貧者の一灯 ブログ

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妄想劇場・森羅万象

2021年06月13日 | 流れ雲のブログ










歌:菅原洋一
作詞:世志凡太:作曲森岡賢一郎

その先は聞かないで   泪だけがにじむから
見失った恋など     お互いに忘れましょう
よるは二人のふいのゆりかご
そんな時も私たちに合ったのね
その先は聞かないで   泪だけが思い出に
振り向いてしまうから  いまは話したくないの

その先は聞かないで   ほんの小さな偽りが
夢を砕いてしまったの  誰もわるくなかったわ
夜はふたりの恋の灯 
そんな時も私たちにあったのね
その先は聞かないで   昨日までが嘘みたい
終わったのなにもかも  さようならは言わないで
さようならを言わないで









新生児科の先生から連絡を受けたのは、定時の小児外科
の手術がすべて終わった昼下がりでした。

新生児集中治療室(NICU)に赤ちゃんが緊急入院したので
すぐに来てほしいと言います。私たちはNICUへ急ぎました

頭の中が水に置き換わった状態  

赤ちゃんは、開放型の保育器にうつ伏せに寝かされて
いました。体重が2000グラムもないことは一目で
分かりました。

そして背中には脊髄髄膜 瘤りゅう (二分脊椎)があり、
瘤の中に脊髄神経が飛び出ているのが見えました。

瘤からは髄液も漏れ出しています。赤ちゃんの顔色はやや
土気色で、唇にチアノーゼがあります。小さく速く、あえぐ
ように呼吸をしています。

口元には酸素が吹き流し(酸素マスクを密着させない状態)
になっていました。

「二分脊椎ですね」と私の上司が呟つぶやきました。  

すると新生児科の先生が、困った表情で口を開きました。  
「それよりも問題は脳です。水頭症が相当、重度なんです」  

そう言ってその先生は、超音波検査の探触子(プローブ)
を赤ちゃんの頭に当てました。

確かに水頭症です。でも、ただの水頭症ではありません。
頭の中が水に置き換わっているような状態で、
大脳は薄く引き伸ばされています。

二分脊椎では水頭症を合併することがよくありますが、
ここまで重度の水頭症を私は診た経験がありませんでした。  

新生児科の先生が話を続けます。  

「超音波検査ではこれ以上はっきりしたことは分かりませんが、
MRI(磁気共鳴画像)検査をやってみれば、キアリ奇形が
あるかもしれません」

延髄が背骨の方に引き込まれ、呼吸が止まる危険  

キアリ奇形とは、二分脊椎に伴って小脳や延髄が頭蓋内
から背骨の方へ引っ張り込まれ、その結果、延髄が圧迫
を受けて呼吸などが止まってしまう危険のある状態を
言います。  

現在は、小児脳神経外科の進歩が著しく、キアリ奇形に
対しても有効な外科手術が行われるようになっています。

しかし、私がこの赤ちゃんに出会った時には、まだまだ
そうした手術は広まっていませんでした。  

「手術の適応はあるんでしょうか?」と、新生児科医が
問いかけてきました。  

「ちょっと考えさせてください」  私の上司は険しい表情に
なりました。私たちはいったん、小児外科の会議室へ
戻りました。

「積極的に手術を勧めることはできない」と上司  

「脊髄髄膜瘤の閉鎖手術を急がないと、感染が起こるの
ではないでしょうか? 水頭症を解除するシャント手術も
早い方がいいと思います」  

私はすぐにでも手術をやりたいと、意見を述べました。  
「君の気持ちは分かる。しかし、あの赤ちゃんは、手術を
しても一生寝たきりだろう。

人工呼吸器が必要になるかもしれない。本当にそれで
いいのだろうか? 私には疑問だ。

最終的には親の決断だが、こういう話は医者の説明の
仕方で、親の決定も変わってしまうんだ。私には積極的
に手術を勧めることはできないな」  

つまり、「選択的治療停止」を、上司は視野に入れて
いるのです。「手術を勧めることはできない」という言葉に、
私は息が詰まりそうになりました。

「とにかく私に一任してください」と上司が言いました。
私たちは父親が待つ面談室に向かいました。

「一生寝たきりでも面倒を見ます」  

赤ちゃんの父親は、白髪の多いかなり年配の方でした。
上司は、自分の主観を挟まず、客観的な事実だけを淡々
と述べていきました。

ただ、将来の見通しについては、手術が成功しても相当
厳しいことを言い添えました。  

父親は黙ってうつむいてしまいました。しばらく考え込んだ
あとで顔を上げました。

 「先生、どんなことがあっても、あの子を助けてください。
私と妻は再婚同士です。お互いに子どもはいますが、
二人の間にはどうしても子どもができなかったんです。

貯金を全部おろして不妊治療を受けました。
体外受精で授かった子が、あの子なんです。
一生寝たきりでも面倒を見ます。どうか助けてください」  

上司の先生はしっかりとうなずきました。

父親は、先生の手を握って「この手で助けてください」と
涙を流しました。

大手術後2か月、赤ちゃんは懸命に生きた  
その日の夕方から手術が始まりました。深夜までかかる
大手術になりましたが、髄膜瘤の閉鎖をきちんと行うことが
できました。

