つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

ワインの里、ナパへー家族旅行(1)

2011-08-30 10:06:09 | 日記

(ワイナリの前に広がる葡萄畑)
遅い夏休みを取って家族がやって来た。この機会に、一緒にあちこち旅行する予定。
最初に、サンフランシスコの空港に着いた連れ合いと娘をピックアップして、そのままワインの里、Napaへ。
サンフランシスコ湾の北方に広がるNapa Valleyは豊かな農業地域で、葡萄がたくさん稔って多くのワイナリでよく知られたカリフォルニアワインに醸されて、世界に輸出されている以外に、野菜やチーズ、食肉などの生産も盛んだ。
Napaの街は、すっかりおしゃれな観光地になっていて、整ったホテルも多い。まずはそこでゆっくりして日本での仕事の疲れをいやし、地元の食材を使った料理に舌鼓を打ってから、翌日はワリナリを回った。
谷筋に沿った道を行くと、テイスティングさせてくれるワイナリの看板がたくさん出ている。ワイン醸造の道具や関連グッズなどを博物館のように展示してある大きなワイナリで、何種類かのワインを飲み比べながら、広大な葡萄畑を眺めていると、のびやかに気持ちも広がってゆく。ベイエリアの南部にもワイナリはたくさんあって、Nさんに連れて行ってもらったが、豊かな葡萄畑が広がるNapaは、さすがに規模が違う。ゆったりとくつろいだ様子の家族といると、私もほどけて休暇の気分に浸ってきた。

公園ランチ

2011-08-24 01:14:44 | 日記

トーク会のメンバーで呼びかけて、公園ランチをした。
近くの公園の大きな木の下のテーブルに、近くのお店で作ってもらったサンドイッチとキッシュ、スープなどを運び、みんなでおしゃべりしながらつまむ。コミュニティの公園(かなり広い)の一角のテーブルは自由に使ってよいものらしい。
夏の最後のよいお天気にも恵まれて、涼しい木陰のさわやかな空気の中でのランチは抜群に気持ちいい!
基本的に日本人の集まりだったのだけれど、ながくこちらに暮らして働いておられる方のお話は、みなパワルフでインターナショナルだ。
気楽な感じで呼びかけたのだが、18人+α(3か月の赤ちゃんと短時間参加の2人)で、結構にぎやかな会になった。
カリフォルニアの太陽の下で、みんなで美味しくランチをいただいて、人生を楽しむとはこういうことを重ねることだ、としみじみ。

カリフォルニア小停電

2011-08-22 02:03:07 | 日記
昨夜10時半ごろ、突然停電になった。アパートの建物だけでなく、このブロックはみな電気が消えて、部屋の中は電池のあるパソコンの画面だけが光っている状態になった。
週末の夜だが、もう静かになっていた時間で、電気が消えた時に若干ざわめいたが、そのまま静かになった。日付が変わった頃に復旧して、また突然明るくなったが、もう遅くなっていたので、そのまま休んだ。街は静かなまま。
停電なんて、何年ぶりだろう! あの大地震の後でさえ、私は停電を経験しなかった。その後も自宅も職場も計画停電地区に入っていなかったので、考えてみれば、本当に停電は久しぶり。
でも、こちらではこういうことは珍しくなくて、年に何度かあるという。
日本の電力会社は地震以来さまざまな問題が指摘されているが、安定した電力供給は大したものだとあらためて思った。

Melting Pot? Mosaic?(人種のるつぼか、パッチワークか)

