ひろのギターで息抜き

趣味のギターで息抜きしてジャンジャン鳴らしてます!

天皇、皇后両陛下 出会いから現在まで ともに歩んだ60年

2019-04-29 17:16:56 | 日記
皇室

天皇、皇后両陛下 出会いから現在まで ともに歩んだ60年

 
東宮御所の庭を散策される天皇、皇后両陛下=1984年4月9日(代表撮影)

 天皇、皇后両陛下は10日、結婚60年を迎えられた。象徴のあり方を求めて行動してきた天皇陛下と、支え続けてきた皇后さま。30日の陛下の退位を節目に、公務から離れ、夫婦の時間を過ごす。出会いからこれまでを友人の証言や両陛下の家族に関する発言で振り返った。【高島博之】

 
 
日記の前で思いを語る天皇、皇后両陛下のテニス仲間の織田和雄さん=東京都目黒区で2019年3月14日、尾籠章裕撮影

電話取り次ぎ、繰り返し 二人をつないだ・織田和雄さん(83)

 天皇陛下の学習院中・高等科・大学で2年後輩の織田和雄さん(83)は、結婚前の陛下と皇后さまの電話や手紙をつなぐ「キューピッド役」だった。交流を続ける織田さんに、両陛下の出会いからプロポーズの経緯、皇居・御所での日常生活を聞いた。

<テニスコートの出会い>

 両陛下は1957年8月19日、長野県軽井沢町のテニスコートでダブルスの対戦相手として出会った。観戦した織田さんは日記に「チャブ正田対戦」と記した。「チャブ」は当時、陛下に親しい友人から付けられていたニックネームで、「正田」は皇后さまの旧姓だ。

 ◆試合は皇后さまのペアが勝ち、陛下は皇后さまについて「あんなに正確に返ってきたらかなわないね」と、明るい表情で話されました。皇后さまのことが強く印象付けられたようでした。その後、両陛下は東京都調布市などで一緒にテニスを楽しまれるようになりました。58年8月10日、私は軽井沢のテニスコートで陛下と妹の清宮(すがのみや)さま(島津貴子さん)、皇后さまとテニスをした後、陛下の提案で近くの喫茶店に入りました。陛下の声はとても弾んでいるようで、お二人の関係がうまくいけばよいと願っていました。

 
軽井沢のテニスコートでゲームを観戦する結婚前の天皇陛下と皇后さま=長野県軽井沢町で1958年8月9日、鈴木茂雄撮影

<電話でのやりとり>

 宮内庁が編さんした「昭和天皇実録」の同年8月15日の記述には、昭和天皇が両陛下の「結婚の話を進めることをお許しになる」とある。しかし、正田家は結婚の申し入れに驚き固辞した。お妃(きさき)候補であることがマスコミに知られていた皇后さまは、混乱を避けるため、9月3日~10月26日に欧米旅行へと出かけた。

 ◆皇后さまが旅行から帰国した翌日の27日午後、陛下から電話がありました。「正田さんに電話をかけて、僕に電話をしてくれるよう伝えてほしい」と頼まれたので、皇后さまに伝えました。28日は当時の住まいだった東宮仮御所(東京都渋谷区)で陛下から「正田美智子さんを皇太子妃に迎えたいので、電話の取り次ぎを頼みたい」と依頼されました。日記には「本心を聞く」と書きました。その後も陛下から電話があると、皇后さまに連絡し、陛下に電話をかけていただくようお願いすることを繰り返しました。陛下が正田家に電話すると、ご家族が驚くだろうと配慮されたと思います。

<結婚へ>

 陛下は11月8日、東宮仮御所を訪ねた織田さんに苦しい胸の内を明かした。

 ◆応接間で二人きりになると、陛下は「なかなかうまくいかないんだ」と話されました。私が「世間では、柳行李(ごうり)一つで来てくださいと言うことがあるようです」と話すと、「美智子さんに電話を入れてくれませんか」と言われ、隣の書斎から電話し、陛下と代わりました。約1時間後、応接間に戻ってきた陛下は紅潮した表情で「話しちゃったよ」とおっしゃいました。うまくいったと感じました。59年4月10日に結婚された時は、心から良かったと思いました。