ただ、予測通りとはいえ、手術後に赤ちゃんの自発呼吸が
回復することはありませんでした。

人工呼吸器が付いた状態で、赤ちゃんはNICUに戻ったのです。  
それから2か月、赤ちゃんは懸命に生きました。

しかし、肺炎から敗血症になり、その命は果てました。
お別れの時、夫婦は上司の先生に深く頭を下げました。  

「この子は精いっぱい生ききったので、後悔はありません。
これ以上、生きてくれと言うのは親のわがままです。

難しい手術をしてくださってありがとうございました」と
父親が言ってくれました。  

赤ちゃんの病気がどれほど重篤でも、親の愛情はどこまで
も深いものだと、私は心の底から感じさせられました。
・…
author:松永正訓(小児外科医)















健司さん(仮名、53歳)はいつもどおり、商談のために客先
へ車を走らせていました。

もうすぐ到着というところへ、見知らぬ番号から着信が入り、
いつものとおり仕事モードの口調で電話に出てみると、

「もしもし、佐々木健司さんの番号ですか? 
私、健太です……」と若い男性からの電話でした。

その声を聞いた健司さんは車をすぐに路肩へ寄せ、
ハンズフリーからハンドフォンへあわてて切り替え、
スマホを自分の耳へ押し当てました。

「健太さんって、香川(14年前に離婚した元妻の苗字)
健太さんですか?」 少しの間があって「はい。そうです。
あなたの息子の健太です」。

健司さんは、わ~っとこみ上げる思いと、うれしさからの涙を
抑えながら、「健太、よく連絡してきてくれたね。

本当に本当にうれしいよ。健太、今年で20歳になるね。
連絡してきてくれてありがとう」と声を絞り出しました。
それはとてもドキドキした瞬間でした。

子どもたちとは一度も会うチャンスを貰えなかった

14年前に健司さんが魔がさしてしまったばかりに数年
連れ添った妻と離婚することに。

幼い子どもがありながら他所の女性と関係を持ってしまった
夫がどうしても許せなかった妻が離婚を申し立てたのです。

それ以来、健司さんは欠かすことなく毎月仕送りをして
いましたが、子どもたちとは一度も会うチャンスも貰えず、
電話で連絡も許されないまま月日だけが流れ、この日を
迎えたのです。

健太さんは、20歳を迎えるに当たり、「自分の父親と会いたい」
という思いが強く募るようになり、「母親とけんかをしてでも
父の連絡先を聞いて会う」と決心。

健司さんは、幼いころの息子、そして娘の写真をこの14年間
ずっと大切にいつも携帯していました。

健司さんにとって2人の子どもの成長は14年前のまま。
実際に子どもたちと会った瞬間すぐに、大人になった子ども
たちに気がつけるのか、いささかの不安を抱えつつ、
健司さんの住む町の最寄り駅で待ち合わせをしました。

息子と娘を待っていると…

緊張の中、健司さんは約束の時間の5分前に到着して
息子と娘を待っていると、「お父さん?」と女性の声が聞こえて
きました。

振り向くと、22歳になった長女と、連絡をくれた20歳の息子が
並んでいました。

健司さんは会社経営をしているので、ネット検索をすると
顔写真が出てきます。子どもたちは幼いころの記憶を頼りに、
父親のことを調べていたようで、すぐに「お父さんだ」と気が
ついたそうです。

「息子から突然連絡がきて、『あなたの息子』と言われた
ときにはものすごく涙が流れました。

実際に待ち合わせしたときに、「お父さん」と呼ばれたとき
には、本当は泣き崩れるほどうれしかったです。

なにしろ、毎日毎日ずっと2人の写真を持ち歩いていましたし、
とにかく会いたい、元気に成長しているのだろうか、つねに
頭に浮かんでは会いたい気持ちをずっと抑えてきた14年間
でしたからね。

