東京 青春エレキ野郎 1.
修学旅行から時が経ち 又ここ東京へビートルズになる為 やって来た
・・お袋に無理をいい「自動車短大に行くのよ」に対して四年制でなければ良い勉強が
できない「可愛い子には旅をさせろ・と言うでしょ」とうそぶき
どうしても東京へ行きたい・とだはんをこいた。エレキ野郎
本音はエレキのチャンスは東京じゃないと・と必死だったんだ・・
◇
高校の修学旅行中の自由時間に制服で渋谷「ACB」(アシベ)へ行き地下へ降りて行くと
回るステージで・・あれは「タックスマン」と云うGSが演奏していたのを思い出す・・。
◇
所が、入学してみてその大学は体育系でそれどころではなかった。
それでも自分なりに無理やり事ある毎に有志出演を探し修学旅行で集まった
小遣いで買ったテレアコのエレキを使い奮闘していた。
当時カラオケなどなく自分で、多重録音を行いハモリコーラス・ドラム・ベース・
リズムギターを基本テープに入れ自分でカラオケを作り本番ではリードギター兼ボーカルで
「ハートブレイカー」を学園祭で一人で演奏した。
オープンリール・ベースギターは質流れ品を購入。ドラム音はダンボールと缶や何か金属を
叩いている音を入れた。
ファズトーンは新品をフットペダルで、ときおり音質を変えて音の広がりを演出した。
学友に気狂い扱いされていたが、「カッコよかったわ」と言われ有頂天になってたっけ
でも、ビートルズになるにはコンテスト大会に応募しなくては・とニッポン放送の
フォークコンテスト他に自作曲を持ち行った。結果・落選だった。
・・
吉田拓郎・井上陽水が自分の心の中ではライバルだったが、そんな中彼らは徐々に頭角を
現して行った・・。
俺との決定的な違いは彼らは「野に散りボロボロになりながらも自作を追求しハングリー精神
を耐えた」だった・・。
そんな頃、俺は変にマネーを知ってこの貴重なヤング修行時代に禁断のリンゴを
食べてしまったイブだったんだ・・
プロとして出来上がった風に勘違いしハングリーを耐える時期にブランド品を足から上まで
まとってしまっていた・・。
◇
本論に戻り
エレキの夢は続いて外人アーチストが来るたびに、土木作業のアルバイトをして稼いだ
お金をチケット代につぎ込み、夢を追いかけた・・・成功者と俺と何が違うのかと悩んだ
そうこうするうちにあっという間に四年が過ぎ仲間は就職カットで長髪を切り真面目風になり
全国へ散らばり田舎近くの釧路のデパートに就職し、直ぐに結婚した学友もいた。
思えば、その頃まだ音楽の青春 真っ只中だった。
東京と云う所は面白いところで、6畳一間で気狂いのように歌を張り上げても「隣はとなり」
他の部屋の住民とは挨拶一つせず例えゴミ捨て場でルンペンが死んでいても関係ない・と云う
所だった・・。いい意味でも悪い意味でも隣人に関わり合いは持たない都だった。
流れは
当然正式にはエリートコースへは行かず、運ちゃんなどのバイトやちり紙交換で中古車を買い
短期間自営もしていた。
うまく行かず行き当たりばったりで、家の近くの有限会社の配送マンとなりながらエレキは
続けていた・・。
当時、丸井クレジットを組み支払いが1ヶ月延滞しそうになり今で云うダブルワークを
するべく「ann」を捲っていた・・・その時。
うん?