汲み上げ右手を洗います。
  4. 再び柄杓を右手に持ちかえて、左手のひらに水を受けて溜めます。
  5. 口をすすぎます。柄杓に直接口をつけないようにしましょう。静かにすすぎ終わって、水をもう一度左手に流します。

↓↓

参拝方法 | 神社本庁

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力石

▼力石

粕壁宿にある神社では、力石もよく見かけます。粕壁宿入口の東八幡神社でもご紹介しました。

この春日部八幡神社の境内では、昔、角力会(奉納相撲?)もあったようですので、その時にでも、力自慢の人たちが力比べをしたのでしょうか。

神社の「力石」(ちからいし)を見ると、江戸時代に活躍したと言われる武蔵国岩槻領三野宮村(現在の越谷市)出身の力持ち、三ノ宮 卯之助(さんのみやうのすけ)を思い浮かべます。お隣の越谷出身なので身近に感じます。今でも越谷市の埼玉県立大学付近に三野宮という地名があります。

なお、卯之助の正式な名前は「三野宮村の卯之助」が正しく、「三ノ宮」は名字ではなく通称なのだそうです。当時、庶民には名字は無かったんですね、

また、卯之助は江戸時代の力持ち番付では大関だったと言われています。そして、後には、日本一にもなりました。

そのため、地元越谷の神社はもちろん、鎌倉の鶴岡八幡宮や江戸・深川の富岡八幡宮などにも卯之助が持ち上げたと言われる力石が残っています。以前、「ブラタモリ」で視た記憶があります。

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灯籠

▼石灯籠

社前御神木の前にあるこの石灯籠には、十二支や『新方鎮守社』と刻まれているそうです。十二支は確認できましましたが、『新方鎮守社』文字は読めませんでした。

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拡大すると

また、天保三年(1832)8月15日供養?とも。

▼石碑・二基

石絵馬

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石絵馬

末社、天神社の前に高さ約二メートル・幅約一・五メートル程の自然石の「石絵馬」があります。

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馬が数頭

石碑に馬の絵が描かれているものです。もちろんほかの神社にもありますが、こちらの絵馬は結構躍動感があります。

この「石絵馬」の碑文は、粕壁宿の名主・関根次郎兵衛孝凞のもので、絵馬の上には、

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春之日乃 野部之母里能下草爾 不整駒毛睦志九古曾

安政三年十一月晦日 七十三翁 孝熈 志主青木三吉

と歌が刻まれています。

安政三年は西暦だと1856年、幕末ですね。前年の秋には「安政の大地震」といわれる、江戸直下型の大きな地震がありました。武蔵国も震度5〜6の揺れだったそうです。以前のにも書きましたが、地上も地下も動乱の時代でした。

榎本武揚の篆額

また、駐車場の傍らにはこんな石碑が、

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駐車場の片隅に

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榎本武揚の篆書

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松園敬甫翁碑

「松園敬甫翁碑」 従二位勲一等榎本武揚篆額

翁諱敬甫松園氏武蔵国粕壁之人文化五年辰正月生聖護院、下命变本山修験正大先達不動院霞下準年行事權大僧都法印號、仙乗院特許黄服蓋異數也登大峰葛城七回攀木曾御嶽廿七回維、新両部判而遷梅田村女軆雷電兩社神職補大講義翁性行篤實餘、暇習字讀書以教育児童諄々不倦闔郷頼其徳

明治一八年一月廿、七日病而卒齢七十七配野上氏先卒男四人女五人四男恭光継家為同郷社神職

明治二十六年九月門弟子相謀建此之碎巖高森敏撰併書
裏面に百四十八名の名を記す。

( ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎著、1996年)

この石碑は松園敬甫という方の顕彰の碑です。また、この石碑は駐車場の奥にひっそりと建っていますので、ほとんど誰も気が付かないと思います。

篆書を書いたのは、あの榎本武揚(えのもとたけあき)です。榎本武揚と言えば、旧幕臣で、いわゆる「五稜郭の戦い」で旧幕府軍を率いて戦ったことで知られています。

榎本武揚についてはこちらをどうぞ、

↓↓

榎本武揚〜函館ゆかりの人物伝 - 函館市文化・スポーツ振興財団

松園敬甫という方は、修験者で、小渕の不動院の「霞」に属していたようです。なお、「霞」とは、京都・聖護院を本山とする本山派が修験者を統制するための国あるいは郡単位の地域組織で、修験道のための道場のようなものだそうです。

小渕の不動院

小渕の「不動院」が出てきましたので、少し補足を。

『新編武蔵風土記稿』には、

本山派修験、京都聖護院末、関東修験年行事職大先達なり、役流山と号す。本尊不動は役行者神変大菩薩のなた作りと称す、刀斧の痕凡作にあらざること知らる、開山直参法印秀圓天文十三の年【一、五四四】二月二十九日寂す。北条氏政其外古文書を蔵す、御入国時も先例に依って年行事職元の如く命ぜられ、慶安元年【一、六四八】
寺領百石の御朱印を附せらる。今も東照宮御下知状及御書を蔵せり、祖師堂・八幡社・天神社・愛宕社・山王社・稲荷社。

(ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎著、1996年)

と記されています。

小渕の不動院は江戸時代までは、関八州の修験道の総本山だったとのことですが、京都・聖護院に属するは本山派は、明治維新後の「神仏分離令」および明治5年(1872年)の「修験宗廃止令」によって、天台宗に強制的に統合されることになりました。そのため、小渕の不動院も明治末から大正初めにかけて東京・江東区南砂町に移転しました。

詳しくは、春日部市教育委員会文化財保護課・郷土資料館のブログ「ほごログ」をどうぞ、

↓↓

不動院の図『新編図録春日部の歴史』からのご紹介29

また、碑文には、仙乗院云々とも記されています。仙乗院は本山派の修験の寺だったようですが、廃寺になっていて今はありません。

そして、奈良の葛城山(金剛山)に7回、木曽の御嶽山に27回に登ったことや梅田の女體神社、同雷電神社との関係も刻まれています。

松園敬甫氏は、明治18年に亡くなり、四男である当春日部八幡神社の神職の松園恭光氏が跡を継いだと刻まれています。今から120年以上も前のことです。

駐車場の片隅にひっそりと建っている石碑から色々なことがわかりました。面白いですね。

それにしても、肝心の榎本武揚との接点は一体? そこが一番気になります、、、。

春日部八幡神社にあるいろいろなスポットでいろいろ愚考を重ねてみました。身近なところにも郷土の歴史を知ることが出来る“モノ”が遺っていることがわかりました。

神社って本当に面白いですね!!


終わり