中国ジェンダー史共同研究の企画に続いて、講演会を開催。ジェンダー史の企画に合わせて来日された華東師範大学の張済順教授に、日大の学生向けの日中関係に関する講演をお願いした。
中華人民共和国成立の年である1949年に生まれた彼女は、新中国の歩みが自身の人生と重なる。中国社会の変化の中で、日本への見方がどのように変わっていったかを、時代の雰囲気を感じさせる写真などもたくさん使いながら話していただいた。概要は下の通りである。
学生たちは、彼女自身の体験をふまえた単純ではない中国社会と日中関係の移り変わりを聞いて、深い印象を持ち、いろいろ考えたようだ。日中関係が悪化している中、学生に生の中国人の声を届けることが重要だと考えて古い友人の張済順さんに頼んだのだが、成功だったと思う。
講演会<“悪”の想像から“善”の交際へ-新中国と共に育った中国人の日本観>
講師:張済順氏(華東師範大学教授・前華東師範大学校務委員会主任・前全国政治協商会議代表、
1949年1月1日生)
場所:日本大学文理学部三号館3407教室
日時:2014年10月21日(火)13:00~14:30
主催:日本大学文理学部中国語中国文化学科・日本大学文理学部人文科学研究所総合研究「近現代におけるナショナリズムと歴史認識への各国の対応に関する研究」(研究代表者:小浜正子)


[講演概要]
私たちの世代が歩んで来た道は、新中国の大きな歴史にぴったりと沿っていました。私が生まれた1949年に、中華人民共和国が成立し、同じ頃、冷戦が幕を開けました。中国は西側世界とはほとんど隔絶され、国内の政治は、親ソ反米が主旋律でした。日本はアメリカ帝国主義の「共犯者」で「急先鋒」だと、中国政府は宣伝しました。日本国民は、アメリカ帝国主義と自国の統治者による抑圧の下で「苦難に満ちた生活」を送っているとイメージされました。抗日戦争の物語も私たち世代の脳裏に深く刻まれていて、子どもたちの「鬼ごっこ」の遊びでも、映画に登場する悪逆非道の日本軍の指揮官をいつも真似していました。
それは小さい頃から中国共産党に「洗脳」された結果であることを否定しませんが、親の世代が自ら経験したことの影響もあります。母は私たちによく戦争時代の話をしてくれました。勤め先の銀行が臨時首都となった重慶に移転して、母も一緒に行きました。彼女が一生忘れられないのは、毎日毎晩、激しい日本軍の爆撃の中、防空壕に身を隠したことでした。上海に残った家族は、中国人居住区を日本軍に占領されて租界に避難し、先祖伝来の貴重な文物は戦火で焼かれました。
私たちは青年時代、文革の大動乱を経験しました。この極めてでたらめで残酷な歳月は、私たち世代には振り返るに忍びないものです。
1972年2月にニクソン米大統領が中国を訪問し、9月には田中角栄日本首相が中国に来て日中国交が正常化しました。当時の私たちは、「知識青年」として東北の辺鄙な農村に下放されていましたが、限られたニュースから、外の世界の変化を観察し、深く考えていました。1971年の林彪事件は、大きな衝撃でした。私たちは文革を疑い始め、毛沢東への尽きることのない崇拝も揺らぎ始めたのです。資本主義国家は本当にそんなに堕落して暗黒なのかと、私たちは密かに議論し始めました。が、想像と推測に基づいた議論は、当然のことながら一致した結論に至りません。
小平時代が到来し、私たちのほとんどは農村から都市に戻りました。改革開放が始まった1970年代末~80年代初め、工業先進国の大量の商品が家々にやってきました。中でも最も人気があったのが日本の家電製品です。日本製のテレビ、冷蔵庫、洗濯機は、中国の青年が最初に手に入れたい「三種の神器」になり、私たちは製品の質の高さから日本人の精神を感じました。日本の映画とテレビドラマも多くの中国人を魅了し、高倉健、山口百恵、栗原小巻、中野良子などは中国の隅々に知れ渡って、ファンは数えきれませんでした。
1980年代半ばは中日関係の「蜜月期」で、民間交流が極めて活発になりました。私の大学にも多くの日本人研究者がや留学生が訪れ、尊敬する日本人学者や親しい友人ができました。身近に触れあって、日本人への私たちの認識はしだいに変わりました。私たちの日本認識は、隔絶された中での想像から始まり、「日本のモノから日本人へ」という実際の体験へと、進んできたのです。
私たち世代のほとんどの中国人は「親日派にはならず、強硬なあるいは全面的な反日派にもならず、知日派になる」という態度です。歴史的、民族的な理由で、私たち世代には「親日派」は少ないでしょう。強硬な反日派もいますが、多くはありません。多くの人たちは、具体的な、たとえば靖国神社参拝の問題などについて「反日」です。それでも多くの人たちが「親日」あるいは「反日」よりも、「知日」が重要なのだとわかっています。グローバル化の時代に、両国間に摩擦があっても、お互いに断絶することは不可能です。深い相互理解に基づいて、物事を捉えたり、相手の立場を考えたりすることが、対立や衝突よりも何百倍も良いのです。30年前のような蜜月の再現は難しくても、私たちは中日関係の谷底を抜け出すための出口を見つけることができます。小平が言ったように「中日関係はその場しのぎのはかりごとではない」のですから。
