五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

第十三臨時教員養成所と卒業生の様子

2012-07-24 03:41:23 | 五高の歴史

五高に出来た高等師範第十三臨時教員養成所について、此処に掲げたのは当時の関係書類を点検していたところ小学校の担任であったK先生の受験票が出てきたことであった。受験申請書に添付してある書類は、昔であるので戸籍謄本、中学校の成績一覧表、今で言えば個人情報に触れて大事になるところであるが約90年昔は個人情報も何糞の時代であり、その上この先生親父と同年代で話に聞いていたことが確認されたということであった。この先生結局師範の2部に行って小学校の教師になられたということであった

そこで臨時教員養成所について一寸纏めてみようかと云う気になって、まず五高五十周年史を読んでみると、第十三臨時教員養成所については、ここの卒業生は卒業時までには五高の教官にお世話になっていたが卒業後は五高同窓会等には音沙汰ないようなことが記載されている。

まず第十三臨時教員養成所の卒業生の概略を眺めてみると、卒業生の総員は昭和四年数学科卒業二十七名、昭和六年国語漢文科卒業二十五名、昭和七年数学科卒業二十八名の八十名である。入学許可者は各年とも三十五名を採ってあったのだが在学期間三年間を全う出来た者の少なさを感じた。

五高の学校一覧では昭和九~十年までここ第十三臨時教員養成所の卒業生を追跡調査してある。昭和四年卒については文部省への報告書では就職口が多く,断るのに苦労し大変であったようなことが報告されている。昭和五年の一覧では全員中学校の教師になっている。しかしその中の一人は早くも昭和九年では既に所在不明になっている。

昭和六年卒業は国語漢文科卒業であるので全員国語の教官であるが、そのうちの十二名は高等師範卒業資格での小学校の教員になっている。このうちの卒業生の一人は九大へ進学しているし,就職先の場所は当時の朝鮮と満州へ各一名、国内では大阪三人、千葉と神戸そして岡山へ各一名、九州では福岡県、佐賀県、宮崎県、鹿児島県に各一人、県内には七名しか就職していない。

昭和七年の卒業生になれば就職そのものが困難であったようで、昭和九年四月現在でまだ未就職者と思われるものが八名、国外の当時の台湾、朝鮮に就職している者が各一人あり、県内就職者は六名で、国内に就職した者の就職した県を挙げてみても、福岡県,広島県,鹿児島県、香川県,宮崎県,愛媛県,大分県,佐賀県に、各一名に就職している。そのほか大学へ進学したものも一人あった。

 五高同窓会の設立は昭和五年に行われている。その第四条には「本会は本校卒業生を以って通常会員とし,本校職員及び職員たりし者又は本校に縁故ある者にして会長の推薦せる者を以って特別会員とす。」とあり、龍南会規則においても,第十三臨時教員養成所についての規則の追加、改正等も行われている様子はなく、第十三臨時教員養成所卒業生は五高同窓会からは継子扱いにされていた。

当時の五高に在学して居られた人にこの第十三臨時教員養成所はどんな風であったか尋ねてみたことがあったが、全く別の学校という感じで我々生徒にとっては臨教の生徒は全く、よその学校の生徒という感じでしかなかったということであった。