MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2734 折々の言葉

2025年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム

 2月5日の朝日新聞が、兵庫県姫路市が同市出身の哲学者和辻哲郎にちなんで設けた「和辻哲郎文化賞」の第37回受賞作品に、哲学者の鷲田清一(わしだ・きよかず)氏と甲南大学教授の平井健介(ひらい・けんすけ)氏の両氏を選出したと伝えています。

 和辻哲郎文化賞は、国内の哲学や宗教、思想といった領域における、特に卓越した著作や研究などをたたえるもの。今年の学術部門では、朝日新聞朝刊1面のコラム「折々のことば」の筆者で知られる哲学者の鷲田清一氏の「所有論」、一般部門では平井健介・甲南大経済学部教授の「日本統治下の台湾―開発・植民地主義・主体性―」が対象となったということです。

 受賞に際し鷲田氏は、「胸をお借りしたのは和辻さんの『存在』(有)をめぐる厚い論述。先行するそのお仕事なしに私のこの論はありえなかった。和辻哲郎文化賞というかたちで評価いただいた幸運を嚙みしめている」とコメントしたと記事は報じています。

 さて、今回受賞者の一人となった鷲田氏と言えば、京都大学文学部哲学科・同大学院を卒業後、関西大学で教授などとして教鞭を執り、大阪大学に移った後は、文学部長、副学長、総長などを歴任した日本を代表する哲学者です。

 一方で、氏は1980年代から90年代にかけて、「身体論」などの視点からファッション論やモード論を哲学的な観点から自在に展開した言論人としても知られています。「ピアスや刺青をすることの意味とは?」「人は何のために服で体を隠すのか?」など、氏独特の一般人にも親しみ易い平易な口調で語る数々の言葉が多くの人々の心に響き、様々に受け止められてきたと言えるでしょう。

 そもそも、氏が当初から(哲学者として)自身の大きなテーマと捉えてきた「身体論」とはどのようなものか。結論から言ってしまえば、「『身体(からだ)』は、自らの経験に基づく『像(イメージ)』でしかありえない」(『ちぐはぐな身体』鷲田清一:筑摩書房2005)ということです。

 「身体」の中で、自分がじかに見たり触れたりして確認できるのは、手や足といった常にその断片でしかない。胃のような「身体」の内部はもちろんのこと、背中や後頭部さえじかに見ることはできないというのが氏の指摘するところ。

 そして、自分の感情が露出してしまう顔も、じかに見ることはできない。「身体」を知覚するための情報は実に乏しく、自分の「身体」の全体像は、離れてみればこう見えるだろうという想像に頼るしかない。つまり、自分の「身体」は、あくまで自分の「像(イメージ)」の中にしかないというのが氏の見解です。

 かくして、「わたし」は身体との間できわめて曖昧で不確かな関係しか結べない。人は、他者を鏡にして自分を見ることで自分の想像にたしかな「わたし」を成立させるようと努力する。しかし、「わたし」が「わたし」であることの絶対的な根拠がないことは私自身がわかっており、そこへの不安が「わたし」の脆さとなるということです。

 さて、話は逸れましたが、そんな氏の功績として特筆すべきなのが、今回の受賞の対象となった「折々の言葉」(朝日新聞)と言えるでしょう。

 「折々のことば」は、朝日新聞の2015年4月から始まった朝日新聞朝刊1面の左下の方に、(あくまで)さりげなく、(本当に)控えめに掲載されている300字に満たない小さなコラムです。古来の金言からツイッターのつぶやきに至るまで、鷲田氏が様々なさまざまなジャンルの文章や発言の中から心に響くことばを選び、それをきっかけにめぐらせた思索を綴っています。

 過去のチョイスは朝日新聞のホームページに掲載されているのでそこに委ねるとして、私の印象に強く残っているのは、2020年6月12に氏が選んだフランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの言葉です。

 それは、「死の意識とは、死の日付を本質的に知らないままに、死を絶えず繰り延べる意識である」(『全体性と無限』(熊野純彦訳))というもの。なかなか難解な表現ですが、自分なりに解釈すれば、「死ぬということは、死んでみないと分からない。死は、その日付を毎日繰り延べていくという作業を通して、その存在が自覚化されている」…といったところでしょうか。

 一方、鷲田氏はこの日のコラムで(この言葉に続けて)このように綴っています。「犬が逝った。彼女はやがて身に起こる自体がどのようなものか知らないまま、従順に死の訪れに吞み込まれたように見えた。人は死を、いつか身に降りかかるものとして意識する。そういう形で、不在の未来を現在の内に組み入れ、死をまだないものとし「遅らせる」ことで、時間という次元を開くのだと、20世紀のフランスの哲学者は言う。」

 人間にとっての「時間」とは、また「生きている」とは、結局、まだ見ぬ死を「繰り延べる」という作業を通して自覚される。その先に「死」がなければ「生」もまたないということであり、希望や不安といった感覚も、その過程に生じたちょっとした泡のようようなものに過ぎないのかもしれません。

 死というものを、自分という存在の先に見るのは人間だけ。そう思えば、死を意識しない老犬の日々は、きっと安らかなもののだろうなと改めて感じるところです。



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