さあ! 見つけられるかな?
私は居ないです。
風はあったが良い天気でした。
冬眠の場所はここに決定?
掃除をしました。
バイブルアワ-です。
美味しかったです。
亀が気になる?
金曜日のボランティア活動は今日で終わりです。
次回は1月8日(金)の予定です。
チキンとは英語の“chicken”のことである。"chiken"は「ニワトリ」と訳されるため、親鶏を想像しがちだが、英語圏ではむしろ「ひよこ(ひな鳥)」という意味合いが強い。この「ひよこ」から派生して、スラングとして「若い女」「青二才」の他、「臆病者」という意味でも使われる。日本でもこの「臆病者」という意味でチキンが若者を中心に使われている。その要因として『チキンレース』が考えられる。また、2005年公開の人気映画『チキン・リトル』には主人公の名前以外に「臆病・怖がり」という意味が含まれている。
自宅から徒歩で行けます。
戦前の沖縄には、軌間762mmの県営軽便鉄道が走っていた。起点の那覇駅は、現在の那覇バスターミナルの場所にあり、与那原線(1914年開業、9.4km)、嘉手納線(1922年、22.4km)、糸満線(1923、15.0km)及び那覇港までの貨物線1.0kmを加え、合計47.8kmを擁していたが、沖縄戦で全て壊滅し、復活することはなかった。戦災で破壊された鉄道が全く再建されなかったのは沖縄だけではないか。
国道330号のひめゆり通り(古波蔵~安里)とその北の那覇市内部分は、嘉手納線の軌道跡地を拡幅して造られたものである。ゆいレール・安里駅の南200mほどのところに安里川が流れており、国道330号に「姫百合橋」が架かっている。大正末期、嘉手納線の橋はあったが、歩行者用には、歩くと揺れるような仮通路橋しかなく、ある荒天の日にここを渡ろうとした高女の生徒が転落死した。 これを受けて、ここに木の橋が架けられ、昭和に入り、「姫百合橋」と称し、それが「ひめゆり」の起源となったという。軽便鉄道については、県立博物館に展示コーナーが設けられている。なお、嘉手納線の線路跡が、浦添市のパイプライン通り(県道251号)沿い、県立特別支援学校の前に残されている。
大部分が土砂に埋もれていた。
中は水が溜まっていて、写真で見る限りでは奥に部屋があるような!
最初はト-チカ跡と考えられていたようだが?通信施設跡と!
畑を抜けて!
上里ファ-ムポンドの向いにあります。
正面です。
正面
内部
奥は崩落が進んでいる?
案内板も説明や情報が乏しい。
晴れのち曇りで雨は降らなかった。
まずは消毒からです。
触れる所は全部消毒します。
今日のバイブルアワ-です。
フェイスガ-ドも作りました。
コンサ-ト開始です。
プリゼントの用意もしました。
2階の中庭でのコンサ-トが終われば、3階のラウンジでコンサ-トです。
移動が、こんなに大変だとは!
「真珠湊碑文(まだまみなとひもん)」(沖縄戦で破壊されたが、2000年代に再建された)によれば、真玉橋が最初に架橋されたのは琉球王国第二尚氏時代、第三代尚真王の1522年である。その目的は1.日常の政治目的(按司などの使用)、2.城(おそらく真玉橋の南側にあった豊見城(とみぐすく))と水(水害)の保護、3.有事の際に島尻地域の軍勢を那覇港に集結させるため、であり首里と沖縄本島南部(島尻地域)を結ぶ真珠道(まだまみち)の一部として建造された。初代の橋は木造であった[2]。
真玉橋が石造橋となったのは第11代尚貞王の1708年のことで、5連のアーチ橋が完成した。当時の琉球国内では、1451年に建造された長虹堤に続く石造アーチ橋であったと考えられている[3]。橋長約38m、幅員約4.8mで、両端のアーチ橋は無名だが、中の3つのアーチ橋は南からそれぞれ「世持橋」「コモコ橋」「世寄橋」と命名されていた。その後1837年に大改修されて琉球王国消滅後も存在していたが、1945年沖縄戦の際退却する日本軍によって破壊された[4]。
戦後米軍によって鉄橋が、さらに1963年には琉球政府によってコンクリート橋が架けられていたが、2002年に再びアーチ橋として架橋された。この架橋工事の際に旧アーチ橋の遺構が発見され、現在も国場川の両岸に保存されている。
昔、日照りが続き、真玉橋に埋める生け贄を決める為、矢を飛ばして刺さった家の娘を生け贄にしようという事になる。だが、矢が刺さったのは言い出した人の家だったため、その人の娘が生け贄にされ、橋に埋められた。という言い伝えがある。
また、別の言い伝えでは、一人の神女(一説にユタとも)が「子年生まれで、七色の元結を身につけた女を人柱に立てよ」との神託を告げたところ、その神女(ユタ)が正しくその女であり、神託を告げた自分が人柱に立てられることとなり、最期の時、自分の娘に「人より先に口をきいてはいけない」という言葉を遺した、というものもある[7][8]。
なお、後者の言い伝えについては、岡本綺堂の戯曲『長良川』をそれに基づいてアレンジした伝説劇、『真玉橋由来記』が作られている。[9]また、芥川賞作家の大城立裕も、それに基づいた新作組踊『真珠道(まだまみち)』を作った。[10]
ここは池なので問題ないが、あまり上を見ない事にしている。空は暗いので露出補正し
ても暗い写真になってしまう。気のせいかも知れないが雨(小雨)の時の方が警戒心
が薄いように思う。雨でも空腹には勝てないから雨宿りしている場合ではないか?
