天皇、皇后両陛下 出会いから現在まで ともに歩んだ60年
天皇、皇后両陛下は10日、結婚60年を迎えられた。象徴のあり方を求めて行動してきた天皇陛下と、支え続けてきた皇后さま。30日の陛下の退位を節目に、公務から離れ、夫婦の時間を過ごす。出会いからこれまでを友人の証言や両陛下の家族に関する発言で振り返った。【高島博之】
電話取り次ぎ、繰り返し 二人をつないだ・織田和雄さん(83)
天皇陛下の学習院中・高等科・大学で2年後輩の織田和雄さん(83)は、結婚前の陛下と皇后さまの電話や手紙をつなぐ「キューピッド役」だった。交流を続ける織田さんに、両陛下の出会いからプロポーズの経緯、皇居・御所での日常生活を聞いた。
<テニスコートの出会い>
両陛下は1957年8月19日、長野県軽井沢町のテニスコートでダブルスの対戦相手として出会った。観戦した織田さんは日記に「チャブ正田対戦」と記した。「チャブ」は当時、陛下に親しい友人から付けられていたニックネームで、「正田」は皇后さまの旧姓だ。
◆試合は皇后さまのペアが勝ち、陛下は皇后さまについて「あんなに正確に返ってきたらかなわないね」と、明るい表情で話されました。皇后さまのことが強く印象付けられたようでした。その後、両陛下は東京都調布市などで一緒にテニスを楽しまれるようになりました。58年8月10日、私は軽井沢のテニスコートで陛下と妹の清宮(すがのみや)さま(島津貴子さん)、皇后さまとテニスをした後、陛下の提案で近くの喫茶店に入りました。陛下の声はとても弾んでいるようで、お二人の関係がうまくいけばよいと願っていました。
<電話でのやりとり>
宮内庁が編さんした「昭和天皇実録」の同年8月15日の記述には、昭和天皇が両陛下の「結婚の話を進めることをお許しになる」とある。しかし、正田家は結婚の申し入れに驚き固辞した。お妃(きさき)候補であることがマスコミに知られていた皇后さまは、混乱を避けるため、9月3日~10月26日に欧米旅行へと出かけた。
◆皇后さまが旅行から帰国した翌日の27日午後、陛下から電話がありました。「正田さんに電話をかけて、僕に電話をしてくれるよう伝えてほしい」と頼まれたので、皇后さまに伝えました。28日は当時の住まいだった東宮仮御所(東京都渋谷区)で陛下から「正田美智子さんを皇太子妃に迎えたいので、電話の取り次ぎを頼みたい」と依頼されました。日記には「本心を聞く」と書きました。その後も陛下から電話があると、皇后さまに連絡し、陛下に電話をかけていただくようお願いすることを繰り返しました。陛下が正田家に電話すると、ご家族が驚くだろうと配慮されたと思います。
<結婚へ>
陛下は11月8日、東宮仮御所を訪ねた織田さんに苦しい胸の内を明かした。
◆応接間で二人きりになると、陛下は「なかなかうまくいかないんだ」と話されました。私が「世間では、柳行李(ごうり)一つで来てくださいと言うことがあるようです」と話すと、「美智子さんに電話を入れてくれませんか」と言われ、隣の書斎から電話し、陛下と代わりました。約1時間後、応接間に戻ってきた陛下は紅潮した表情で「話しちゃったよ」とおっしゃいました。うまくいったと感じました。59年4月10日に結婚された時は、心から良かったと思いました。
<プロポーズの真実>
織田さんは、陛下が皇后さまに「柳行李」の話をしていたと思い、結婚が決まってからマスコミの取材にそのことを伝え、プロポーズの言葉として広まった。しかし、異なる真実があったことが後になって分かる。
◆93年1月23日夜、両陛下から電話があってさまざまな話をするなか、皇后さまは柳行李の話は事実でなく「悲しい」とおっしゃいました。陛下は58年11月8日の電話で「公的立場を守らねばならぬから、守りきれないかもしれない」と伝えられたとのことでした。皇后さまはその言葉に「心を動かされ、自分が行かねばならないと思うようになった」とおっしゃいました。「(陛下から)イエスと言ってくださいと強く言われ、イエスとなりました」と明かされたのです。陛下が誠実に自分の立場を伝えたからこそ、皇后さまの心に思いが届いたのだと分かりました。
<温かな家庭>
両陛下は公務を離れた日常生活でも仲むつまじく、互いを気遣いあって暮らしている。
◆十数年前に御所を訪ねた時、皇后さまがカーテンを開けて庭の花を見せてくださいました。皇后さまは「とてもいいでしょう。陛下が好きなお花を植えたらいいと言ってくださって」と笑顔を見せられ、陛下は照れくさそうにされていました。温かい雰囲気で、本当に仲が良いのだと感じました。退位されたら、お二人の時間を大切にされ、夏は軽井沢で友人たちとテニスを楽しんでいただきたいです。その時は私も喜んでお相手します。
■過去のご発言
<天皇陛下>
◇結婚25年
