貧者の一灯 ブログ

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妄想劇場・森羅万象

2021年06月27日 | 流れ雲のブログ










歌:伊東ゆかり
作詞:有馬三恵子:作曲:鈴木淳

あなたの面影 だきしめながら
目ざめる朝の 私は幸福よ
愛してみて 愛してみて
はじめて わかるのね
あなたのもとへ 届けたい
やわらかい 朝のくちづけ









北原白秋(1885~1942年) 
自分の弱さを心から知りえたとき、人は真から強くなる。


北原白秋とはどんな詩人だったか

あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで 
おむかい うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ 
ランランラン・・・ 「あめふり」 

ゆりかごの歌を かなりやがうたうよ ねんねこ ねんねこ 
ねんねこよ・・・ 「ゆりかごの歌」

北原白秋の名まえは知らなくても、これらの歌をうたった
ことがある人は多いのではないですか。

白秋は詩人で、「ゆりかごの歌」「雨ふり」「この道」
「からたちの花」「ペチカ」、童謡の歌詞をたくさん書きました。

学校の校歌もたくさんつくったので、もしかしたらみなさん
の中に、白秋が校歌をつくった学校にかよっている人が
いるかもしれません。


詩作が好きだが、落第生だった

白秋は九州の出身ですが、高校のときに、成績が悪くて
落第。そのころから詩や短歌に興味をもちはじめ、たくさん
の詩を読んだり、自分で書いたり、作品を雑誌に投稿したり
もしていました。

ついには親にないしょで、学校をやめ、東京に出てしまった
のです。大学入学をめざして勉強をしながら、つぎつぎに
雑誌に詩や短歌を発表し、まわりからどんどん認められていき、
人気が出てきました。

与謝野鉄幹、与謝野晶子、石川啄木らと知り合い、
『明星』という雑誌で発表した詩は、文壇の交友がさらに
広がっていくのです。


スキャンダルから貧乏生活へ

しかし、人気詩人だった白秋にスキャンダルが発生します。
自分で創刊した雑誌に掲載した詩が風俗を乱すとされと
批判されて、発禁処分を受けたのです。

さらに、白秋はとなりの家に住んでいた女性、俊子と恋に
落ちたのですが、彼女は夫と別居中の人妻でした。

2人は夫から訴えられ、捕まってしまいます。このため、
人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちました。

しかし、この事件が以降の白秋の詩風にも影響を与えたと
いわれます。俊子と結婚しますが、1年であえなく離婚。

詩人であった章子と再婚します。しかし、詩を書いても収入
はほとんどなくなり、貧乏生活がつづきました。


子どもに届ける楽しい童謡

このピンチをすくったのが、『赤い鳥』という子ども向けの
雑誌を創刊した鈴木三重吉です。

彼の勧めで白秋は童謡、児童詩欄を担当するように
なりました。そのころの童謡といったら、かた苦しい
文部省唱歌ばかりでした。

白秋は、子どもが口ずさみやすい言葉で、リズムもよく、
その光景が目の前に広がってくるような楽しい歌を
つくっていきます。

当時、ラジオから流れてくる白秋の童謡に、大人も、子どもも、
だれもが、じっと耳を傾けました。

大正・昭和時代が激流のようにあわただしくすぎるなか、
ラジオから白秋の童謡が流れてきた時は、だれもが静かに
自分の心と向き合えたといいます。

よい童謡をうたいながら育った子どもは、大人になったとき、
幸せな時間として子ども時代を思い出すのではないか
と思います。


今も、白秋の童謡は人々の心の中で愛され続けています。

この道は いつか来た道 ああ そうだよ あかしやの花が
咲いてる ・・・「この道」

からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ
・・・ 「からたちの花」

雪の降る夜は 楽しいペチカ ペチカ燃えろよ お話しましょ
昔 昔よ 燃えろよペチカ・・・ 「ペチカ」


(幸せな歌をとどけた童謡詩人)















