1683年 村山 伝兵衞は能登国 羽笮郡 安倍屋村にて生まれた。
それから月日は過ぎ、渡島半島の松前藩に阿部屋の伝手を助け舟に伝兵衞は初めて蝦夷地へやって来る・・・・まだ十代だった。
◇
藩士 工藤八郎右衞門の宅に居候させてもらいながら徐々に商人の真似事を覚えて行く。
そして当時松前に住むには この地の住民と縁戚になる必要があり、伝兵衞は松前藩の専属船頭である古谷勘左衛門の家に娘と養子の形で婿に入り、それから松前城下に店を開いた。
所有する船は増えて行き10隻程となり域を延ばし宗谷・苫前・留萌・石狩などの藩主直領の「場所」・強い権威のある漁場・港の権利、の経営も任されるようになる。
現地のアイヌには効率的な漁法を教え尊敬されていた。
・・・・・
時は流れ
偉大な一代目は亡くなる。
その「場所」の権利を二台目「村山理兵衞」から「村山伝兵衞こと兵右衛門」が、祖父の死後に引き継ぎ、やがては昭和年鑑に石狩場所を設けるまでになる。
1778年には増毛場所も請負、遂に三代目の伝兵衞の代で苗字と帯刀を許される。
1782年には町年寄と町奉行下代役を兼任し、長崎俵物買付取締役までも務める。
これもあれも偉大な先代の名声から繋いで出来上がったことである。
◇
ある時大変なことが・・・
1789年のアイヌの蜂起「クナシリ・メシナの戦い」で、東蝦夷地の「場所」を請け負っていた飛騨屋久兵衛は罷免され、9月に実務を伝兵衞に任されることになる。
この状況はアイヌが戦いに敗れ、悲惨な状態にあり、この時の喫緊の業務は困窮するアイヌへの救援の輸送を厳冬の中で行う冬の海の危険な行為であり、伝兵衞は辞退しょうと話しかけた。
しかし、許されなかった !
だが、この気持ちを伝兵衞は反転させるべく胆力を出し、ピンチにチャンスありとばかりに、飛騨屋の後釜へ収まる気持ちで積極的に乗り出した。
◇
戦後の混乱を巧みに収めた伝兵衞は1790年、藩令により、樺太の「場所」開発に船を派遣することができるようになる。
さらに、知床・斜里場所の実権をも握り「日本長者鑑」に日本国内長者番付で、西の鴻池善右衛門と並ぶ東の横綱と称されるまでになっていった。
続く・・・・
それから月日は過ぎ、渡島半島の松前藩に阿部屋の伝手を助け舟に伝兵衞は初めて蝦夷地へやって来る・・・・まだ十代だった。
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藩士 工藤八郎右衞門の宅に居候させてもらいながら徐々に商人の真似事を覚えて行く。
そして当時松前に住むには この地の住民と縁戚になる必要があり、伝兵衞は松前藩の専属船頭である古谷勘左衛門の家に娘と養子の形で婿に入り、それから松前城下に店を開いた。
所有する船は増えて行き10隻程となり域を延ばし宗谷・苫前・留萌・石狩などの藩主直領の「場所」・強い権威のある漁場・港の権利、の経営も任されるようになる。
現地のアイヌには効率的な漁法を教え尊敬されていた。
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時は流れ
偉大な一代目は亡くなる。
その「場所」の権利を二台目「村山理兵衞」から「村山伝兵衞こと兵右衛門」が、祖父の死後に引き継ぎ、やがては昭和年鑑に石狩場所を設けるまでになる。
1778年には増毛場所も請負、遂に三代目の伝兵衞の代で苗字と帯刀を許される。
1782年には町年寄と町奉行下代役を兼任し、長崎俵物買付取締役までも務める。
これもあれも偉大な先代の名声から繋いで出来上がったことである。
◇
ある時大変なことが・・・
1789年のアイヌの蜂起「クナシリ・メシナの戦い」で、東蝦夷地の「場所」を請け負っていた飛騨屋久兵衛は罷免され、9月に実務を伝兵衞に任されることになる。
この状況はアイヌが戦いに敗れ、悲惨な状態にあり、この時の喫緊の業務は困窮するアイヌへの救援の輸送を厳冬の中で行う冬の海の危険な行為であり、伝兵衞は辞退しょうと話しかけた。
しかし、許されなかった !
だが、この気持ちを伝兵衞は反転させるべく胆力を出し、ピンチにチャンスありとばかりに、飛騨屋の後釜へ収まる気持ちで積極的に乗り出した。
◇
戦後の混乱を巧みに収めた伝兵衞は1790年、藩令により、樺太の「場所」開発に船を派遣することができるようになる。
さらに、知床・斜里場所の実権をも握り「日本長者鑑」に日本国内長者番付で、西の鴻池善右衛門と並ぶ東の横綱と称されるまでになっていった。
続く・・・・