誤解を恐れずにいえば、「不言実行」はズルい男のやることだ。本田圭佑(32才)はいつも「有言実行」だった。時に“ビッグマウス”と呼ばれても、まず壮大な目標を口にして、厳しく自分を追い込み、失敗することがあっても再び立ち上がって目標を語り、さらに自分を追い込む。そして、結果を出す。だから、彼の姿は大きな感動を呼ぶ。
サッカーW杯の長い歴史の中で、3大会連続でゴールとアシストの両方を記録した選手は、5人しかいなかった。イギリスの“貴公子”デビッド・ベッカム(43才)ら名だたるスタープレーヤーたちに今大会で肩を並べた「6人目」が、本田圭佑選手だ。
連日、熱戦が繰り広げられるW杯ロシア大会(6月14日~7月15日)。本田は6月19日のコロンビア戦で勝ち越しゴールをアシストすると、24日のセネガル戦では絶体絶命のピンチから同点に追いつくゴールを決めた。
「ぼくは叩かれるのに感謝して楽しんでる部分もあるんですけど、(チームメートには)そうじゃない人もたくさんいるから。そこの上げ下げを楽しむのはぼくだけにしておいてほしいと思います」
セネガル戦後、前評判を覆す大躍進について、本田はそう話していた。だが、大会前の状況は最悪だった。親善試合で結果が出せなかったバヒド・ハリルホジッチ監督(66才)が大会2か月前に解任された。
「監督の戦術に疑問を唱える声が選手からあがり、解任につながりました。特に本田のプレースタイルは監督の求めるものとまったく違っていた。代表落ちも囁かれていただけに、解任劇を首謀したとされています。“自分が代表入りするために、監督を『告発』した”とさえ揶揄する人もいます」(スポーツ紙記者)
急遽指揮を執ることになった西野朗監督(63才)のもとで、本田はメンバーに滑り込むも、世間では「本田不要論」が叫ばれた。
《「本田の無理心中で日本惨敗」》。『週刊新潮』(6月21日号)にはそんな見出しが躍り、解説者は軒並み苦戦を予想。本田自身にとっても、先の2試合はスタメンではなく、途中投入の「スーパーサブ」という扱いだ。そんな逆境で、本田は列島を歓喜させる活躍を見せた。
「本田選手、ごめんなさい。あなたがいてくれて本当によかった」
セネガル戦の後、多くの日本のサッカー好きは口々にそう呟いた。
◆出番が回ってこない可能性もあった
本田のサッカー人生は、逆境の連続だった。1986年、大阪で生まれた本田は、幼い頃に両親が離婚し父親に引き取られたため、母親と離れた環境で育った。
「幼い本田にとって、母親のいない寂しさは相当なものだったでしょう。それを紛らわせたのがサッカーでした。3才年上のお兄さんと、毎日暗くなるまでボールを蹴っていたそうです。小学校の卒業アルバムには《必ず世界一になる》と書いているんです。活躍する姿を、お母さんに見せたいというのもあったのかもしれません。父親も指導に熱心で、練習を休んでいると、“今、ブラジルでは選手が練習しているぞ。置いていかれるぞ!”と発破をかけられたそうです。本田の負けん気の強さは、その頃に育まれたんでしょう」(サッカージャーナリスト)
中学時代、本田はガンバ大阪の下部チームに所属していた。だが高校進学時、ガンバ大阪の1つ上のクラスに進むことはできなかった。
「プロチームの指導者が見て判断したわけですから、“サッカー選手としての才能や将来性がない”と、失格の烙印を押されたようなものです。中学生にとっては酷な宣告ですよ。ところが、本田は失意に暮れることなく、地元から遠く離れたサッカーの強豪・星稜高校(石川県)への進学を決めます。 “ここに入ったらおれはのし上がれる”と父親を説得したそうです」(前出・ジャーナリスト)
高校3年生のときには、キャプテンとしてチームを全国高校サッカーベスト4に導き、一度閉じかけたプロサッカー選手への扉を再びこじ開けた。プロ入団後の本田を知る人物が明かす。
「試合はもちろん、練習でもちょっとした遊びでも負けたくない。ある日、ジュースを賭けて練習後に何人かでリフティングゲームをして、本田が負けた。そうしたら何も言わずプイッとその場から立ち去ったんです。先輩たちは“なんだアイツ”ってなってましたけど、ロッカールームに引き揚げたら、勝った選手のロッカーに100円玉が2枚、ちゃんと置かれていました。本田の姿はもうなかったですけどね(笑い)。よっぽど負けを認めたくなかったんでしょう」
2006年に初めて日本代表に選ばれると、2008年には日本を飛び出し、オランダ、ロシアを渡り歩いた。2013年末にはイタリアの超名門・ACミランに移籍した。だが、世界の壁は厚かった。
「思うような活躍ができず、バッシングされることも多かった。プレッシャーをはねのけてきた本田も、さすがにつらい部分もあったようです。しかも、後から後から世界トップレベルの同じポジションの選手がチームメートとしてやってくる。その中で本田は埋もれ、満足に試合に出ることさえできませんでした」(前出・スポーツ紙記者)
W杯を1年後に控えた昨年7月、本田は新天地にメキシコのチームを選んだ。ヨーロッパに比べれば、レベルは格段に低い。
「『都落ち』という言葉に対しては、その通りだと思います。(中略)これは結構誤解してる人いますけど、ほんまに別にいくらでもオファーありました。ヨーロッパから」
今年5月、本田は『プロフェッショナル』(NHK)でそう明かしていた。
「メキシコを選んだのは、チームの本拠地が標高2400mという高地にあるから。年齢的なこともあり、スピードやスタミナの衰えを指摘されていた本田は、日常的に高地で練習していれば、自然と心肺機能が鍛えられるという思惑があったようです」(別のサッカージャーナリスト)
その甲斐あって、今回のW杯でめざましい活躍を見せる本田。だが、本番直前にも彼は逆境にいた。
「攻撃的なポジションの本田が、ある練習の時に守備的な選手の動きに指示を出したことがあったそうです。その時、西野監督は、露骨に厳しい表情を浮かべたそうです。“戦術を決めるのは監督の役目だろう”と。それから、西野監督と本田は“冷戦状態”になった。大会中の本田のスタメン落ちはおろか、出番が回ってこない可能性さえ囁かれました。それでも数少ないチャンスをものにして、本番で大活躍した。むしろ直前の崖っぷちが、彼の爆発のエネルギーになったんじゃないですかね」(前出・スポーツ紙記者)
最近のインタビューで、本田は次のように語っている。
《僕が大事だと思うのは、失敗してどーんと落ちた後に盛り返す力なんですよ。失敗したときにこそ、真価が問われる》
※女性セブン2018年7月12日号