The Latin Bit (Blue Note)・GRANT GREEN
コーヒーを飲みながら、先程から一言も発せず浮かぬ顔をしている北見がいた。
「どうしたのよ、北見くん」
世話をする野良猫の受難の顛末を夏原に話していたスミちゃんが、かぶりを振って言葉をかけた。
「悔しいんです。ネット・オークションで欲しかったものが締め切り寸前で競り負けちゃったんです」
やっと口を開いた。
「何を競ってたの」
「レコードじゃないですよ、アトム。鉄腕アトムのブリキのおもちゃです。空を飛んでる形が気に入ったので入札してたんですが、やられちゃいました」
「そんな趣味があったとはね」
夏原は意外な顔をした。
「マスターにとっちゃ懐かしいブリキのおもちゃでしょうけど、ぼくらの世代では逆に新鮮さを感じるんです。LPレコードを求める心理と同じかもしれないです」
「先端技術を使って昔のものを売り買いするところなんか、面白いよね」
「わたしの友達もネット・オークションにはまっているのがいるわ。たしかに個人間の売買では、ちょっと前までこんな手だてはなかったから便利には違いないわね」
「その反面、世の中にだぶついている品物がこんなかたちで流通すると、ますます物が売れなくなってくるということだ」
「そういうことです。一番恩恵を受けるのは宅配屋です」
「インターネットが普及すると広告もだめになるし。テレビ・コマーシャルでも最近は必ず例の検索のパターンで終わるよね」
「北見くん、また同じようなのが出るからその時ゲットすればいいじゃない」
「気分を変えてこんなの聴いてみる」
レコードを取り出してきた夏原がジャケットを北見に見せた。グラント・グリーンの『ラテン・ビット』だ。ラテン風の衣装を着せられ、はにかんだグラント・グリーンが少しぎこちなく見える。いくつかの恍惚とした表情のジャケット写真のものを見慣れている目にはちょっと異質かもしれない。
「これは知らなかったです」
ラテン音楽も好きだという北見は興味を持った。『マンボ・イン』が始まった瞬間、いきなりラテン・リズムの波が押し寄せて来る。聴きながらそれぞれが音の波に乗ってサーフィンする。小難しいことはさておいて理屈抜きに愉しい。北見がにこやかな顔になっている。苦行僧のような表情で聴くジャズだけがジャズではない。
「やっばり鬱屈してる時は、ラテンに限るわね」
『ベサメ・ムーチョ』、『ママ・アイネズ』と続くラテン・リズムのうねりは容赦なく押し寄せる。スミちゃんの上体は揺れまくっていた。
「マスター、B面もやってよ」
乗り乗りのスミちゃんがリクエストした。横の北見も頷いて同調した。
「よし、今日はラテン・デーでいくか」
夏原はつい自分も浮き浮きとした声になっているのに気がついていた。B面の1曲目、ラテンの名曲『ブラジル』のリズムに乗って早くも次のレコードを探しに行った。
「マスターもやはり人の子ね」
その動作を見やりながら、スミちゃんは破顔した。一枚のレコードで場が一転した。まるで舞台の場面がガラッと変わるように。
夏原がアート・ペッパーの『ムーチョ・カラー』を手にして戻ってきた。
「これもいいんだ」
そこで北見が口をもぐもぐさせていたが、意を決してはにかんだ表情を浮かべて言った。
「マスターがこれがいいよと言った日の一月十日がラテン記念日」
「サラダ記念日のパロディだけど、なかなかいいじゃん、北見くん」
スミちゃんの褒め言葉に、悪い気がするはずもない北見だった。
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