久しぶりのお泊まりの旅は、群馬県。
(→前記事「おいしい秘密~お宿の朝ゴハン」)
夫の「続・日本100名城」スタンプ集め(リア攻め)と、
「城ポチ」こと、「ニッポン城めぐりアプリ」の城攻めも
旅の目的です♫
「続日本100名城」である、岩櫃城、沼田城、名胡桃城は
真田家ゆかりの城・・・
大河ドラマ「真田丸」以来、登城を楽しみにしておりました。
(有名な、このアングルは、JR郷原駅側から撮影できます)
↑岩櫃城は・・・
以前、「英雄たちの選択」(NHK BSプレミアム)で、
もしも、武田勝頼が岩櫃城を頼っていたら?
武田家は存続していたのではないか、というお話がありました。
織田信長に攻められ、崩壊寸前の武田軍、
体制立て直しのための方策として、岩櫃、岩殿、新府の三つから
どこかの城に入るという、選択ができたというのです。
武田勝頼は、甲州・武田家の最後の当主。
偉大なる父・信玄の影で何かと厳しい評価を受けがちですが、
実は、有能な武将だったのではないかという・・・
この番組を通し、また、以前、山梨の新府城へ出かけて以来、
武田勝頼のイメージが急激に良くなっております。
実は、アタクシ、ハマッ子ながら、母方の祖父は甲州人・・・w
現実には、勝頼は、真田家の岩櫃城を選ばず、
小山田家の岩殿城を頼り、その途中で、小山田信茂の裏切りにあい、
結局、自害して果てました。
番組では、真田家が勝頼を迎える準備をしていたであろうことが
城の縄張りから、うかがえるとも紹介され・・・
俄然、岩櫃城に興味津々でした。
登城のきつい山城だとはわかっていたので、
ストック、シューズなども用意し、楽しみにしておりました。
ところが、雨ですもん、しかも台風接近。
案内所で「本丸跡までなら、10分ほどですよ」と言われたものの・・・
ヘタレなアタクシは断念。夫もアタクシを「口実」に止めていますw
あちこちに「クマ出没注意」の看板があるのも、萎えさせました。
スタッフさんは、「このあたりには出たことがないですよ」とは
おっしゃっていましたが・・・
あの方、あの案内所↓に、お一人で怖くないのかしら・・・
ついで、沼田城。
真田信幸が、天正18(1590)年に、初代城主となります。
関ヶ原の戦いでは、信之(信幸改め)は東軍につき、
西軍方となった、父・昌幸、弟・信繁と敵味方に分かれて戦いました。
戦に先立ち、昌幸が孫に会おうと、沼田城に立ち寄ると、
信之の正室・小松姫は、緋縅の鎧をつけ、大手門に立ち、
「たとえ父や弟でも今は敵!」と、二人の入城を拒否したと伝わります。
小松姫(稲姫)の父上は、本多忠勝。
徳川四天王の一人、生涯、戦で傷ひとつ追わなかったツワモノですからw
ただし、この後、表向きには、二人を追い返した小松姫ですが、
その後、こっそりと我が子を祖父と対面させたのだとか・・・
現在の沼田城は、沼田公園となっています。
わずかながら、石垣や堀などが残り、城の名残がありました・・・
でも、雨だもん。
早々に退散したアタクシです。
そして、最後の名胡桃城・・・
パンフには「戦国時代を終わらせるきっかけ」の城と書かれています。
・・・というのも、沼田・名胡桃は、真田家のみならず、
北条家も領有を主張、争いが絶えませんでした。
関白・豊臣秀吉は、私闘を禁じる惣無事令を元に、裁定をくだしました。
いわく、沼田城側は北条家、名胡桃城側は真田家の所領とする・・・と。
(1589<天正17>年)
ところが、北条家方の沼田城代・猪俣邦憲は、これを破り、
名胡桃城攻略してしまうのです。
秀吉は激怒、これが北条・小田原攻めへとつながります。
この結果、北条は滅び、豊臣秀吉の天下統一がなされるのです。
名胡桃城は、北条を滅ぼすきっかけとなったのですから、
確かに、戦国時代を終わらせたとも言えます・・・
が・・・アタクシは、北条びいき。
釈然としません・・・
どちらにせよ、秀吉は北条家を潰すつもりだったはずで・・・
何かの陰謀に、はめられたのだとしか思えません。
・・・と、モロモロの想い入れがある城なのに・・・
名胡桃城では、雨もひどく、眠気もマックスでして・・・
「お一人でどうぞ」と夫を送り出して、車で爆睡。
挙げ句の果てに、
夫が戻ってくると寝ぼけて、「ここ、どこ?」と尋ねたそうで・・・w
ああ、今になって、リア攻めしなかったことが悔やまれます・・・
残念無念・・・
◆本記事は、現地の案内板、いただいたパンフ類を参考にしておりますが
素人のこと、間違いや勘違いもあることと存じます。
どうぞ、お許しを・・・