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当世時代遅れジャズ喫茶店主『夏原悟朗の日々』

「写真+小説」形式によるジャズものがたり 前田義昭作品

85. 再びの赤い糸

2025-04-15 | ジャズ小説

  Afternoon In Paris (Atlantic) / JOHN LEWIS & SACHA DISTEL

胸に溜まっている何かをはきだしたそうではきだせない。ヒゲ村が逡巡している様子が夏原には見て取れた。例の松本行きの理由をまだ話していなかったのだ。本来なら帰って来た時、すぐその話をするはずなのにしないから夏原も気を使って聞かないでいた。それとなく呼び水を入れると、よくぞ聞いてくれましたとばかり口を開いた。
「いやぁ、それがね」
と、含み笑いをしてヒゲ村はコーヒーをひと口すすった。そして堰を切って喋り始めた。
「松本から帰って来た時は、マスターには悪かったけどそのことはまだ黙っていたんだけどね」
そこでまた、コーヒーをすすって少し間をおいてから言葉をつないだ。
「前に高校の同窓会に出た話をしたでしょ。その時に昔から気になっていた娘も出席していたんだ。話す機会があってね。そしたらドンピシャリでジャズが好きだったんだ。意気投合しちゃってね。オレがバルネ・ウィランが好きだと言うとこれがまたドンピシャリなんだ。それからトントン拍子に話がはずんじゃって、お互いの状況を語り合ったんだ。ジャズっていいね」
そこで少し照れたような表情になって、続きを喋りだした。
「今どこに住んでるのと聞いたら信州の松本で家族といるって言うんだ。いいとこだねと言ったよ。本当はオレ行ったことがなくて知らないんだけどね。でもとりあえずそう言うのが礼儀じゃん。じゃ、東京からそんな遠くないし今度遊びにいらっしゃいよと言ってくれたんだ。ジャズやってるいい店にも案内すると。それでまあ、この前松本まで行ってきたというわけなんだ。東京のいいジャズ喫茶を知ってると聞いてきたから、待ってましたとばかりサマー・フィールドって名のいい店があるといの一番に答えておいたよ。東京に来た時は案内すると言ったら嬉しそうな顔をしたんだ」
ヒゲ村も嬉しそうな顔をした。
「そういうことだったら、楽しみに待ってるよ。できるだけ早くそうなるといいね」
夏原は心からそう思った。前の赤い糸は途中でプツンと切れてしまっていた。今度こそ
本当に赤い糸で引き寄せられるといいと思った。それにしてもヒゲ村は同級生つながりが多い。
「バルネ・ウィランか。じゃ、これをかけよう」
夏原が『アフタヌーン・イン・パリ』を抜き出したが、ヒゲ村はもう
上の空でなんでもいいという感じだった。心はこれからの遠距離恋愛に飛んでいるのだろう。
この盤はジョン・ルイスとサッシャ・ディステル名義だが、バルネ・ウィランのテナーを聴きたさに買い求める人が多い。パリのエスプリなどと言うと通り一遍の文句だが、やはりウィランの音色はその思いを強く感じる。いつかこのカウンターで肩を並べて聴く場面を夏原は想像した。『水辺にたたずみ』がかかるとイントロからジョン・ルイスの叙情感あふれたピアノがパリの風景を描写するようだ。ウィランのパートにかかるとテナーでさらにその曲想を歌いあげる。店内がパリで充満した。
そこにスミちゃんが現れた。
「ヒゲ村くん、お帰り。松本に行ってたんだって」
「今、その話をしていたんだ」と夏原。
「かかっているバルネ・ウィランがヒントなの」
「さすが鋭いね、スミちゃん。お土産だよ」
ヒゲ村が嬉しさを隠せないといった顔で手渡した。開けてみるとグラスが二つ入っていた。表面が不規則なデコボコが
少しあって生成り感のある透明のグラスだ。
「ありがとう。赤ワインを入れるときれいでおいしそうな感じね」
「マスターにも用意してあるからね」
夏原はそれより松本から送ってもらったレコードの代金を払わなければならない。金のないヒゲ村に散財をさせられないと思った。ヒゲ村にそれを言うと手を振っていらないというジェスチャーをしていやに気が大きくなっている。これも赤い糸による勢いなのか。
「マスター、大した金額じゃないからたまにはプレゼントさせてよ」
ヒゲ村の
豪気さは崩れる気配がなかった。

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