2011-08-18 11:28:03 | 日記
所用があって、Palo AltoとSan Franciscoの間にあるSan Mateoという街に行った。名前の通りメキシカンな感じのする街で、建物の雰囲気などもなんとなくヒスパニックな感じのものが多い。そもそもカリフォルニアは、もとはメキシコだった土地で、今でもメキシコからの移民・出稼ぎ、ヒスパニック系アメリカ人が多い。加えて太平洋の向こうから来たアジア系の移民が住み着く場所でもある。San Mateoにもアジア系の店もかなりあって、日本語のフリーペーパーやNikkei Westという日系人-ジャパニーズアメリカン―の同人紙等が置いてある日系のスーパーや、中華レストラン、タイレストランなども目につく。逆にアングロサクソンぽい建築はあまり見当たらないという、なんとも西海岸らしい街だ。
San Mateoの駅にMelting Potという(フォンデュの)レストランがあったので、皮肉にも「アメリカは人種のるつぼ(多人種が溶けて融合する社会)だといわれていたが、むしろ現実には、たくさんの文化的背景をもった人々がいつまも融合しないで共存しているモザイク社会だ」という話を思い出した。実際、メキシコからやって来て、何年たってもほとんどスペイン語で暮らしているらしい人はたくさんいる。日本人もその気になれば日本食スーパー、Daiso(100円ショップのダイソー!なんでもある)、日本人クリニック(患者はほぼ日本人のみで、日本語の世界)などの中で生きていける。中国系の人々のコミュニティも大きい。テレビにも、スペイン語のチャンネル、中国語のチャンネルがある。日本語のは知らないけれど。
私のアパートを毎週掃除に来てくれる働き者のおばさんは、メキシコから来ている人で、英語はそんなに流暢でないらしく、私とは片言どおしの会話になる。こういう社会では、皆が共存してゆくためのマナーとルールが必須で、人種宗教性別性的志向ハンディキャップによって差別しないことがベースになる。同時に、この社会で高い地位と収入をめざすには、英語の能力が基本になる。数の上ではもはやアングロサクソンは少数派になっているが、共通の社会的ルールの基盤はアングロサクソン的なものである西海岸に、英語の不自由な外国人として暮らしていると、考えることは多い。
そういえば、先日、日本の母校の先生と院生のカップルがHooverに資料収集に見えていて、食事をご一緒した。ジャパニーズアメリカンの夫と中国人の妻のご夫婦で、日本で家庭を持たれて家では基本的に日本語で話しておられるようだが、どちらの母語でもない。でも小さな可愛い娘さんは、日本語を母語として育っているようだ。こういう方たちと話していると、日本社会もさまざまなエスニシティの出会う場所になっていることを実感する。多様な文化の出会いをプラスにしてゆける社会を作るための努力を重ねないと、と思う。

混乱の中から

2011-08-13 12:37:02 | 日記
日本語のデジタル書籍を購入・読了した。紀伊国屋Bookwebで購入した古賀茂明『官僚の責任』(PHP研究所新書、2011年7月29日、¥600。紙版は¥756)。紀伊國屋書店のiPad用のアプリKinoppyで読むが、なかなか読みやすい。iPadでのデジタル書籍の扱い方にもいくらか慣れた。
古賀氏はこの間、経産省の改革派官僚として活発な発言をしている人で、別の人の本を探して見つからなかったのでこれを買ったのだが、その官僚批判等に共感し、いろいろ考えるところがあった。
震災後、一般市民の我慢強さ・勤勉さに対して、政治家のリーダーシップの欠如と官僚の不適切な仕事ぶりや無責任さが悲惨なまでに明らかになり、原発事故の処理や復興がなかなか進まない中で、大きな怒りや失望を呼んでいる。古賀氏は、個人としては優秀で当初は志もあった官僚が、現在の霞ヶ関の組織の中では国益よりも省益を重んじるようになっていく構造があるので、ドラスティックな公務員改革を断行して、速やかな復興をはかるべきだ、と説く。
この本で明らかにされている、官僚が天下り先の確保をはじめとする権益の確保・拡大を第一に仕事をする構造-東京電力と経産省の癒着の実態も出てくる-は、前任校で経験した国立大学法人化の際の文部科学省のやり方と非常に通じるものがあって、当時の(今もだが)怒りを思い出しながら、深く納得した(国立大学法人化に際して、文科省は各大学へ責任を下ろしながら監督権限を強化し、また各大学に「参与」(理事だったかしらん)を置かせて多くの天下り先を造り出した)。そして今回の原発事故と震災の処理に当たって、被災者救援や復興のために早急になすべきと思われることがあまり進んでいない一方の理由が(もう一方は政治家の的確なリーダーシップの欠如)、かなり具体的構造的に理解できた。
震災後、未曾有の悲惨さを眼にして、私も自分が何ができるか、考えた。けれど中国史の研究者にできることはあまりなかったので、せめて義捐金を必要なところに迅速に届けてくれそうな組織に送って、予定通り一ヶ月後にアメリカに来た。被災者救援や復興は、しかるべきポジションにいる人が迅速に決定し必要な措置が取られて基本的に適切に進んでいくものだと思っていた。
ところが、これまでの様子を見ていると、若干の混乱や試行錯誤は避けられないにしても、とても必要な措置が可及的速やかに取られているとは思えない。なぜかと考えるに、このような「想定外」の事態に対して、実務レベルでの「しかるべきポジション」は想定されていなかったようだ。それを補うべき臨機応変な対応は、政治のリーダーシップの欠如と、官僚の省益追求体質のために機能せず、混乱の下で、総理の首の据え換えが取りざたされる今日に至っているらしい。
これはもちろん政治と役人に大きな原因があるのだが、そうだからといって「自分は何もできない」だけでもどうしようもないようだ。「歴史教育改革」(8月8日)の記事でも書いたが、こんがらがった状況を一気に解決できる権力のある個人や組織はそう簡単に存在しない。
どうすればいいのか、まだ私にはよくわからない。むしろ何をしないか、何をスクラップして諦めるかを決めていったら、どうすればいいか見えてくるだろうか。