<プロポーズの真実>

 織田さんは、陛下が皇后さまに「柳行李」の話をしていたと思い、結婚が決まってからマスコミの取材にそのことを伝え、プロポーズの言葉として広まった。しかし、異なる真実があったことが後になって分かる。

 ◆93年1月23日夜、両陛下から電話があってさまざまな話をするなか、皇后さまは柳行李の話は事実でなく「悲しい」とおっしゃいました。陛下は58年11月8日の電話で「公的立場を守らねばならぬから、守りきれないかもしれない」と伝えられたとのことでした。皇后さまはその言葉に「心を動かされ、自分が行かねばならないと思うようになった」とおっしゃいました。「(陛下から)イエスと言ってくださいと強く言われ、イエスとなりました」と明かされたのです。陛下が誠実に自分の立場を伝えたからこそ、皇后さまの心に思いが届いたのだと分かりました。

<温かな家庭>

 両陛下は公務を離れた日常生活でも仲むつまじく、互いを気遣いあって暮らしている。

 ◆十数年前に御所を訪ねた時、皇后さまがカーテンを開けて庭の花を見せてくださいました。皇后さまは「とてもいいでしょう。陛下が好きなお花を植えたらいいと言ってくださって」と笑顔を見せられ、陛下は照れくさそうにされていました。温かい雰囲気で、本当に仲が良いのだと感じました。退位されたら、お二人の時間を大切にされ、夏は軽井沢で友人たちとテニスを楽しんでいただきたいです。その時は私も喜んでお相手します。


 ■過去のご発言

<天皇陛下>

◇結婚25年

 家庭という身近なものの気持ちを十分に理解するということによって、初めて遠いところにある国民の気持ちを実感として理解できるのではないかと思っています(1984年4月6日の会見)

◇60歳を控え

 温かみのある日々の生活により、幸せを得たばかりでなく、結婚を通して自分を高めたように感じています(93年12月20日の会見)

◇66歳に合わせ

 私と皇后は、子供を手元で育てるという、前の時代には考えられなかった恵まれた機会を持つことができました(99年12月23日の文書回答)

 
東宮御所で乳母車を押して散策されるご一家=1969年9月(宮内庁提供)

◇結婚50年

 皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します(2009年4月8日の会見)

<皇后さま>

◇即位に合わせ

 陛下が、今までにも増して重い責務を果たしていらっしゃるのですから、日々のお疲れをいやす安らぎのある家庭を作っていきたいと願っています(1989年8月4日の会見)

◇結婚を控えた長女紀宮さま

(黒田清子(さやこ)さん)について

 「贈る言葉」は特に考えていません。その日の朝、心に浮かぶことを清子に告げたいと思いますが、私の母がそうであったように、私も何も言えないかもしれません(2005年10月20日の文書回答)

◇結婚50年

 陛下が誠実で謙虚な方でいらっしゃり、また常に寛容でいらしたことが、私がおそばで50年を過ごしてこられた何よりの支えであったと思います(09年4月8日の会見)

◇77歳に合わせ、4人の孫について

 私にとり皆可愛く大切な孫たちです。会いに来てくれるのが楽しみで、一緒に過ごせる時間を、これからも大切にしていくつもりです(11年10月20日の文書回答)


