貧者の一灯 ブログ

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妄想劇場・森羅万象

2021年06月06日 | 流れ雲のブログ









歌:市川由紀乃
作詞:たかたかし:作曲:幸耕平

夜の盛り場通り 傘もささないで
路地にかくれてひとり 私泣いてます
捨てた指輪が 雨に濡れてる
恋はいつか 冷めるものだと
わかっていても
雨のしずくが 頬につめたい

恋はかなしいものね 心すれちがう
部屋に咲かせた花も みんな枯れました
誰のせいでも ないの別れは
あの日ふたり つよく感じた
あのときめきは
思い出すたび 胸がくるしい












千里ちゃん(仮名・3歳)のおなかの中には、
手術で摘出できないくらい大きな小児がんがありました。

その小児がんは大変珍しいタイプで、血圧を上昇させる
ホルモンを放出していました。

したがって、千里ちゃんは3歳であるにもかかわらず
高血圧の状態にあり、そのために心臓の働きが低下し、
心不全になっていました。

完治すると思った千里ちゃんが「呼吸していない」  

私たちは、小児科の循環器グループと連携しながら、
千里ちゃんに抗がん剤治療を開始しました。  

抗がん剤は効果を発揮し、X線CTを撮ってみると、
腫瘍は縮小していました。

腫瘍が十分に小さくなったところで私たちは手術を
おこない、腫瘍をすべて摘出しました。

あとは、追加の抗がん剤を投与すれば、千里ちゃんが
完治する可能性は高いと言えます。手術が終わっても、
小児循環器科の先生に、心臓の機能のチェックは継続
してもらっていました。

ある日の回診のことです。夕方でした。お母さんが
千里ちゃんを抱っこしています。部屋は薄暗く、
千里ちゃんの表情がよく見えません。

そのとき、私は「あ!」と声を上げました。
千里ちゃんは呼吸をしていないのです。  

私は慌てて千里ちゃんをベッドに寝かせてもらいました。
心臓も止まっています。

医師と看護師が千里ちゃんの周囲に殺到して、
心臓マッサージを開始し、気管内挿管をして人工呼吸
をしました。心臓を動かす薬も次々と注射しました。

脳にダメージ残り、寝たきりに  

心不全を起こしていた千里ちゃんの心臓が、ついに、
投与した抗がん剤の毒性に耐えきれなくなって
しまったのです。

懸命の処置によって心臓の拍動が弱いながらも再開した
のをとらえ、私たちは千里ちゃんをICU(集中治療室)
に運びました。  

およそ1か月がたち、千里ちゃんはICUから小児外科
の病室に帰ってきました。

自分の力で呼吸はできますが、手足を動かしたり、
言葉を出したりすることはできなくなっていました。

心臓が止まっていた間に、脳に深刻なダメージがあった
からです。千里ちゃんは一生、寝たきりになって
しまったのです。

腫瘍が再発 治療を再開すべきか?  

さらに悪いことが起きました。超音波検査で腹部に腫瘍
が再発していることが分かったのです。

がんを治すためには、もう一度、腫瘍の摘出手術と
抗がん剤治療をおこなう必要があります。  

千里ちゃんの今後の治療について、私たちの見方は
分かれました。

がんの治療で一度は心臓が止まったのですから、
もう限界にきている。治療は諦めるべきだという
声が上がる一方で、もう一度トライしたいという
意見も出ました。  

私は正直に言って、今後も抗がん剤を継続するのは
千里ちゃんにとって残酷なことだと思いました。
そこで両親と面談をしました。

両親は「どんなことがあっても助けて」  
2人の気持ちは一致していました。

どんなことがあっても千里ちゃんを助けてほしい。
もう一度、手術と抗がん剤治療をやってほしい
というものでした。

そして、こうも言います。「かつて、自分たちの友人が
海で溺れ、一度は植物状態になったにもかかわらず、
その後、完全に回復したことがあった。

千里も元の状態に戻るかもしれない」と。  

私はそれでは困ると思いました。その友人が具体的に
どんな状態だったか私には知りようがありませんが、
千里ちゃんが元の状態に戻ることはあり得ません。

それはくり返しおこなったX線CTや脳波検査から
明らかです。  

私は、寝たきりの状態で生きていく千里ちゃんを両親が
受容できないならば、治療を再開することは難しい
と考えました。

話し合いは平行線をたどり、お互いに納得するものには
なりませんでした。  

しかし、理由はどうあれ、患者側が治療を希望している
のに医療サイドがそれを拒否するのは正しくありません。

私たちは千里ちゃんに2度目の手術をおこない、
抗がん剤治療も再開しました。

奇跡は起きず わが子の姿を受け入れた両親  

その結果、千里ちゃんの小児がんは完治しました。
そして、奇跡はやはり起きませんでした。

千里ちゃんは依然として寝たきりのままです。しかし、
両親がその現実に対して、がっかりした素振そぶり
を見せることはありませんでした。

千里ちゃんのその姿を受け入れ、千里ちゃんを車いす
に乗せて、病院に通ってくるようになりました。  

再開した抗がん剤治療でもう一度心臓が止まるような
ことがあったら、私たちは悔やんでも悔やみきれ
なかったでしょう。

けれども、千里ちゃんと両親はその過酷な治療を乗り
越えました。

千里ちゃんに「生きたい」という気持ちが強くあった
からではないでしょうか。

author:松永正訓(小児外科医)