遠くから見るとブロックかなと思ったが違った。
わからない。
【垣花樋川看板より】
天然の美しい川や泉を保全して後生に伝えるという目的で推薦され、昭和60年に環境庁の全国名水百選に選ばれた。百選の中でも最初は全国で31件が選ばれこれに入選した。垣花樋川は集落の南側にあって、石畳の急な坂道を100メートルほど降りていくと、左側のうっそうと繁った林の中腹岩根から湧水が湧き出ている。
かつては左側上のイナグンカー(女の川)は女が使い、右側下のイキガンカー(男の川)は男が使っていた。その下流の浅い水たまりはンマミシガー(馬浴川)、全体をまとめてシチャンカー(下の川)と呼ばれ樋川から流れた水は下の田をうるおし、稲作が盛んであった。垣花村の人々はシチャンカーで水浴び、洗濯、野菜洗い、水汲みをするためカービラ(川の坂)を行き来した。石畳道の途中には女たちが一息入れたナカユクイイシ(中休み石)、イーユクイイシヌヒライサー(上休み石の平石)が残っている。
現在は、簡易水道として地域の飲料水等の生活用水や農業用水として利用されている。
雨上がりや雨天の時は危険かな!
表示板より
仲村渠樋川は、仲村集落の共同用水施設で、沖縄の伝統的な石造井泉を代表するものである。
古くはうふがーと呼ばれ、水揚げに木製の樋をすえた程度の施設だったようだが、大正元年(1912年)から翌年にかけて、津堅島の石工により琉球石灰岩などを用いて造り替えられた。その施設はいきががー(男性用水場)、いなぐがー(女性用水場)、広場、拝所、共同風呂、かーびら(石畳)によって構成され、敷地北側からの湧水を貯水槽に貯え、水場へ流して使用されていた。昭和30年代に簡易水道が敷設されるまでは、飲用、選択、野菜洗い、水浴びなどの生活用水として利用されていたが、最近は主に農業用水に利用されている。
しかし、先の沖縄戦で共同風呂周辺は破壊され、土で埋められたため、昭和39年に広場にはモルタルが塗られ、仮の改修がなされた。さらに、平成16年に実施された復元工事により、大正2年(1913年)当時の樋川の状態に復元され、敷地全体の景観が整えられた。同時にいきががーの芋洗い場や広場の石敷き、共同風呂も復旧整備がなされた。共同風呂については、主に発掘調査により発見された出土品(北側の石柱2本、石壁の一部、水槽、洗い場床、五右衛門風呂の一部)や近辺の類例などをもとに復元がなされた。また、法面保護のため、共同風呂北側および広場東側に擁壁工事が施され整備された。
玉城村教育委員会
呉屋コミュニティセンタ-の前で畑作業している男性に聞いた。
以前に一度来たが見つけられなかった。
今回は詳しく聞いたので間違いなく行けました。
西原町の文化財の案内には
「町有形民俗文化財 指定
この石獅子は、呉屋後方(北側)の殿下方に位置し、おおむね南の運玉森に向けて建っている。製作年代および製作者などについては不明である。
石質はウミイシあるいはウミイサーと呼ばれる珊瑚石である。法糧は、尻から口まで約56センチ、後足から前足まで約47センチ、前足の幅約20センチ、床から頭部までの高さ約47センチ、床から頭までの高さ133センチを測る。
このシーサーはの南側に位置する運玉森に対する厄返しのために造営されたという。いわば、呉屋の守護神的な性格を持つものである。」と書かれています。
石獅子も置かれる高さや、厄返しの対象により、顔の向きが変えられるのでしょうか。この石獅子は前向きの平面顔で、目が小さくアーモンドアイです。4本の足は少しだけ刳られています。はじめタイプで、どことなく可愛く、見た人は誰でも好きになりそうな石獅子ですね。
シャッタ-ボタンに指を乗せて待つこと数分、やっと撮れました。
今回観察していて一番のお気に入り写真です。
気分転換したい時?に来ます。
専門的な野鳥観察ではなく、鳥の動きとか仕草を見ているのが好きなんです。(愛鳥家なんです)
アオサギ・クロツラヘラサギ・アカアシシギ・コチドリかな?(間違っていたらゴメン)