医療保険

2011-08-11 09:27:39 | 日記
こちらへ来て初めてお医者さんにかかった。
先週末から手足がかゆく、だんだんブツブツができてとうとう顔にまで広がったので、これはマズイと思って、Caltrainで20分ほどの所の日本人の家庭医のクリニックに行ったのだ。見立てはこちらに多い dry skin にアレルギーが複合したもので、その場で出してもらったステロイド剤を服用したら腫れは引いてきたので、ひと安心。会計は、加入している海外旅行保険会社に直接請求するということで、払わなくてよかった。
じつは、クリニックに行くのはとても気が進まなかった。というのは、こちらの医療保険の「大変さ」について、たくさん聞いていたからだ。
アメリカの医療保険制度が問題をかかえているのは、ブッシュvsクリントンの大統領選挙の際にも論争があったと思うので、ずいぶん前からのことだ。それがここに来て、大学勤務の安定した社会的地位のある人にとっても人ごとでない問題になって、日々の会話に出てくる。
なにせ、保険料がとても高い! 契約している医療保険は人によって様々だが、毎月払っている保険料が家族で一ヶ月2000ドルになるケースもあるという。ドクターレベルの留学生向けの奨学金には、生活費以外に4ヶ月で500ドルの医療保険のための給付がついていて、つまりこちらで研究生活を送るためにはそれ以上の医療保険に入れ、ということだ。(日本では留学生向けに月1000円ほど払う健康保険があったと思う)
保険料が高くなるのは、医療費自体が高いからだ。ちょっとした風邪とか痔とかでクリニックに行き、たいした治療もしていないのに、数百ドル請求されることはよくあるという。まして手術ともなれば、当然万ドル単位のお金がかかる。それに備える保険料が高いので、保険に入っていない、充分でない人も多い。クリニックでは、まず保険を確認してから治療する。(私も最初にどの保険に入っているかを聞かれた。)
そういうことなので、体が弱っているときに、英語で保険の交渉をするのはとても気が重く、病気になったら、さっさと飛行機に乗って日本へ帰って治療しよう、とかなりまじめに考えていた。おそらく航空運賃を足しても日本の治療費の方がかなり安い。
先日、中国から来ている研究者と医療保険の話をしていて、日本では(最近うまく機能しなくなっているとはいえ)国民皆保険で、普通に予想されるケガや病気の治療費のために即座に生活が崩壊することを、多くの人はそんなに心配していない、と話したら驚かれた。中国でも、医療保険は大きな問題で、いったんケガや病気をしたら、医療費が安定した生活を崩壊させる危険は日本よりずっと大きい。
日本の健康保険制度は現在、増大する赤字などたくさんの問題を抱えつつあるが、それでも今のところまだまだそれなりに機能して、私たちの暮らしを守ってくれている。日本の高額医療費補助制度(難病などで毎月の医療費が数万円を超えれば、高収入の人以外はそれ以上の負担が免除される仕組み)などは、アメリカや中国では考えもつかないだろう。
さまざまな問題点が明らかになっている日本社会だが、まだ比較的うまくいっている部分も少なくはない。

[追記]一週間後にdry skinのフォローアップに行き、ほぼ心配ない状態に戻った。二回の医療費(診察料+薬代、ただしほとんどは前者)合わせて$430.やはり日本よりかなり高い感じ。もっとも保険が効いて、キャッシュレスで受診できたけど。