健太から連絡がきて、再会の日程を決めるときも、子どもたち
のスケジュールを優先で約束したので、正直、すごく大事な
仕事がいくつか入っていましたが、全部キャンセルしましたね」
と健司さん。

この14年間どうだったのか、尽きない会話 久々の再会は、
若い2人を考慮して、高級焼肉屋さんへ連れて行きました。

しかし、「たくさん食べなさい」と健司さんが促しても、2人とも
緊張と胸がいっぱいになっていたのか、全然食事が喉を
通らず、あまり食べられなかったとか。

この14年間どんな生活をしてきたのか、学校生活はどうだった
のか、お友達はたくさんいるのか、娘の就職はどうだったのか、

子どもたちが幼いころの思い出話など、尽きることのない会話
で、少しずつ空白の時間の中のピースを埋めるように、
健司さんは子どもたちが話す言葉を一言一言大切に拾い
集めるように、夢のようなこの目の前の状況をかみしめて
いたといいます。

会話も弾んできたところで、健太さんが思いの丈をぶつける
ように、健司さんの目をまっすぐ見て声を振り絞って言った
言葉が、「お父さん、どうして今まで僕たちに会ってくれ
なかったんですか」。

これには健司さんも絶句してしまいました。

会いたかった。ずっと会いたかった。ただ、別れた妻から
面会が許されなかった。自分ができることは、毎月欠かさず
養育費を送ることだけだった……。

この状況は2人も知っていたようで、それを押し通してでも
会ってほしかったという思いがあったそうです。

健太さんが20歳という大人の節目に、母親とけんか覚悟で
「どうしても父親に会いたい」という思いをぶつけてくれた
おかげでかなった再会。

子どもたちは再会するにあたって不安はなかったのかというと、
「僕たちがお父さんに会いたいと願っていたのと同じく、
きっとお父さんも僕たちと会いたいと思っていてくれるはずだ」
と強く信じていたそうです。

2人の心の中では、「いつも遊んでくれて、優しくて、かっこいい
お父さん」という思い出のまま。そんなお父さんが突然家を
出ていなくなってしまったというのは子どもたちにとっても
つらい14年間だったのでしょう。

子どものうちはどうしても両親、大人の事情に左右されて
しまう環境にあります。

会えるも会えないも親権者である大人次第で、思いは心に
しまっておくしかないのが子どもというものです。

元奥様だって心の傷が深かったからこそ、制裁も厳しくして
しまったのでしょう。 大人の事情に従うしかない子どもたち
への向き合い方

現在において、離婚だけでなくあえてシングルを選んで子育て
をするという方が増えてきています。

皆さん状況はさまざまですが、子どもの気持ちをどこまでくむ
ことができるのか、どこまで子どもたちの心の深いところまで
しっかり向き合うことができるのか、大人の事情に従うしかない
子どもたちへの向き合い方が今後もっと大切なテーマになって
くると感じました。

健司さん親子は、現在では息子、娘それぞれと毎日連絡を
取り合っているそうです。とくに息子の健太さんは、「男同士
だから話したいこと」もあるようで、将来の社会生活への
相談や、恋の話など、ずいぶんとお父さんを頼りにして
いるようです。

何年会えずにいても、強い親子の絆を感じたエピソードでした。
・・・








「オヤコウコウってなあに?」

あれは僕がまだ小学生の時だ。ふいに僕は母に尋ねた。
母ははっきり答えた。 「あなたが生きていることよ」

僕はその言葉の意味を深く考えなかった。
だけどやがてその意味がわかる時がきた。

僕が二十歳の時だった。就活中の僕は五十社受けて、
ひとつも内定をもらえずにいた。毎日届く不採用通知。
一気に十社から来た日にはもう死すら過った。

いらない人間。そう言われてるみたいだった。
結局、働かずそのまま引きこもりになった。

初任給で親を旅行に連れていく友達もいた。
マッサージチェアを贈る奴もいた。
母の日に花束を抱えて帰る奴だって。

そんな友達を見ては自分が親不孝だと思った。
働かないし花も買えない。旅行に連れ出す金も気力もない。
いっそ死んだら楽になるのに。そう思った。

だけど母は言った。 「生きてさえいればいい」
今も昔も変わらぬやさしさがそこにはあった。

確かに生きることは難しい。
毎日思うようにいかないことだらけ。
右往左往する日も、四苦八苦する日もある。

だけど生きていればいいことがある。
母のやさしさはそれを教えてくれた。

暗い引きこもりの時代も五年で終わった。
長くも辛い、そんな旅だった。
だけど長いトンネルも終わりがちゃんとあった。

今では「早く働け」と言わなかった母に感謝しかない。
・…