天皇、皇后両陛下の出会いから結婚60年までの主な出来事

1957年 8月19日 長野県軽井沢町のテニスコートで出会う

  58年11月 8日 天皇陛下が皇后さまに電話でプロポーズ

        27日 皇室会議で結婚が決定

  59年 4月10日 結婚の儀。東京都内をパレード

  60年 2月23日 長男の皇太子さま誕生

      9月22日 日米修好100周年を記念し米国訪問。ご夫妻で初の外国訪問

    ~10月 7日

  65年11月30日 次男の秋篠宮さま誕生

  69年 4月18日 長女の紀宮さま(黒田清子さん)誕生

  75年 7月17  沖縄国際海洋博覧会開会式出席のため、初めて沖縄県を訪問

       ~19日

  89年 1月 7日 昭和天皇が逝去。天皇陛下が即位

  90年 6月29日 秋篠宮さまと紀子さまが結婚

     11月12日 即位礼正殿の儀

  91年 7月10日 雲仙・普賢岳の噴火災害の見舞いで長崎県を訪問

     10月23日 初孫となる秋篠宮ご夫妻の長女眞子さま誕生

  92年10月23  日中国交正常化20周年に合わせ中国訪問

       ~28日

  93年 6月 9日 皇太子さまと雅子さまが結婚

      7月27日 北海道南西沖地震の見舞いで北海道・奥尻島などを訪問

     10月20日 皇后さまが59歳の誕生日に倒れる

  94年 2月12  東京都・小笠原諸島訪問。硫黄島では戦没者慰霊

       ~14日

     12月29日 秋篠宮ご夫妻の次女佳子さま誕生

  95年 1月31日 阪神大震災の見舞いで兵庫県訪問

      6月27日 天皇陛下が大腸ポリープ摘出手術を受ける

       7~8月 戦後50年で、長崎、広島、沖縄3県と東京都慰霊堂を訪問

2000年 6月16日 香淳皇后が逝去

  01年12月 1日 皇太子ご夫妻の長女愛子さま誕生

  03年 1月18日 天皇陛下が前立腺がんの手術を受ける

  04年11月 6日 中越地震の見舞いで新潟県訪問

  05年 6月27、 戦後60年で、米自治領サイパン島で戦没者慰霊

        28日

     11月15日 紀宮さまが黒田慶樹さんと結婚

  06年 9月 6日 秋篠宮ご夫妻の長男悠仁さま誕生

  07年 8月 8日 中越沖地震の見舞いで新潟県訪問

  11年 3月16日 東日本大震災を受け、天皇陛下がビデオメッセージを公表

       3~5月 7週連続で1都6県の避難所などを訪問

  12年 2月18日 天皇陛下が心臓バイパス手術を受ける

      3月11日 東日本大震災1周年追悼式に出席

  13年10月27日 熊本県で「水俣病慰霊の碑」に供花

     12月23日 天皇陛下が80歳の傘寿

  14年10月20日 皇后さまが80歳の傘寿

  15年 4月8、  戦後70年でパラオで戦没者慰霊

         9日

  16年 1月26  フィリピン訪問に合わせて戦没者慰霊

       ~30日

      8月 8日 天皇陛下が退位の意向がにじむビデオメッセージを公表

  17年 2月28日 ベトナムとタイを訪問。在位中最後の外国訪問

      ~3月6日

     11月16  鹿児島県を訪問。即位後、全都道府県を2巡した

       ~18日

  18年 9月    西日本豪雨の見舞いで岡山、愛媛、広島3県を訪問

     11月15日 北海道胆振(いぶり)東部地震の見舞いで北海道を訪問

  19年 2月24日 天皇陛下の在位30年記念式典

      4月10日 結婚60年


両陛下 普賢岳被災地訪問 励ます姿 今も忘れない

2019-04-29 12:59:19 | 日記

 

