夏原悟朗の日々

当世時代遅れジャズ喫茶店主ものがたり /「写真+小説」形式によるジャズ小説 前田義昭作品

47. ボサノバの嘆息

2009-06-30 | ジャズ小説

Img_4030Bossa Nova Soul Samba (Blue Note)・IKE QUEBEC


 客がまだ一人も来ない店内で、夏原は次にかけるレコードを選んでいた。
 レコード棚の前で徒然に浮かんできた楽器やミュージシャン、あるいは曲から選んだりした。またランダムにレコードに手を伸ばして一枚ずつ見ていったりしながら、成り行きで決める場合もある。選び方はその時によっていろいろだった。
「ボサノバ」
 夏原はその時パッと頭に浮かんだその言葉から『ボサノバ・ソウル・サンバ』を抜き出した。このレコードは夏原の愛聴盤だ。このところ聴いていなかったので久し振りだった。早速プレーヤーにセットして針を置いた。
『ロイエ』が流れる。ケベックはテナー・サックスという楽器で聴く者にしみじみと語りかける。極めて抑制されてはいるが強い意志を込めたテナー音は、「私の人生はもうわずかだが、その前に君たちに話したいことがあるんだ。きいてくれるかい」と問いかけているように夏原には聴こえる。陽気なはずのボサノパだけどこの音色は悲しい。
 肺ガンを患いながらレコーディングしたという逸話を知らなくとも、この一音を聴いただけでそれが伝わってくるだろう。結局この盤はアイク・ケベックの最後の録音になった。
『ゴーイン・ホーム』にかかると、万感の思いが胸にこみ上げてくるのを夏原は禁じ得ないのだ。これほど哀調に満ちあふれた演奏は他にない。少々気が重くなるのも事実で、軽々しくターン・テーブルに載せられないのだった。
「あれ、今日は一人もいないじゃない」
 久し振りに写真家の正木がやって来た。
「いつもこんなもんさ。ジャズ喫茶ってものは」
「まあ、そうは言わずにコーヒー入れてよ。ちょっと芝浦を撮りに来たんで寄ってみたよ」
 正木はカウンターの上にカメラを置いて言った。そして額に入ったジャケットに目をやった。
「アイク・ケベックか。胸にぐっとくるものがあるね、このレコードは。日本人にぴったりの情感が溢れているよ」
「ボサノバでってところがかえって悲しいね」
 レコードを聴く度感じることを夏原は口にした。そこでケベックの話題を止めた。
「ところで何を撮りに来たの」
「運河の辺りを撮りたくなってね。製糖工場があった辺りは風にのって甘い香りが漂って来たもんだけど、今はもうないんだね」
「ああ、M製糖ね。いつの間にかなくなったよ。うちのすぐ近くの運河に朽ちた廃船などがあって写真を撮るにはなかなかいい感じだったけど、それもなくなったさ」
 そこでケベックが終わった。
「何か聴きたいものある?」
「そうだね、じゃボサノバのながれで『イパネマの娘』が入ってる例のやつ」
「ああ、スタン・ゲッツのだね」
『ボサノバ・ソウル・サンバ』を仕舞いに行った夏原は、入れ替わりに『ゲッツ・ジルベルト』を手にして戻って来た。
「これも永らく聴いてなかったなぁ。お望みの『イパネマの娘』が1曲目だ」
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 ダブル・ジャケットから盤を抜き出しながら、夏原が言った。
「このけだるい歌い方が夏らしくていいね。なんとも」
 ジョアン・ジルベルトやアストラッドの歌声を聴いて、正木が微笑んで言った。
「ビールを飲みたくなったよ。これを聴くとなぜか冷たいビールが飲みたくなるんだ。未だ見ぬコパカバーナ海岸の熱風を感じて」
 夏原が抜いてきたビールを、正木はグラスに注いで口に運ぶと、うまそうに喉を鳴らした。
「前に一緒にニューヨークに行ったように、今度は本場のボサノバを聴きに行きたいもんだね。おいぼれ王子になってからでは遅いからね」
 と正木が言うと、
「ああ、そうしたいもんだ」
 間髪を入れずというか、無意識に夏原が言葉を返した。そして更に言葉をつないだ。
「おいぼれ王子だなんて。ボクらは四捨五入して、まだ六十じゃないか」  


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