Down Home (Bethlehem)・ZOOT SIMS
ヒゲ村と安岡が連れ立ってやって来た。
「ヤッサンと久し振りに飲んで、昨夜うちのアパートに泊まったんだ」
「寝る場所あんのか」
「またまた、いくら狭いったって一人くらいは大丈夫だよ」
二人のやりとりを傍で聴いていた安岡は、ただ笑っていた。
「ヤッサンが休暇をとって東北のジャズ喫茶巡りをしてきたんだ」
ヒゲ村がヤッサンにかわって言った。
「東北は初めてなんで、全国のジャズ喫茶を網羅した本を片手に行って来ました」
ヤッサンはバッグから本を取り出して言った。恐らくそれを肴に、二人で遅くまで飲んでいたんだろうと夏原は想像した。
「マスターのお店は載せてないんですね」
「うちは載せない事にしてるんだ。そりゃ、遠くから訪ねて来てくれるのは有り難いけど、こんな狭い店だしね。
それと、同じような質問ばかりされていちいち答えるのも面倒でね」
「はっはっは、いかにもマスターらしいですね。そう言えば確かにボクも行く店行く店、同じような事ばかり聞いてましたよね」
「要するにマスターは、常連を大事にしてるって事だよ」
ヒゲ村がまるで店主のような口ぶりで言った。
「安岡君、なにか聴く」
夏原がヤッサンに言った。
「じゃ、ズート・シムズの『ダウン・ホーム』を。ある店のマスターがズート好きで意気投合して長居してしまったので、危うく列車に乗り遅れそうになってしまったんです。山形、仙台、福島と回ってきましたが、ジャズ喫茶は地方の方がまだ元気ですね。でも、中にはボクのようにジャズ目当ての客だと判ると、あわててレコードをかける店もありましたけどね」
「ジャズ喫茶とは唱っていても、近所の客に来てもらうためには大きな音を出さない通常の喫茶店としてやらなきゃいけない面もあるのだろうね」
レコードをセットする夏原が、後ろ向きのままで答えた。独特なイントロの『ジァイヴ・アット・ファイヴ』がかかった。
「これほど人柄を感じさせるテナーもそうはないよね。スタン・ゲッツなんかだと、どうだ聴いてみろ凄いだろっていうのがストレートに伝わってくるけど、ズートの場合はまあちょっと聴いてみてくれるかいって雰囲気だね」
夏原の言葉を受けて、ヤッサンも言った。
「ボクもそこが好きなんです。一方的じゃなく受け手の存在を常に意識しながら、どう吹いたら心地よく聴いてもらえるかっていう、こころを感じさせますね」
「それがズートの表現力の芯になっているのかな。それと、ジョージ・タッカーのぐいぐい引っ張って行くベースがいいよね」
ヒゲ村が言った。
「あっ、そうだ。ディックとトミーにおみやげです。もらいものなんですけど、オーストラリアのものです」
ヤッサンはバッグから袋包みを取り出して夏原に渡した。
「いま眠っているから、後であげるよ。ありがとう」
トミーとディックは折り重なるようにして、椅子の上で寝ていた。
「ディックはずいぶん大きくなりましたね。あの時の面影はもう感じないなぁ」
「オレもほんとは飼いたいけど、大家のばあさんがいつも見張ってるから無理なんだ」
ヒゲ村が猫を撫でながら残念そうに言った。
「いいじゃないか。いつもここにいるから飼ってるようなもんだろ」
「ちがいないね。ここにいる時間のほうが長いくらいだからね」
その言葉に皆が爆笑した。
「マスター、ぶっ倒れてもオレが引き継ぐから大丈夫だよ」
ヒゲ村が満更でもない表情で言った。夏原はただ笑って応えるだけだったが、そんな事態もあり得なくはないので、冗談だけで聞き流す話でもないなと、内心思った。
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