両陛下 普賢岳被災地訪問 励ます姿 今も忘れない

  •  

 天皇陛下が30日退位し、30年4カ月の「平成」の時代が幕を下ろす。憲法が定める「象徴」として被災者や障害者らに寄り添ってきた姿は「平成流」と呼ばれ、感謝の念を抱いている国民も少なくない。雲仙・普賢岳噴火災害で「ひげの市長」として知られた元島原市長、鐘ケ江管一さん(88)もその一人。天皇、皇后両陛下が被災地を訪れ住民を励まされたことを振り返り、「人生で最も感謝、感激した。日本に生まれて良かったと心から思った」と話す。
 1990(平成2)年11月17日、普賢岳は198年ぶりに噴火。間もなく活動は低下したが翌91年2月に再び噴火し、6月3日には大火砕流が発生。消防団員ら43人が犠牲になった。住民は体育館や仮設住宅などでの避難生活を余儀なくされ、心身ともに疲れ果てていた。
 大火砕流から約1カ月後の7月6日、鐘ケ江さんは高田勇知事(当時)から天皇、皇后両陛下の来訪を電話で伝えられた。災害のさなかに天皇が現地に足を運ぶのは戦後初めてで、最初は「こんなひどい時に来るはずがない」と信じられなかった。「宮内庁も危険だと止めたらしいが、どうしても、という陛下の強いお気持ちがあったようだ」と明かす。
 7月10日、両陛下は被災地を訪問。日程は日帰り、側近の同行者は通常の4分の1程度の5人だけ。地元に負担を掛けないようにとの配慮が感じられた。
 島原市の霊丘公園の仮設住宅では、天皇陛下は背広を脱ぎネクタイも外した姿で現れた。シャツの袖をまくり、被災者に気さくに話し掛けられた。多くの被災者が寝泊まりする市内3カ所の体育館でも、両陛下は畳に座る被災者と同じ高さの目線になるよう床に膝をつき、「大変でしたね」「頑張ってください」などとねぎらいの言葉を掛けられた。侍従が「時間がない」と言うのも聞かずに被災者と向き合い、夏の強烈な暑さでしたたる汗をぬぐおうともされなかった。
 無用な緊張を与えないようにしようとの心遣いを鐘ケ江さんは感じた。「『なぜ自分たちだけが…』と絶望する被災者の空気が、両陛下の訪問でがらっと変わり、生きる勇気と希望を与えてくれた。当時のお二人の姿は今でも忘れない」と話す。
 これ以降、両陛下は地震や豪雨などの被災地を何度も訪れた。鐘ケ江さんは「国民と誠心誠意向き合う姿を見ていると、日本に生まれて幸せだと感じる。30年もの長きにわたり国民を見守っていただいたことに感謝したい」と述べた。

  • 災害が起きてからわずか38日目に、島原の被災者を訪問
    出典:文春オンライン 4/10(水)
     

「旭日旗を拒否せぬ中国」に韓国メディアが大慌て

2019-04-29 12:42:04 | 日記

 4月23日から山東省・青島港で開かれた「中国人民解放軍海軍創設70周年記念国際観艦式」のニュースは韓国でも少なからず話題になっている。特に、旭日旗を掲揚したまま中国に入港した日本の海上自衛隊の護衛艦「すずつき」の姿は、「日中の急接近」の象徴として、厳重に受け止められている。

 一方の韓国では、昨年の10月、済州島で開かれた国際観艦式で、文在寅(ムン・ジェイン)韓国政府が日本の海上自衛隊の旭日旗掲揚問題をめぐってもめにもめた末、日本側から参加をボイコットされるという前歴がある。

 それなのに、歴史問題において「味方」だと思い込んでいた中国の習近平政府が、自国の国際観艦に旭日旗を容認したのだ。これは文在寅政権にとって衝撃だった。今、韓国マスコミでは「日中密着」に対する警戒心とともに、「韓国だけがアジアで孤立するのではないか」と憂慮の声が高まっている。

■ 「文在寅政権に対して日米が不信を表わすのも無理はない」

 保守系中央日刊紙「中央日報」は、『日中、北露の活発な接近は、果たして他人事なのか』(4月22日付)という社説で、急変している北東アジア情勢において、韓国だけが外交的に孤立する恐れがあると警告した。以下、内容の一部を紹介する。

 「中国は23日、青島で開かれる海軍創設70周年記念観艦式に旭日旗を掲揚した日本自衛隊の護衛艦を受け入れるという。(中略)『米国が意に介さないのに、同じ戦勝国の中国がなぜ(旭日旗に)敏感なのか』という反応が出るほど、中国内の対日感情が好転されたおかげだ。

 しかし、韓国政府は昨年10月、済州国際観艦式の時、旭日旗掲揚を許さず、結局日本艦艇は参加を見送った。韓国が過去に縛られていたのに対して、中国はこれ(過去)を克服する姿を見せたわけだ。このような状況が繰り返される限り、日本が中国ではなく韓国と未来をともに考えるわけがない」

