溝渕校長は昭和六年一月十日京都第三高等学校長へ転任発令があっている。
掲示板には三月三日の告別式(卒業式)の掲示、その案内文は以下のものである。
昭和六年三月三日午前十時告別式挙行、
服装は本校の制服(上下黒)着用のこと。
集合は鳴鐘を以て報む。
尚当日の進退は体操科教官の指導に従うべし
それから前年に起こった伊豆地方におきた震災の義捐金の報告があって掲示板も賑やかである。
なお告別式の教員総代は上田良吉教授が予定されていたが、当日は欠席になっており、生徒総代として木戸敏男、三年総代として福山卿太郎が答辞を述べている。
大正時代は各高等学校とも思想問題も華やかし時代で五高の社研について参考として熊本大百科事典を転載する。
第五高等学校社会科学研究会.《通称五高社研》
社研運動は大正十一年(一九二二)五月、後藤寿夫(林房雄)、鶴和人、松延七郎、村上敦、坂本彦太郎等によってRF会が創立された時に始まる。全国の高等学校では先駆的である。山川均が雑誌「前衛」で訴えた『ロシアを救え」の呼びかけに呼応し救援活動に参加した。東大新人会の指導もあって人道的運動として教師、学生間の支持が拡大した。同年十一月に発足した学生連合会(FS)に加盟し、全国の学生間で組織されたロシア飢饉救援会にも参加した。五高社会思想研究会と改称し、研究団体として学校側からも承認された。一二年一月の高等学校連盟結成大会に代表を送り、合宿所を持って本格的に発展し、労働者や文学青年などとも交流し七日会の結成に参加、労働者教育、郡築小作争議にも精力的な支援活動、オルグ活動を行い、青年労働者とともに自由青年学生連盟を組織し機関紙「黎明」を発行、農村の啓蒙遊説運動にも参加した。一三年の熊本初のメーデーにも参加し、この年創立された九州無産青年同盟に参加するなど、次第に研究活動から社会主義実践活動に参加する傾向が強くなった。
校長溝渕進馬は同年一一月、文部大臣の全国高校社研解散命令(一二月二日)に先立って解散を命じた。激しく反対運動を行ったが認められないままに、非公認で社会科学研究会を組織して活動を続け、一五年の市電争議では退学者も出した。昭和に入ると京都学連事件、三・一五,四・一六などの相次ぐ左翼弾圧の中で社研運動も先鋭化し検挙者も出したが、五高社研は社会活動に活動する著名な活動家を生み工高、薬専、医大、第一高女、熊中等の中学社研運動に多大の影響を与えた。