Chelsea Bridge (East Wind)・AL HAIG
猫が器用に橋を渡って行った。
いや、本来は橋ではない。水道かガスか知らないが、K橋に並行して架設されている大きな管を猫たちは橋として何食わぬ顔で渡って行く。管だから当然平面ではない。下はそこそこ幅のある運河なので、足を滑らせてしまえば自力で河岸に辿り着くのは難しいだろう。人の通る安全な橋を渡ればいいのにと、夏原はいつも思う。
「おっ」
さっき渡った猫が戻ろうと橋に足をのせようとしたら、丁度もう一方の方から別の猫も渡ろうとしていた。途中ですれ違うことはできない。どうするのかと様子を見ていると、双方の猫はお互い前方を窺っていたが、戻ろうとしていた猫の方が退いた。後からきたブチ猫が渡りきった。その後戻ろうとしていた方の茶猫が渡るのかと思ったが、なぜか渡るのを止めてしまった。
「マスター、お客さんが来てるわよ」
スミちゃんが呼びにきた。
「あっ、悪いね。暇だったから猫を観察してたんだ」
夏原の店から猫の橋までは、ほんの10メートルくらいしか離れていない。常連の客なら呼びに来るのだが初めての客の時は今日のように待たすことになってしまう。
「ますます暇な店になっちゃうじゃない」
返す言葉がなかった。
背広にネクタイ姿の中年の男性が立っていた。夏原が戻ると軽く会釈をした。その足元に大きな旅行バッグが置いてあった。
「カウンターへどうぞ。ご旅行ですか」
「ええ、ぜひ寄ってみたかったものですから。呼んでも応答はないし、まさか寝ている猫に訊くわけにもいきませんしね。そこに丁度彼女がいらっしゃったので助かりました」
「それは失礼しました。どちらからいらっしゃいました」
「沖縄です。この後帰る予定です。ここなら羽田へのアクセスもいいし最後に寄るにはもってこいです」
スミちゃんが「だからいったじゃない」って顔をした。そうはいっても客待ち商売で暇すぎる時は気分転換が必要だってことが、スミちゃんには分かってないんじゃないかと夏原は思った。
「おいしいコーヒーだ。ジャズ喫茶のコーヒーとは思えない。いや、これは失礼しました」
一口味わうと、当初の緊張した顔つきを一変させて初めての客は人なつこく破顔した。
「遠いところから折角いらっしゃったんだから、お好きなレコードをかけてもらったらどうですか」
「いいですかねぇ」
スミちゃんの勧めに、はにかんだ表情をカウンターの向こうに向けると、夏原が頷き返した。
「じゃ、お言葉に甘えて。アル・ヘイグの『チェルシー・ブリッジ』をお願いできますか」
夏原がレコード棚に行こうとするとそれを制して、客はバッグからレコードを取り出して両手を添えて手渡した。
「実は今日一日レコード屋めぐりに時間をあてていたんです。以前から探していたんです。でも沖縄じゃなかなか見
つからなくて。やっと探し当てました。この頃のヘイグは都会の憂愁感がよくでていて好きなんです。切れ味が鋭い若い頃よりも、熟成されたワインの趣きがあるこちらが私の好みです。こんないいお店で聴けるなんて最高に嬉しいし、いい思い出です。家へ帰ったら息子に自慢しなくちゃ」
満面の笑みで堰を切ったように話したが、夏原の手を経てそれがかかり始めると、頬杖をついて頭を少し傾げ感慨のこもった表情で聴き入った。一音も聴きもらすものかといった風情だ。
夏原はスミちゃんと思わず顔を見合わせた。可笑しくもあったが笑っちゃいけない。これこそジャズ喫茶冥利に尽きる時なのだから。
「ともすると忘れかけていたことをこの客が目覚めさせてくれた」
夏原は心のなかで思った。
「こんなふうに素直に喜んでもらうために今までやってきたんだ」
静かに聴き入る客を夏原はさりげなく見つめていた。
無断で、複製・転載等禁止
◎写真+小説「ニューヨーク模様」と「前田義昭という名の写真人の独白」も、あわせてご覧ください。