 「最近、目まぐるしく動いている朝鮮半島周辺情勢下で、韓国が決して見逃してはならないことがある。昨年、安倍晋三総理の中国訪問で象徴される日中間の驚くべき和解の速度だ」

 「新たに近づくのは日中だけではない。24・25日に決まった北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長とプーチン・ロシア大統領間の首脳会談を通じて、ギクシャクしていた北露関係を新しく構築するに違いない」

 「韓国はどうなのか。韓国は友好国との関係を改善するどころか、伝統的な韓日米のトライアングル安保体制からも切り離されている。文在寅政権に対して日米が不信を表わすのも無理はない。だから韓米同盟が崩れつつある中、日米間の軍事協力は日増しに強固にならざるを得ない」

懸念を表明するのは「中央日報」だけではない。やはり保守系日刊紙「文化日報」も、4月24日の紙面に『旭日旗を揚げた日本艦艇の入港を許可した中国・・・文政権は何も感じないのか』という社説を掲載した。

 同紙は、「旭日旗を揚げた日本艦艇の中国入港は、国益と未来を重んじる外交とはどういうものか象徴的に示す」とし、中国政府と日本政府の実利外交が両国の歴史を克服した、と分析している。

■ 日中接近に不安隠せぬ韓国メディア

 また、「『旭日旗観艦式』を許容した習近平中国主席を、プライドがない人物と思っているのか。韓国の安保と経済、未来の発展のためにも文政権は、対日外交をどうするべきかを熟慮しなければいけない」と、文在寅政権の対日外交の姿勢を辛らつに非難した。

 ほかにも、『なぜ、文政権には中日のような実利外交が見えないか』(4月22日付の「ソウル経済新聞」社説)、『中日蜜月が加速・・・旭日旗を揚げた自衛隊護衛艦が中国の観艦式へ参加』(4月22日付の「朝鮮日報記事」)、『中国の国際観艦式に旭日旗をつけて出席した日本護衛艦・・・中国は旭日旗も知らないのか?』(4月22日付の「トップスターニュース」記事)、『日本艦艇、中国の観艦式に旭日旗つけて参加、「韓国に圧力?  それとも中国の日本無視?」』(4月22日付けの「ヘラルド経済新聞」記事)、『中国、観艦式に旭日旗許容・・・「戦犯旗の通用を懸念」』(4月22日の「OBSニュース」)、『「中国夢」のため? ・・・「日本の旭日旗」まで我慢するのか』(4月23日の「MBCニュース」)などなど、韓国マスコミは、日中の急接近に対する不安を隠せなかった。

 一方、韓国社会では相変わらず旭日旗をめぐる尖がった反応が続いている。4月26日、ネット媒体の「アイ・ニュース24」は、『趙源泰(チョ・ウォンテ)韓進グループ会長、デビュー写真で旭日旗論議・・・「航空機エンジン」と反論』という記事を掲載した。

■ ファン・ブレードで「旭日旗を連想」

 今年4月8日に死亡した趙亮鎬(チョ・ヤンホ)大韓航空会長の後任となった趙源泰会長側がマスコミに配布したプロフィール写真に「旭日旗を思わせる背景がある」との議論が提起されている、という内容だ。ところが、議論になっている写真をみると、単なる飛行機エンジンのファン・ブレードを背景にした趙会場の正面バストショットだ。飛行機エンジンのファン・ブレードで旭日旗を連想するというのは、どう考えても無理やりな気がする。

 「平和ニュース」というフェブ新聞は3月18日、『慶州・普門(ボムン)団地に旭日旗登場で相次ぐ抗議・・・ドラマ撮影用のハプニング』という記事を掲載した。その記事によると、有名観光スポットである慶尚北道慶州市にある普門団地に旭日旗と日本帝国主義を称賛する垂れ幕が掲げられている写真がSNS上で拡散、騒ぎが起きたという。ところが、所管地域の観光庁が調査した結果、垂れ幕はドラマ撮影用の小道具だった。しかし市民からは、「案内文もなしに旭日旗を掲げたのは不適切だ」「気持ち悪い」との非難が続き、観光公社側が「市民を驚かせて申し訳ない」と謝罪したという。