家庭という身近なものの気持ちを十分に理解するということによって、初めて遠いところにある国民の気持ちを実感として理解できるのではないかと思っています(1984年4月6日の会見)
◇60歳を控え
温かみのある日々の生活により、幸せを得たばかりでなく、結婚を通して自分を高めたように感じています(93年12月20日の会見)
◇66歳に合わせ
私と皇后は、子供を手元で育てるという、前の時代には考えられなかった恵まれた機会を持つことができました(99年12月23日の文書回答)
◇結婚50年
皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します(2009年4月8日の会見)
<皇后さま>
◇即位に合わせ
陛下が、今までにも増して重い責務を果たしていらっしゃるのですから、日々のお疲れをいやす安らぎのある家庭を作っていきたいと願っています(1989年8月4日の会見)
◇結婚を控えた長女紀宮さま
(黒田清子(さやこ)さん)について
「贈る言葉」は特に考えていません。その日の朝、心に浮かぶことを清子に告げたいと思いますが、私の母がそうであったように、私も何も言えないかもしれません(2005年10月20日の文書回答)
◇結婚50年
陛下が誠実で謙虚な方でいらっしゃり、また常に寛容でいらしたことが、私がおそばで50年を過ごしてこられた何よりの支えであったと思います(09年4月8日の会見)
◇77歳に合わせ、4人の孫について
私にとり皆可愛く大切な孫たちです。会いに来てくれるのが楽しみで、一緒に過ごせる時間を、これからも大切にしていくつもりです(11年10月20日の文書回答)
天皇、皇后両陛下の出会いから結婚60年までの主な出来事
1957年 8月19日 長野県軽井沢町のテニスコートで出会う
58年11月 8日 天皇陛下が皇后さまに電話でプロポーズ
27日 皇室会議で結婚が決定
59年 4月10日 結婚の儀。東京都内をパレード
60年 2月23日 長男の皇太子さま誕生
9月22日 日米修好100周年を記念し米国訪問。ご夫妻で初の外国訪問
~10月 7日
65年11月30日 次男の秋篠宮さま誕生
69年 4月18日 長女の紀宮さま(黒田清子さん)誕生
75年 7月17 沖縄国際海洋博覧会開会式出席のため、初めて沖縄県を訪問
~19日
89年 1月 7日 昭和天皇が逝去。天皇陛下が即位
90年 6月29日 秋篠宮さまと紀子さまが結婚
11月12日 即位礼正殿の儀
91年 7月10日 雲仙・普賢岳の噴火災害の見舞いで長崎県を訪問
10月23日 初孫となる秋篠宮ご夫妻の長女眞子さま誕生
92年10月23 日中国交正常化20周年に合わせ中国訪問
~28日
93年 6月 9日 皇太子さまと雅子さまが結婚
7月27日 北海道南西沖地震の見舞いで北海道・奥尻島などを訪問
10月20日 皇后さまが59歳の誕生日に倒れる
94年 2月12 東京都・小笠原諸島訪問。硫黄島では戦没者慰霊
~14日
12月29日 秋篠宮ご夫妻の次女佳子さま誕生
95年 1月31日 阪神大震災の見舞いで兵庫県訪問
6月27日 天皇陛下が大腸ポリープ摘出手術を受ける
7~8月 戦後50年で、長崎、広島、沖縄3県と東京都慰霊堂を訪問
2000年 6月16日 香淳皇后が逝去
01年12月 1日 皇太子ご夫妻の長女愛子さま誕生
03年 1月18日 天皇陛下が前立腺がんの手術を受ける
04年11月 6日 中越地震の見舞いで新潟県訪問
05年 6月27、 戦後60年で、米自治領サイパン島で戦没者慰霊
28日
11月15日 紀宮さまが黒田慶樹さんと結婚
06年 9月 6日 秋篠宮ご夫妻の長男悠仁さま誕生
07年 8月 8日 中越沖地震の見舞いで新潟県訪問
11年 3月16日 東日本大震災を受け、天皇陛下がビデオメッセージを公表
3~5月 7週連続で1都6県の避難所などを訪問
12年 2月18日 天皇陛下が心臓バイパス手術を受ける
3月11日 東日本大震災1周年追悼式に出席
13年10月27日 熊本県で「水俣病慰霊の碑」に供花
12月23日 天皇陛下が80歳の傘寿
14年10月20日 皇后さまが80歳の傘寿
15年 4月8、 戦後70年でパラオで戦没者慰霊
9日
16年 1月26 フィリピン訪問に合わせて戦没者慰霊
~30日
8月 8日 天皇陛下が退位の意向がにじむビデオメッセージを公表
17年 2月28日 ベトナムとタイを訪問。在位中最後の外国訪問
~3月6日
11月16 鹿児島県を訪問。即位後、全都道府県を2巡した
~18日
18年 9月 西日本豪雨の見舞いで岡山、愛媛、広島3県を訪問
11月15日 北海道胆振(いぶり)東部地震の見舞いで北海道を訪問
19年 2月24日 天皇陛下の在位30年記念式典
4月10日 結婚60年