夏原悟朗の日々

当世時代遅れジャズ喫茶店主ものがたり /「写真+小説」形式によるジャズ小説 前田義昭作品

73. 音のないジャズ喫茶

2010-10-28 | ジャズ小説

Img_5402_2Auf Wiedersehen (Mps)・RED GARLAND


「どやねん美味いやろ」
 夏原の二本を空けてしまったので、スミちゃんのワインを一口味わうと、まるで自分が持ってきたかのようにヒゲ村が言った。
 大阪弁を引っ込めるどころか酔いにまかせて喋り続け、ますます訳の判らない発音になっていた。夏原が復帰した喜びが、そんなところにも表れているのかもしれなかった。
「二度漬け禁止やからさてと思ってる時、横のおっさんが「そんな時はこうやんねんで」と言って、キャベツでソースをすくってオレの串カツにかけてくれたんや。ほんまジャンジャン横丁はおもろいとこや」
「それに気を良くして一杯おごったんじゃないの、ヒゲ村くん」
「図星や。サイフの中身が心細いのにや。そのチューハイがよっぽど嬉しかったんか話し込んだ後そのおっさん、これからええとこ行こゆうて誘われましたんや」
「ヒゲ村らしいよ」
 夏原が笑った。
「路の真ん中で人が転がってる山王の商店街を通って、それが途切れた辺りの横路を入ったとこや。なんかややこしい雰囲気の場所にスタンドバーが一軒あって、ドアの隙間からのぞいてからおっさんが手招きするんや。入ったら薄暗いとこでもはっきり判るオカマばっかりやがな。「こんなええ男どこで見つけてきたん」厚塗りにヒゲがうっすらと浮き出たママがオレを見てニコッとしておっさんに訊いた瞬間,酔いさめてもた。一杯だけ飲んで隙をみて逃げ出してきちゃったよ」
 なぜか最後だけ普段の言葉に戻ったヒゲ村だった。
「あれ、聴こえなくなっちゃったわ。次にガーランド節の『アウフ・ヴィーダーゼン』がかかるとこだったのに」
 スピーカーから急に音が出なくなってしまった。
「少しの間使ってなかったからストライキを起こしたのかな」
「ヒゲ村くんが酔っぱらってへんな話をはじめるからよ」
「ごめん。ごめん。大阪の話はこれで止めるよ。全快祝いの場だってことををすっかり忘れてたよ」
 暫くの間夏原がアンプをいじくっていたが、だめだというしぐさをした。
「ボクじゃまったくわかんないよ。明日修理をたのもう。これでまた休業ってことにならなければいいが」
「ところでマスター、修理は完全に終わったの。自分の身体の」
「胆石くらいと思ってたら、大変なことになっちゃったよ。まさか腹腔鏡手術が失敗するとは思わなかったからね。おかげでえらい日数がかかっちゃったけど、何とか命拾いをしたよ」
「あれって結構技術がいるらしいわよ。相当経験がある医者でないと無理みたいね」
 夏原が頷いた。その時、ドアをノックする音に皆が振り向いた。正木がガラス越しに顔をのぞかせていた。ヒゲ村がロックを外しに立ち上がった。
「少し瘠せたかな。おっ、病み上がりなのにやってるじゃない。じゃ、これ」
 夏原を一瞥して、正木がワインとオリーブのビン詰めをカウンターに置いた。
「赤ばっかり続いたので、ここで白とはグッドタイミングだよ、正木さん」
 自分が貰ったようなヒゲ村の口ぶりだった。
「大変だったんだって」
「そうなんだ。今みんなに話してたんだけど開腹して手術をし直したんだ。終わってからも胆汁が体内に漏れるし死ぬかと思ったよ」
「でも、そう簡単にはくたばらないわね。マスターは」
 スミちゃんが微笑んだ。
「なんだかわかんないけどね。悪運がつよいのかもね」
「おや、今度はオーディオの具合が悪いのかい。いつもの雰囲気と違うね」
 周りを見回して正木が訊いた。
「音のないジャズ喫茶もオツなもんだぜ」
「そういえば、スクリーンのない映画館ってタイトルでトークをする芸人もいたわね」
 ヒゲ村の言葉を受けたスミちゃんの軽妙な受け応えが、場を柔らげた。
「じゃ、正木の白を開けさせてもらってもう一度皆で乾杯してくれるかい」
「乾杯と退院は何回あってもいいよ」
「なんだい、そりゃ」
 ヒゲ村を見ながら夏原は、久し振りに腹の底から笑った。


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