 日本のNHKにあたる韓国の国営放送「KBS」では、旭日旗が消されることもあった。毎週土曜日に放送される『映画が好き』という映画情報番組は、2月23日、映画に登場した旭日旗を消して放送した。この日紹介された映画『自転車王オム・ボクトン』は、日本帝国主義時代に日本が主催した自転車大会で日本選手を破って優勝したオム・ボクトンという実存の人物を描いた映画だ。映画のハイライトにあたる自転車でのレースシーンに登場する競技場にはいくつもの旭日旗が飾られていたが、KBSは視聴者の感情に考慮して、映画の中の旭日旗をすべて消して放送したのだ。

 去年の10月、済州島観艦式直後、韓国国会ではいわゆる「旭日旗掲揚禁止法」という法案が発議されたこともある。国会副議長も歴任した「共に民衆党」の李錫玄(イ・ソクヒョン)議員が発議した「旭日旗など日本帝国主義シンボルの使用を禁止する法案」は、「旭日旗を掲揚した船舶の韓国領海通過禁止、旭日旗を付着した航空機の運航禁止、そして旭日旗などの日本帝国主義のシンボルを所持したり、流布したりした者に対して2年以下の懲役と3000万ウォン以上の罰金の賦課」などの内容が含まれている。

 ただ、韓国マスコミによると、この法案は韓国外交部が「韓日関係に悪影響を及ぼしかねない」と反対しているため、6カ月間も国会で漂流中だという。

 旭日旗をめぐるドンチャン騒ぎ、韓国ではまだまだ続きそうだ。

李 正宣


先進国で最悪レベル…。7人に1人の子どもが貧困状態な日本。 勉強する機会を奪われた子どもたちの現実とは?

2019-04-29 12:35:57 | 日記

 

 

先進国で最悪レベル…。7人に1人の子どもが貧困状態な日本。
勉強する機会を奪われた子どもたちの現実とは?

<PR>

2人きょうだいの長女。
中学に通うかえでさん(仮名)の生活


2人きょうだいの長女として生まれたかえでさん。
両親は離婚し、お兄さんは成人する前に家を出てしまったため、今はお母さんと2人で暮らしています。 

かえでさんの両親が離婚したのは、今から7年前、小学校5年生のことでした。

かえでさんのお母さんは、病気を患っているため満足に仕事ができず、 2人の生活は経済的にとても厳しい状態です。

また、お母さんは病気のため、家での食事を毎日作ることはできませんでした。

学校が長い休みに入ると、給食が食べれず、かえでさんはお腹を空かせていることも多かったそう。
食生活は不規則で、冷蔵庫に入っているお豆腐や納豆だけを食べていた時期もあるようです。

不規則な食生活のせいか、集中力も散漫になり、次第に学校の勉強もついていけなくなりました。
家で、お母さんと言い合いすることも増えてしまいました。

「学校に行っても、勉強についていけない・・・」
「家にいても、居場所がない・・・」


勉強がわからなくなってしまい自分に自信が無くなっていき、 将来に希望を持つようなこともなくなっていきました。



かえでさんが出会った放課後学校


そんな中、かえでさんのお家のポストに、ある案内が届きました。
それは、NPO法人が運営する無料で通える『放課後学校』の案内でした。

不安はありましたが、休みの間も毎日ご飯が食べられること、一人ひとりに寄り添って勉強を教えてくれるところに惹かれ、 かえでさんはその放課後学校へ通い始めました。

放課後学校に行ってみると、自分と似たような環境で育ち、同じ悩みを持つ中学生がたくさんいました。
親身になって話を聞いてくれる、NPOスタッフやボランティアのお兄さん、お姉さんもいました。
毎日の夕食が本当に楽しみで、バランス良く栄養を取れるようになったことで、元気や、やる気が出てきたそうです。

