The Clown (Atlantic)・CHARLES MINGUS
ヒゲ村が何とも複雑な顔でやって来た。
「なんだ、靄がかかったようなその顔は」
夏原が問いかけると、持っていたショッピング・バッグから本を一冊取り出した。
「レコードじゃなかったの。珍しいね、本なんか持ってるなんて」
「角の重村書店の前を通り過ぎたら、オヤジが走り出して来てオレを呼び止めるんだ。あんたジャズきちだからこの本あげるって。見ると植草甚一の『ジャズの前衛と黒人たち』じゃない。本屋から本を貰うわけにいかないので、いいよオヤジさんって言ったんだけど、古本だからってオレに手渡すんだ」
「あそこは新刊書なのに」
「そこなんだ。それにはちょっと面白い顛末があったんだ」
ヒゲ村はニヤついて、もったいぶった。
「聞くとオヤジさん、近く店を閉めるらしい。でね、その貼り紙をした翌日、店の帳場にこの本が置いてあったんだって」
ヒゲ村は夏原を窺うような顔をした。そして、続けた。
「オヤジさんが本を手に取ると手紙が入っていたんだ。その手紙には40年近く前に、店から万引きした本だと書いてあったらしい。その当時はお金がなかったのでつい失敬してしまったが、ずっと気になっていたという。店仕舞の貼り紙を見て、滑り込みで返したらしい。今頃返してくれてもね、なんてオヤジ言ってたよ。でも当時こんな本置いてたかな、って首を傾げていたよ」
「ちょっと見せて」
夏原はパラパラとページをめくり、奥付を見た。
「1969年発行の9刷だ。40年くらいになるね。そう、この頃は植草甚一の本が人気だったんだよね。若者のカリスマ的な存在だったな。この人があの独特の語り口でジャズ評論をやると、新らしさを感じたもんなんだ。若者文化の発信地だったんだよ。学生の抵抗運動と前衛ジャズの波長がうまく合ったんだね。このアルバムは前衛というわけじゃないけど、時代の気分にぴったりだったよね」
そう言って、夏原はチャールス・ミンガスの『ザ・クラウン』を引っ張り出した。
「長らく聴いてないのでかけてみるか」
ミンガスの骨太のベースが、太鼓の音のように響いて腹を打つ。
「ど迫力だね。空気の振動が見えるようだよ、まるで」
ヒゲ村も久し振りに聴くミンガスに興奮した。
「さすがミンガスのベースは違うね。これがスコット・ラファロだとまるで違った楽器に感じるよ。この『ハイチ人の戦闘の歌』なんて、全共闘の気持を鼓舞するんだ」
「これを聴いて、明日も機動隊相手にいっちょうやってやろう、ってことになるんだね」
「事実、そんな時代状況でその役割をはたした面もあったんだよ」
夏原は当時を回顧するかのように、天井を見上げて言った。
「マックス・ローチの『ウイ・インシスト』なんか典型的なアルバムだよね。オレなんか聴きたいとは思わないけど」
ヒゲ村が本のページをめくりながら言った。
「40年振りに戻って来た本だね。どういう気持で返したのかな」
夏原は興味深げに言った。
「なんでも返した人は、万引きは一回だけでその後はずっと顧客になっていたらしいよ。それも手紙に書いてあったんだって。オヤジは誰かなって言ってたけど」
「時代から想像すると、六十前後の人だね。そこからある程度しぼられるんじゃないの」
夏原は推理した。
「六十前後ね」
ヒゲ村は、夏原を真正面から見た。
「おいおい。まさか疑ってるんじゃないだろうな。だいたいボクはそんな前にはここにはいなかったんだから」
夏原は冷や汗をかきそうになった。
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