Sunday at the Village Vanguard (Riverside)・BILL EVANS
「とにかく子供と犬をそこらじゅうで見かけるんだ。競馬場でだよ」
「まるで遊園地ね」
「おまけに子供が馬券を買っていても,周りの大人は当然のような顔をしているんだ。競馬場ひとつとってみても外国とはこんなに違いがあるんだね。これはニューヨークも同様で一種のカルチャー・ショックを感じたよ」
「日本と違って進んでるのよ」
スミちゃんが泰然とした顔で言った。ドイツ競馬の話で盛り上がっていると、ヒゲ村がやってきた。レコードを小脇に抱えている。その興奮度から何か珍しいものを手に入れたのだと二人は察知し、それぞれの顔に表われていた。
「マスター、やっと手に入れたよ」
ヒゲ村が夏原に差し出したレコードは、ずっしりと重かった。
「オリジナル盤じゃないか。病膏肓未だ癒えずだね」
ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』を手にした夏原が言った。
「もうこれで最後にしようと思ってるんだ。ひと月の間、朝晩即席ラーメンでしのいだ成果とはいえ、やはりきついよ。まだ聴いてないんだ」
「じゃ、かけてあげよう」
演奏自体は何回も聴いているが、買ってきたレコードに初めて針を落とす時はまた気分も違ってくる。ましてオリジナルとなれば余計気合いが入ろうというものだ。間もなく研ぎ澄まされたはじめの一音が静寂を破った。しばし皆は聴き入った。そして早くもA面が終わった。夏原は盤
を回転させてB面をかけようとした。
「サンキュー、マスター」
ヒゲ村が満面に笑みを浮かべた。
「ところでマスター、オレが店にさしかかった時、行ったり来たりして中を窺っていたジイさんがいたよ」
言い終わるのと同時にドアが開いた。皆の視線がそこに集中した。入って来たのは見慣れない老人だった。ヒゲ村が夏原に目で合図した。老人はゆっくりと歩いてテーブル席に着いた。
「エヴァンスだね」
老人は誰にいうともなくポツリとひと言もらして、そのまま聴き入った。誰も言葉を発する事がないまま3曲が終了すると、老人が夏原に喋りかけた。
「よろしかったら、同じ日のセッションのもうひとつの方をお願いできますか。あっ、それにコーヒー」
夏原は頷いて、『サンディ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード』を出した。
「どちらをかけますか」
「B面をお願いしましょう」
レコードを回転させながら夏原は思った。同じ日の録音でありながら、一方は世紀の名盤と謳われているのに、こちらは陽の当たり方が随分違うなと思わざるをえなかった。エヴァンスのピアノが流れ、その向こうから客たちのざわめきや物がぶつかる音が同時に聴こえてくる。
老人はじっと聴き入っていた。こうべを垂らしてかすかに身体を揺すらせていた。その姿を見て夏原は昔からのファンなのだろうと思い、熱いものを感じた。
「年季が入ってるね」
「そりゃヒゲ村君とは違うわよ」
スミちゃんが小声で返した。やがて最後の『ジェイド・ビジョンズ』が終わると、老人はそれまで口をつけなかったコーヒー・カップを手に取り、ひと息で飲み干した。そして立ち上がって、夏原に言った。
「いや、ありがとう。久し振りに懐かしいジャズを聴かせてもらいました」
「エヴァンスがお好きですか」
老人は頷いた。料金を払ってドアの前まで行った時、振り向きざまに行った。
「実はね、この日の録音の時に客でいたんだよ。たしか1961年の6月25日だった。これを聴いて当夜を思い出していました」
そう言い残してドアの向こうに消えた。それを聞いていた一同は狐につままれたような顔をした。八十は超えていそうなので年齢的に合わない事はない。
しばし沈黙の後、ヒゲ村は拝むようなしぐさで言った。
「マスター、もう一度かけて」
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