その夕食の調理も、率先して手伝っていて、かえでさんは自宅でも料理をするようになりました。
今ではオムライスが得意料理になり、かえでさんがお母さんに夕食をふるまうこともあるそうです。 



勉強も学校もあきらめかけていたけれど、放課後学校ではお兄さんお姉さんが教えてくれたり、応援してくれる。
勉強が楽しくなった彼女は、毎日のように自習室に通い、遅れていた分も取り戻すことができました。 

放課後学校に通うようになり、料理が好きなことに気付いたかえでさん。

「栄養士の資格をとりたい」という目標ができました。
目標ができたことで、勉強に対してもより気持ちが入るようになりました。

今は、学費が高くない公立の専門学校で「食品科」があるところを目指して、日々頑張っています。

安らぎと明日への力を得る『第3の場所』


かえでさんが通っている、放課後学校。
週6日、平日の夕方と、休日の日中の時間帯に子どもたちを迎えています。
運営しているのは、認定NPO法人カタリバというNPO団体です。

写真この放課後学校の1つで施設長を務めているのが、カタリバ職員の堀井勇太さん。
実は堀井さん自身も、母子家庭で育ったそうです。

だからこそ放課後学校へやってくる生徒たちが抱えている状況や悩みを、 自分のことのように理解することができる、と堀井さんは語ります。

そんな堀井さんの経歴ですが、飲食業界を経て、デザイン、インテリア関連のクリエイティブ業界など異色業種から 2009年にNPOカタリバへ転職されています。
様々なことを意欲的に学び、自らスキルを身に付け、今の仕事に至りました。

「自分が今、どうして充実した生活を送れているのか。」

それは、お母様の賢明な支えによるところはもちろんのこと、親戚、近所の人など"様々な生き方をする大人との関わり"があり、 そこから得たものがとても多かったからだそうです。
ただ、それらは自分で意識的に求めていったものではなく、幸運なことに「そこにあった」環境でした。 「自分は本当にラッキーだった」堀井さんは、そう思っています。

子どもたちの中には、家庭内の信頼関係さえ危うい子もいます。

「鍋って本当にみんなで食べるものなんだ。ドラマとかで見たことあるけど」

放課後学校の夕飯で、鍋を食べたときに、そんな呟きを堀井さんは耳にしたそうです。
だからこそ家庭以外の周囲が目を配り、子どもたちをみんなでサポートしていくことが大切だと、 堀井さんは確信して日々活動を続けているのです。

30秒で終わる「カタリバ」の活動に関するアンケートに答えて、
無料でできる支援に参加しよう!(参加者8万人以上!)




紹介したかえでさんの日常のように、『住むところはあって、毎日食べるものに困るほどではない』
しかし、子どもたち自身ではどうすることもできない家庭環境などの問題を抱え、自分の将来に希望を持てない子どもたちがいる…。

それが先進国である、日本の現状なのです。

そんな子どもたちを支援している、認定NPO法人カタリバさん。

今なら、30秒で終わる3問のアンケートに答えていただくだけで、10円の支援金がカタリバさんに届けられます。

支援にかかる費用は、サポーター企業が負担するため、あなたに費用はかかりません!

2018年5月に始めたこの取り組み。
2019年1月末時点で、なんと8万人を超える方が参加してくださり、852,470円の支援金をカタリバさんにお届けできたのです!

「子どもたちを応援したい!」

もしあなたがそうお思いなら、アンケートに答えて支援に参加してみませんか? 

>>アンケートに答えて支援する<<
情報提供:認定NPO法人カタリバ

※子どもたちのプライバシーを守るため、実際にカタリバが接している子どもたちの事例から、一部内容を変えて掲載しています。

(※)gooddo(グッドゥ)とは?
gooddoは「社会貢献をもっと身近な存在にしていく」ことを目指し、2013年よりサービスを開始した社会貢献プラットフォームです。
趣旨に賛同いただける企業様からのサポートのもと、多くの方に無料で簡単にできる社会貢献の手段を提供し、今までに、1億6,000万円を超える支援金を社会貢献活動に届けてきました。