Plays Misty (Mercury)・ERROLL GARNER
「飛行機から夜景を眺めていた時にひらめいたというだけあって、非常によく出てるよね。その情感が」
『ミスティ』が終わると、久し振りに顔を見せていた正木がつむっていた目をパッと見開いた。
「正直言って、これ以外はあまりいいのがないね、このアルバムは」
「だから余計冒頭の曲が光り輝くってもんだ。エロール・ガーナー一世一代の名演だよ。写真の決定的瞬間と同じような瞬間だったのかもしれないね。飛行機でひらめいたその時が。世界の深遠を一瞬垣間みたかのごとく、しみじみと語りかけてくるようなニュアンスがこの曲にはあるね。文字どおりミスティさがよく出てるよ」
夏原はコーヒーを一口すすって続けた。
「ガーナーときたら『コンサート・バイ・ザ・シー』で演ったような、唸り声をあげて一人で乗りまくる豪快なスタイルがまず頭に浮かぶよね。ドラムやベースの存在を無視したかのようなガーナー流の独演会が観衆を酔わすんだけれど。まあ、言ってみればエヴァンスと対極にある存在かもね」
「これはそんなガーナーとはちょっと違って、ガーナーらしくない繊細な名演ということか。オレも後世に評価される写真を一枚でもいいから残してみたいもんだね」
正木は苦笑した。
「そうだよ。一つ飛び抜けたものがあれば強いよ。ボクのようにしがないジャズ屋のオヤジじゃ一生うだつが上がらないけど。まだ、おまえさんなんかいつ大化けするか判んないよ。人間、歳じゃないからね。見ろよ、もう死んだけどあの金さん銀さん姉妹は百歳でデビューしたじゃないか」
「そう言ってもらえりゃ、涙がちょちょ切れるってもんだ。しかし何時になったら決定的瞬間に遭遇するのかな。まだ四十年もあるからな。はっはっは」
「はっはっは」
テーブルで寝ていたトミーが、やおら起き上がって背中を大きく丸め伸びをした。そして欠伸をした。
「聞いてられないってか。オヤジの会話なんぞ。じゃ、次は『コンサート・バイ・ザ・シー』をかけてみるか」
「しかしよく寝るなあ、この二匹は。猫は耳が敏感だというのに」
「もう完全にそういう耳になってるね。『コンサート・バイ・ザ・シー』であろうが何であろうが平気の平左だよ。こんなもので驚いてたらジャズ喫茶の猫は務まらないよ。逆に静かすぎるほうが小さな音でも気にするよ」
「そんなもんかね。慣れというやつは」
正木は再び猫を見やった。
「猫にしてみりゃ、ジャズ喫茶で飼われるのもこの世の巡り合わせだ。良かったか悪かったか猫に訊くわけもにもいかないし」
拍手で始まる大音量の『四月の思い出』がかかっても、猫たちはビクともしないで寝入っている。二人は暫く二匹を眺めていた。
「今日はヒゲ村君がいないね」
「ほら、お出でなすったよ」
夏原のあごの先に、本人の姿があった。
「今、話をしてたんだよ。この店にヒゲ村君がいないと、何かひとつ足りないって感じがするんだ。朝ご飯の時に味噌汁がないような」
「とうとう味噌汁にされちゃったよ。喜ぶべきか悲しむべきか」
ヒゲ村が頭をかいた。
「ところでマスター、あっ、何を言うか忘れちゃったよ。のっけから味噌汁だとか変なことを言うもんだから。まだ、老化現象を起こす歳じゃないんだけどなぁ。まあ、いいけど。ガーナーか、いいねえ、この『枯葉』も。ドラマチック仕立てで、独特の盛り上げ方をやるんだね、ガーナーは。上げ潮がぐぐぐっと迫って来るような」
「なかなかうまいことをいうなあ。まさにそんな感じだよ。ヒゲ村君のガーナー論が出たところでそろそろお暇するかな」
正木が立ち上がった。出て行く後ろ姿を見送る夏原がポツリと呟いた。
「正木の決定的瞬間は何時やってくるのかな」
「えっ、何それ」
狐につままれたヒゲ村の顔だった。
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