中華人民共和国成立の年である1949年に生まれた彼女は、新中国の歩みが自身の人生と重なる。中国社会の変化の中で、日本への見方がどのように変わっていったかを、時代の雰囲気を感じさせる写真などもたくさん使いながら話していただいた。概要は下の通りである。
学生たちは、彼女自身の体験をふまえた単純ではない中国社会と日中関係の移り変わりを聞いて、深い印象を持ち、いろいろ考えたようだ。日中関係が悪化している中、学生に生の中国人の声を届けることが重要だと考えて古い友人の張済順さんに頼んだのだが、成功だったと思う。
講演会<“悪”の想像から“善”の交際へ-新中国と共に育った中国人の日本観>
講師:張済順氏(華東師範大学教授・前華東師範大学校務委員会主任・前全国政治協商会議代表、
1949年1月1日生)
場所:日本大学文理学部三号館3407教室
日時:2014年10月21日(火)13:00~14:30
主催:日本大学文理学部中国語中国文化学科・日本大学文理学部人文科学研究所総合研究「近現代におけるナショナリズムと歴史認識への各国の対応に関する研究」(研究代表者:小浜正子)


[講演概要]
私たちの世代が歩んで来た道は、新中国の大きな歴史にぴったりと沿っていました。私が生まれた1949年に、中華人民共和国が成立し、同じ頃、冷戦が幕を開けました。中国は西側世界とはほとんど隔絶され、国内の政治は、親ソ反米が主旋律でした。日本はアメリカ帝国主義の「共犯者」で「急先鋒」だと、中国政府は宣伝しました。日本国民は、アメリカ帝国主義と自国の統治者による抑圧の下で「苦難に満ちた生活」を送っているとイメージされました。抗日戦争の物語も私たち世代の脳裏に深く刻まれていて、子どもたちの「鬼ごっこ」の遊びでも、映画に登場する悪逆非道の日本軍の指揮官をいつも真似していました。
それは小さい頃から中国共産党に「洗脳」された結果であることを否定しませんが、親の世代が自ら経験したことの影響もあります。母は私たちによく戦争時代の話をしてくれました。勤め先の銀行が臨時首都となった重慶に移転して、母も一緒に行きました。彼女が一生忘れられないのは、毎日毎晩、激しい日本軍の爆撃の中、防空壕に身を隠したことでした。上海に残った家族は、中国人居住区を日本軍に占領されて租界に避難し、先祖伝来の貴重な文物は戦火で焼かれました。
私たちは青年時代、文革の大動乱を経験しました。この極めてでたらめで残酷な歳月は、私たち世代には振り返るに忍びないものです。
1972年2月にニクソン米大統領が中国を訪問し、9月には田中角栄日本首相が中国に来て日中国交が正常化しました。当時の私たちは、「知識青年」として東北の辺鄙な農村に下放されていましたが、限られたニュースから、外の世界の変化を観察し、深く考えていました。1971年の林彪事件は、大きな衝撃でした。私たちは文革を疑い始め、毛沢東への尽きることのない崇拝も揺らぎ始めたのです。資本主義国家は本当にそんなに堕落して暗黒なのかと、私たちは密かに議論し始めました。が、想像と推測に基づいた議論は、当然のことながら一致した結論に至りません。
小平時代が到来し、私たちのほとんどは農村から都市に戻りました。改革開放が始まった1970年代末~80年代初め、工業先進国の大量の商品が家々にやってきました。中でも最も人気があったのが日本の家電製品です。日本製のテレビ、冷蔵庫、洗濯機は、中国の青年が最初に手に入れたい「三種の神器」になり、私たちは製品の質の高さから日本人の精神を感じました。日本の映画とテレビドラマも多くの中国人を魅了し、高倉健、山口百恵、栗原小巻、中野良子などは中国の隅々に知れ渡って、ファンは数えきれませんでした。
1980年代半ばは中日関係の「蜜月期」で、民間交流が極めて活発になりました。私の大学にも多くの日本人研究者がや留学生が訪れ、尊敬する日本人学者や親しい友人ができました。身近に触れあって、日本人への私たちの認識はしだいに変わりました。私たちの日本認識は、隔絶された中での想像から始まり、「日本のモノから日本人へ」という実際の体験へと、進んできたのです。
私たち世代のほとんどの中国人は「親日派にはならず、強硬なあるいは全面的な反日派にもならず、知日派になる」という態度です。歴史的、民族的な理由で、私たち世代には「親日派」は少ないでしょう。強硬な反日派もいますが、多くはありません。多くの人たちは、具体的な、たとえば靖国神社参拝の問題などについて「反日」です。それでも多くの人たちが「親日」あるいは「反日」よりも、「知日」が重要なのだとわかっています。グローバル化の時代に、両国間に摩擦があっても、お互いに断絶することは不可能です。深い相互理解に基づいて、物事を捉えたり、相手の立場を考えたりすることが、対立や衝突よりも何百倍も良いのです。30年前のような蜜月の再現は難しくても、私たちは中日関係の谷底を抜け出すための出口を見つけることができます。小平が言ったように「中日関係はその場しのぎのはかりごとではない」のですから。