カウンターに安岡の顔があった。猫のディックを持って来て以来、時々店に来るようになっていた。
「ディックは相変わらず元気そうですね」
「トミーとも仲良くやってるよ。やはり相棒がいた方がいいのかもしれないね」
「実はニューヨークに行ってたんです。これお土産です。猫好きの夏原さんにぴったりでしょ」
「ああ、これもってなかったんだ。ありがとう。さっそくかけてみようか」
夏原は安岡から受け取った『アレー・キャット』の中袋から盤を引き出した。
「ほう、キズがほとんどない原盤だね」
「それ、フリー・マーケットで見つけたんですよ。休日は道路を閉鎖してたくさん出店するんですね。随分安かったです」
モダン・ジャズを聴き慣れた耳には、いかにものんびりとしたスウィング・ピアノだが、妙に懐かしい感慨がわきおこってくる音だ。
「ベント・ファブリックは、たしかまだ生きているはずだ。もう八十は超えている。デンマーク人でメトロノーム・レーベルを起こしたんだ。あの『オーバー・シーズ』を録音したレーベルだよね。1962年にはシングルが全米ヒット・チャートを賑わしたんだよ」
「じゃ『Jukebox』のファブリックですね」
「それは知らないけど」
「ダンス・ミュージックのアルバムですよ。2006年にヴォーカリスト7人とつくってちょっと人気なんです。携帯電話のコマーシャルにも使われたんです」
「なかなかの変身振りだね。おじいちゃんの割には」
純正ジャズ以外にはとんと疎い夏原は、別世界の出来事のように感じた。
「いやぁ、来てたの」
ヒゲ村が手提げ袋を持って駆け込んで来ると、安岡に言った。
「おいしそうな猫缶が手に入ったので、トミーとディックにやろうと思って持って来たんだ。これあげてくれるマスター」
「ほう、レコード以外のものを持って来るなんて珍しいね」
「またまた、それよりヤッサン、ニューヨークはどうだったの」
「いまかけている『アレー・キャット』をお土産にもらったんだ」
「オレにはないの」
安原はバッグから一枚のレコードを取り出した。
「こんなのどうだい」
ザ・スリー・サウンズの『ムーズ』をヒゲ村の前に出した。
「何とも色っぽいね。このジャケットを飾れば侘しい部屋も少しはムードが出るかな」
ヒゲ村は自虐的に言った。
「じゃ、それをかけよう」
ファブリックが終わったので、夏原はヒゲ村からレコードを受け取った。ビニール・コーティングされた厚みのあるジャケットで、写真はアルフレッド・ライオン夫人がモデルをつとめたものだ。クローズ・アップの顔がタイトルにぴったりだ。裏には以前の持ち主のゴム印が押してあった。ジャケットから重量感のある盤を抜き出した。
「どっしりと重いね。オリジナルじゃないけどいい盤だよ」
ドラムとべースでラテン風のリズムを刻むイントロが長く続き、満を持したかのようにジーン・ハリスのピアノが得意満面といった感じで入る。ちょっと変わった演りかたの『ラヴ・フォー・セール』だ。
「ノイズがないじゃん。いいね。持ってないと言ってたのを憶えてくれてたんだね。ありがとうヤッサン」
ヒゲ村は友達に礼を言った。
安岡は少し照れたような顔をして、寝ているディックの所に行った。
「肝心のおまえのお土産を忘れちゃったよ。夏原さんに可愛がってもらって良かったな」
猫は我関せずで、撫でてくれる安岡をしばし薄目で見た後また寝入った。
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