歴史教育改革

2011-08-08 10:54:49 | 日記
日本学術会議史学委員会等による「新しい高校地理・歴史教育の創造-グローバル化に対応した時空間認識の育成」(2011年8月3日)を読んだ。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-t130-2.pdf
大学生の歴史(地理についてはよくわからないので、ごめんなさい)の基礎学力の低下はかねてより大学歴史教員の問題とするところで、それは歴史的視野に立った判断力の不足や他国との相互理解の不足を招き、21世紀のグローバル化の進む世界で日本人が生きる上での大きな問題となっている。必修のはずの世界史が多くの高校で未履修だったことが発覚してもうかなり経つが、問題はむしろ深化している。大学の入試問題と、高校歴史教科書と、高校歴史の授業内容とが、三巴(みつどもえ)状態で縛りあって、それぞれあまりよい状態でなく、高校生にとって歴史(とくに世界史)が魅力的でなくなっていることは、ようやく大学歴史教員の間の共通認識となってきている。
この報告書は、こうした状態を改善する方法を提言すべく、学術会議が3年がかりでまとめたものだ。報告書作成に当たった先生方は、おおむね学識深く誠実で尊敬すべき現在の歴史学界のトップの方たちである。にもかかわらず、率直に言って、この報告書の内容は、いまだ方向性をはっきりと打ち出せておらず、高校歴史教育改善のための有効で具体的な提案とは言い難いと感じた。新科目「歴史基礎」の創設を提言するが、その理念もわかりづらいし、高校の教育体系の中にそれを位置づけることは、提言を書いたメンバーの手に余るようだ。率直に言って、こんがらがった現状の中で、きわめて限られた権限しか持たない学術会議の限界が見えている。
私はこの報告書の作成にかかわっていないが学術会議史学委員会の末席に連なっているので、半ば自己批判としてこの文章を書いている。学術会議の委員会に出ると錚々たる東大の高名な先生方が勢揃いしておられて、このメンバーで「えいっ」と決めれば歴史教育の改革ができないわけはないだろう、と思うのだが、現実はそんなに簡単ではない。ある尊敬する先生は「私は東大の中で何の権力もないので(現状を変える力はない)」とおっしゃる。それはたぶん本当だろう。
でも、ここでできないということは、日本のどこでもできないということだ。
こんがらがった(しかも教科の利権とかが絡み付いた)現状の中で、どこか一つで問題を解決・改善できないのが現実。まずはその状況を確認し、次に、ではどうすればよいかを考えよう。
おそらく、新しいあるべき歴史教育を実現するために、それぞれの分野で努力すべきことがあり、またバランスをもった他分野との連携の仕方を考える必要がある。遠くない将来の歴史教育のスクラップ&ビルドの中で、私のなすべきは何だろうか。

Google eBooks

2011-08-04 01:26:32 | 日記
電子書籍というものをGoogle eBooksで購入した。
英語の専門書をAmazonで注文しようと思って検索していると、Google eBooksのデジタル版があることを発見して、試しに注文したのだ。ペーパーバック版が25ドルのところを、デジタル版だと15ドル。
すぐに内容が全部パソコン画面で見ることができるようになった。こういうのはiPadの方がきれいに見えそうなので、そちらで見てみると、とても鮮明な画面!
タップすれば前後のページに移動し、字の大きさ・画面の設定などを変えたり、目次から読みたいページに飛んだり、全文検索もできて、大変便利だ。Google eBooksは、ダウンロードするのではなく、ネットでつないでその場でアクセスして見るようになっている。去年の暮れからデジタル書籍の販売が始まって、現在数万冊が購入できるといい、専門書もかなり入っている。それ以外に、著作権の切れたもの300万冊が無料で閲覧できるという。これは数年前から始まっていた電子化の成果で、私の分野では、ハーバード大学イェンチン研究所の蔵書が全部電子化されていたはずだ。
Amazonでもかなりの専門書が電子化されていることは以前このブログに書いたが、閲覧用にキンドルを買わなくてはならないので、チャレンジしないでいた。Google eBooksは、とくにそういうものは必要ない。
今回購入した本は、中国語訳を読んでいて、英語版も参照したくて入手したものだ。頭からしっかり読むにはやはり紙の本がよいように思うが、時々参照するには、デジタル版はとてもよい。そうやって読んでいるうちに、時々調べものをするにはiPadが便利ではないかと思いついた。ネット辞書や漢籍電子文献資料庫などのアイコンをiPadのホーム画面に置いてみたが、パソコンよりアクセスが早くて、かなり使い勝手がよさそうだ。
遊び用にと思って入手したiPadだが、予想以上に仕事にも使えそう。
残念なのは、Google eBooksは目下アメリカ国内でしか購入できないことだ。こちらにいる内にせいぜい洋書を買っておくことにしよう(ただし著作権の切れている史料などは日本からもアクセスできる。しばらくアクセスしていないが、以前より大幅に見やすくなっているのではと期待している)。