生まれつき重度の脳障害に冒された娘を持つ1人の
母親がいる。

そこには精神的にも肉体的にも、極限を超えてしまった
日常がある。

余人には窺い知れないが、それに耐えることも、わが子
なら当たり前といえるかもしれない。

しかし塩沢さんの場合は、わが子に対する個の愛情には
とどまらなかった。・…

昭和50年4月3日、娘は前頭葉脳損傷、最重度の障害者
という宿命を背負って生まれてきました。

産まれたとき、娘は泣き声一つ立てませんでした。
初めての出産でしたから、どういう兆候が安心なのか
心配なのか、私には何もわかりませんでしたが、

看護婦さんは私を安心させようとして、「大丈夫ですよ」
と言ってくれました。

しかしお乳の吸いつきも悪く、それも私にはいいことなのか
どうかわかりませんでしたが、私なりに覚悟のようなものが
備わっていたのかもしれません。

検査の結果は、分娩時の酸素欠乏による頭蓋内出血。
「お嬢さんは最重度の障害で、辛うじてハイハイができる
程度でしょう。

歩くことも、自分で食べることも、話すこともできないでしょう」
ということでした。

親にとっては絶望的な宣告であるはずでした。
しかし検査の結果を聞かされたとき、私は取り乱しも
しなかったし、泣き叫びたいというような激しい衝動も
感じませんでした。

自分でも不思議なほど冷静で、「来るべきものが来たな」
という気持ちでその宣告を受け止めていました。

ただしこのときを境に、すべてが変わってしまったことは
確かです。それも一気に変わりました。

いくつになっても話すこと、歩くことはおろか、自力で
食事もできず、排泄もできません。

体力的にも精神的にも限界を感じ、施設に預けることも
考えないではありませんでしたが、結局は右往左往しな
がらも、夫婦二人の手元で育てることを選びました。

そんな子供を抱えた毎日は、悲しんだり、泣いたりという
次元を突き抜けてしまったものでした。

自ら選んだ道とはいえ、そのための代償は数限りなく払い
続けなければなりませんでした。

娘は自分で物を噛むことができません。
普通はミキサーで食べ物をすり潰し、チューブで
食べさせますが、

私は娘に残されている味覚だけは満足させてやりたいと
思って、自分の口の中で細かく噛んでから与えるよう
にしていました。

しかし毎旦二度三度のことが 私をだんだん苛立たせる
ようになってきました。

自分が食べるわけではないといっても、食べたくないときに
口に物を入れるのは大変な苦痛です。しかもこちらは眠くて
たまらないような 夜中であればなおさらです。

思わず、「早く食べなさいッ!」と、娘の口に邪険に
スプーンを ねじ込んでしまったこともありました。

やってしまってから、私はものすごい後悔の念に
襲われました。

手足が不自由でも口の利ける子供なら、何か言い返す
かもしれません。言い返してくれれば、それだけでも
救われた気持ちになります。

しかし娘には言い返すこともできませんし、怒って私を
叩くこともできないのです。

まったく抵抗もできない子供に、なんという鬼のようなこと
をしたのだろうと、私は自分自身にぞっとする思いでした。








この前結婚記念日で、結婚式の写真みなおしてたの。
そしたら、まー、私ぽっちゃりしてるw

ストレス太りしてたんだよね。
当時の職場が、田舎だったせいか、結婚決まって
からのパワハラがすごくて。

結婚式前の友達とか、みんなキラキラしてた記憶が
あるけど、私そんなことなかったw
見た目もだけど精神的にもかなりきてたw

あんまり食べなくても太るもんなんだね…
今思うとホルモンバランスとかなんか乱れてたんだろうね。
冷静に考えれば、そんなとこさっさとやめれば
よかったんだけど。その時はそう思える判断力すら
失ってた。

でも旦那はそういうの全部わかって受けとめて、
そのまんまでいいの!って、かわいいって言ってくれた。

ドレスを はじめて試着した時も、式当日も、びっくりした
ような顔でニコニコしてた。写真みなおしても、旦那
すっごい幸せそう。すごい甘い顔してるw

それだけでいい、て思えればいいのに、
写真に残ってるまんまる顔の自分が気になってしまう、私。
それでせめて「やっぱり太ってるねぇ」って笑いとばそう
としたら、旦那がぎゅーっとしてくれた。

「前撮りに行った安いスタジオでいいなら、またドレス
着ちゃう?違うのも着てみる?
でもこの時のすごい似合ってたよ、私ちゃんすごい
かわいかった、きれいだったよ」って…。

普段そんな照れくさいこと絶対言わないのに。
なんだよー。優しすぎるよー。
思わず泣いてしまいましたよ。からかわれたけど。

私も、旦那がしてくれてるみたいに、
ちゃんと優しくできてるのかな…。
してもらってばっかりなんじゃないかな、て、たまに思う。

旦那好きだよー。大好き。・…