「歳をとると忘れっぽくなる」なんて言いますよね。
そういうものなんだから仕方ないと思いきや…
もしかすると日々の習慣次第でふせぐことができる
かもしれません。

マウスを使った実験で、過去の記憶を長時間思い出すと、
その記憶が脳にしまわれるときに「タウ」というタンパク質が
蓄積されやすくなることを明らかにしました。

このタウタンパク質は、脳に蓄積すると記憶障害を引き起こす
ことが知られています。

つまり、長時間過去の思い出にひたり、かつそれが頻繁に
なってくるほど脳が老化しやすくなるということなのです。

それまで、タウは年齢を重ねるほど蓄積量が増えることが
わかっていたのですが、その理由はよくわかって
いませんでした。

この実験によって、歳をとるほど経験が増え、過去を思い出す
機会が多くなるためにタウの蓄積量が増えるのではと考え
られています。

あのときはよかったなぁ…なんて、昔の仲間と集まって
たまにならよいかもしれませんが、いつも昔のことを考えて
いると心身に悪影響を与えてしまうというわけです。

そもそも私たちは不安が強い状況や自分に自信がないとき、
過去のことを思い出して自信を取り戻そうとすることがあります。

たとえば、学生時代の部活の話であったり、仕事の武勇伝
であったり。中には10年も20年も前の話をまるで昨日の
ことのように鮮やかに話せる人がいますよね。

これが、「あのときがんばれたんだから今度も乗り越えられる
はずだ!」と自分をふるい立たせるためならよいかもしれ
ませんが、

「あのときはよかったのになぁ…」としみじみ振り返り、
さらに「あのときに比べて今は…」と、ギャップを感じてショック
を受けるようになると大変です。

新しい刺激やストレスに弱くなる可能性があります。

なんでもかんでも新しいことにチャレンジすることはあり
ませんが、脳を健康な状態に保つにはある程度新しい
刺激も大切です。

それは体験であったり、人間関係であったり、時には新しい
風を吹き込むことが必要なのです。

昔のことばっかり考えていたり、「こうなったらどうしよう…」
と言う不安なシミュレーションばかりしているなぁと思ったら、
なるべく考える時間を減らして、行動・経験に時間を使う
ようにしてみてください。

古い記憶を忘れるのには新しい行動が有効です

新しい刺激によって脳の短期記憶が刺激されて、直前の記憶
が上書きされてしまうからだと考えられています。

新しい行動をすると古い記憶は忘れていくということです。
つまり、ちょとくらいイヤなことがあっても、行動すれば忘れて
しまうとも言えます。

これは長期記憶についても同様で、新しいことを学ぶことは
古い記憶を忘れることにつながることがわかっています。

過去を生きるのではなく、今この瞬間を生きたほうがよい
というのは、脳の観点から言っても同じなのです。

「考えすぎない」

年輩者に限らず、過去のことばかり話す人は魅力がない。
視点が未来ではなく、過去に向いているからだ。

未来を語る人には、「希望」「夢」「冒険」「ベンチャー」
「チャレンジ」「バイタリティ」という肯定的な言葉が似あう。

しかし、過去を語る人は、「絶望」「現状維持」「守り」「リスク
をとらない」「無気力」「やる気がない」という否定的な言葉
が似あう。

つまり、老人とは実際年齢ではなく、過去ばかりを語り、
未来を語ることのなくなった人のことをいう。たとえ100歳で
あろうと、未来を語る人は、心若き若者だ。・・・








一三年前の出来事で、今でも心の支えになっている
言葉があります。 「お母さんが代わってあげたい…」

病院の個室病棟で手術後の私に付き添ってくれた、
母の言葉でした。

元気だった二六歳の私に、突如告知されたのは【胃がん】。
ステージ3の末期に近い進行がんでした。

平成九年二月二六日に、胃・胆のう・脾臓を全摘出、
食道・すい臓を部分摘出という、それは一〇時間の
大手術でした。

手術後、個室で過ごす日々は、想像をはるかに超える
壮絶な痛みでした。

丸三日、一睡も出来ないほどの激痛。高熱にうなされ、
強制的に目をつぶっても、痛みで起きて時計を見ると、
たったの三〇分ほどしか経っていません。

過ぎてみれば落ち着くとわかるその経過も、その渦中
にいるうちは、見えない暗闇のトンネルを、地図も
ないままただ歩く、そんな暗黒の世界でした。

つらかった。けれど、付き添う母の心痛は計りきれず…! 
あまりの痛みに、意識がもうろうとする私を見て、
母が発した言葉が、 「お母さんが代わってあげたい…」

涙交じりで、背中を向けながらこぼした母の言葉。
明るく気丈な母からは想像できない言葉でした。

けれど、時同じく私が思い、心で発した言葉は、
「これが私でよかった!」 心の底からそう思って
いたのです。

一九歳で結婚した母は、慣れない農家の嫁となり、
年中無休の過酷な道を選びました。

末っ子の私を入れて三人の子育てに奮闘し、
みるみる激やせになるほど働きました。

同居の祖母との確執も、子供の私にも伝わるほど…。
けれどいつも、じっと我慢をしながら、置かれた
環境の中、ひたむきに、いつも一生懸命でした。

笑顔の絶えないヒマワリのような母。

その明るさの陰には、大きな苦労や悲しみが詰まって
いて、子供心に胸痛めることも多々ありました。
何の親孝行もせずまた苦労をかけてしまった。
申し訳なく悲しかった…。

なのに、我が事のように心配し、泣いてくれた母。
そんな母だからこそ、この世のものと思えない痛みが、
自分でよかったと思えたのです。

幸い、山あり谷ありを繰り返しながらも、五年の
節目を越え、今一三年目を元気に過ごしています。

五〇代前半の母は還暦を過ぎ、二六歳だった私は、
今日で三九歳になりました。

あのとき発してくれた母の言葉は、ずっとずっと心の
支えとなって励みになっています。

苦しみを数重ねながら、どんな時も苦しみを共有して
くれた母を誇りに思い、今も【いのち】輝かせて
生きています。
author:ペンネーム:ぞんちゃん