観光案内所の人に教えて頂いたルートは“駅裏登山道”になり、距離は800m、徒歩で約30分です。
いよいよ出発!!
↑線路ガード下をくぐるのですが、かなり低くて腰を屈めて進まなければなりません…。頭がぶつかりそうになります。でも、何だか楽しくて楽しくて、「わぁ~キツいな~」とか一人でブツブツ言いながら、ヘラヘラ笑いながら進んで行きました。
ガード下をくぐり抜け、少し歩いた所に碑がありました。
↑竹田城跡登山口です。
ワクワクしてきました。この道を歩き進めると“屋敷跡”がありました。見た感じただの広場でしたので(苦笑)、画像には撮りませんでした。説明板によると城主や家臣団は屋敷に住み、政務や戦の時に城に登ったと書かれていました。
ところで、竹田城で戦があったそうです。資料によると、1577年(天正5年)11月、織田信長の命で羽柴秀吉が播磨を平定した後、但馬に侵攻。弟秀長が大将となり、総勢3200人(内300人は鉄砲隊)の軍勢に3日3晩攻められ、太田垣輝延は降参し、城を明け渡したそうです。
↑山道に来ました。石垣が見えますが、当時に造られたものでしょうか…。
いよいよ出発!!
↑線路ガード下をくぐるのですが、かなり低くて腰を屈めて進まなければなりません…。頭がぶつかりそうになります。でも、何だか楽しくて楽しくて、「わぁ~キツいな~」とか一人でブツブツ言いながら、ヘラヘラ笑いながら進んで行きました。
ガード下をくぐり抜け、少し歩いた所に碑がありました。
↑竹田城跡登山口です。
ワクワクしてきました。この道を歩き進めると“屋敷跡”がありました。見た感じただの広場でしたので(苦笑)、画像には撮りませんでした。説明板によると城主や家臣団は屋敷に住み、政務や戦の時に城に登ったと書かれていました。
ところで、竹田城で戦があったそうです。資料によると、1577年(天正5年)11月、織田信長の命で羽柴秀吉が播磨を平定した後、但馬に侵攻。弟秀長が大将となり、総勢3200人(内300人は鉄砲隊)の軍勢に3日3晩攻められ、太田垣輝延は降参し、城を明け渡したそうです。
↑山道に来ました。石垣が見えますが、当時に造られたものでしょうか…。