↑竹田城跡の麓には、表米神社と4軒のお寺が建ち並び、お寺の向かいには虎臥城公園があり、“寺町通り”と呼ばれています。4軒あるお寺の石橋は江戸に建造されたものだそうです。
その寺町通りを歩いていると竹田城を築城した太田垣氏の墓があるお寺の前を通りました。観た感じは、ちょっと中に入りにくそう…。
しばらく歩くと“赤松広秀の墓”と書かれた案内板が…。


↑法樹寺
「わぁ~、ちょっと参りに行きたいな…。でも…私独りやし…入りにくそうやな…」等と思いながら、法樹寺の前を通りかかるその前に、中から男の子が縄跳びを持って出てきました。
グッドタイミング! これはやっぱり「参りなさい」のお導きなのかも…。!(b^ー°)
勇気を出して男の子に「中に入って良いのかな? 赤松広秀の墓はどこにあるの? 教えてくれる?」と尋ねてみると「うん!」と良い返事。
男の子が赤松広秀の墓まで道案内をしてくれました。

↑お墓に行く途中に“観音石佛”が安置されていました。説明板には「安置する西国33所観音はここ赤松城主の屋敷(法樹寺)により竹田城に至る山道に奉讃しご加護を受け巡礼にもにて登城せしと云う…(以下略)」と書かれていました。
階段を登りきり、右側に行くと男の子が「これ」と指差してくれました。

↑赤松広秀の墓
最後の城主赤松広秀は関ヶ原の合戦に西軍に属し、田辺城を攻める。田辺城は落ちる事なく、関ヶ原の合戦では東軍勝利。その後、盟友亀井茲矩(かめいこれのり)の薦めで東軍に属し、鳥取城を焼き討ち落城させる。しかし、徳川家康に大火の責任を問われ、切腹を命じられる。鳥取城下の真教寺にて自刃。竹田城は廃城。
良かれと思い行動した事が逆に仇になって…何だか…。家康めっ(笑)。
しかし、タイミングは大事ですよね。ちょっとでもタイミングがズレていれば、男の子と遭遇する事はなかったのですから。赤松広秀の墓に参る事もなかったでしょう…。道案内した男の子は、その後は縄跳びをする事もなく、家に戻って行きました。
不思議な偶然…いや、必然的な導き…だったと思います。
その寺町通りを歩いていると竹田城を築城した太田垣氏の墓があるお寺の前を通りました。観た感じは、ちょっと中に入りにくそう…。
しばらく歩くと“赤松広秀の墓”と書かれた案内板が…。


↑法樹寺
「わぁ~、ちょっと参りに行きたいな…。でも…私独りやし…入りにくそうやな…」等と思いながら、法樹寺の前を通りかかるその前に、中から男の子が縄跳びを持って出てきました。
グッドタイミング! これはやっぱり「参りなさい」のお導きなのかも…。!(b^ー°)
勇気を出して男の子に「中に入って良いのかな? 赤松広秀の墓はどこにあるの? 教えてくれる?」と尋ねてみると「うん!」と良い返事。
男の子が赤松広秀の墓まで道案内をしてくれました。

↑お墓に行く途中に“観音石佛”が安置されていました。説明板には「安置する西国33所観音はここ赤松城主の屋敷(法樹寺)により竹田城に至る山道に奉讃しご加護を受け巡礼にもにて登城せしと云う…(以下略)」と書かれていました。
階段を登りきり、右側に行くと男の子が「これ」と指差してくれました。

↑赤松広秀の墓
最後の城主赤松広秀は関ヶ原の合戦に西軍に属し、田辺城を攻める。田辺城は落ちる事なく、関ヶ原の合戦では東軍勝利。その後、盟友亀井茲矩(かめいこれのり)の薦めで東軍に属し、鳥取城を焼き討ち落城させる。しかし、徳川家康に大火の責任を問われ、切腹を命じられる。鳥取城下の真教寺にて自刃。竹田城は廃城。
良かれと思い行動した事が逆に仇になって…何だか…。家康めっ(笑)。
しかし、タイミングは大事ですよね。ちょっとでもタイミングがズレていれば、男の子と遭遇する事はなかったのですから。赤松広秀の墓に参る事もなかったでしょう…。道案内した男の子は、その後は縄跳びをする事もなく、家に戻って行きました。
不思議な偶然…いや、必然的な導き…だったと思います。