歌:原大輔
作詞:円香乃:作曲:大谷明裕
駅へ向かう人の波 夕暮れの街路樹
気がつけば桜の花も 散ってしまったね
いつも急ぎ足で ただ夢中で歩いた
他人(ひと)から見ればきっと それは
幸せから遠い生き方
人生は これからさ
まだまだ 終わりはしない
空を見上げ 風に吹かれ
まだ見ぬ 明日(あした)を生きる
「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。
咲けない時は、根を下へ下へと降ろしましょう。」
シスター渡辺和子と詩との出会い
シスター渡辺和子さんは、ある詩によって自分の生き方
を変えることができた人でした。
渡辺和子さんは修道会に入ると、すぐアメリカに派遣され、
帰ってくると岡山の大学に派遣、翌年には学長になれ
と言われます。
これまでのアメリカ人学長の半分の年齢(36歳)で、卒業生
でもなく 地元出身でもないのに、大役(重責)を負わ
されたのです。
当時は、周囲からの風当たりも強く、大変な苦労をする
ことになります。初めての土地、思いがけない学長と言う役職、
未経験の事柄の連続。
「こんなはずではなかった」という思いとともに、いつのまにか、
「くれない族」になっていたそうです。
「あいさつしてくれない」、こんなに苦労しているのに、
「わかってくれない」「ねぎらってくれない」
「・・・・ああしてくれない。こうしてくれない….」など、
不平不満に悩まされるようになったのです。
ストレスを溜め、自信喪失になり、修道院を出ようかとまで
思いつめていた時、ある英語詩に出会いました。
「置かれた場所で咲きなさい」この詩との出会いが彼女を
変えていきました。
置かれた場に不平不満を持ち、不幸になっていては、
環境の奴隷でしかない。
人間として生まれたからには、どんなところに置かれても、
そこで環境の主人となり、自分の花を咲かせようと決心する
ことができたのです。
人が何もしてくれないと嘆くのではなく、自分から与える
人になろう。
そうして自分からあいさつし、お礼を言い、お詫びをし、
人をほめる人間に変わっていこうと努力したとき、
周りの人も受け入れてくれるようになったそうです。
詩「置かれた場所で咲きなさい」
仕方がないと諦めるのではなく、人生の最善を尽くし、
花のように咲くことです。
咲くことは、幸せに生きることです。
あなたが幸せになれば、他の人も幸せになります。
あなたの笑顔が広がっていきます。
あなたが幸せで、それをあなたが笑顔で示せば
他の人たちもそれがわかり、幸せになります。
神はあなたを特別なところに植えたのです。
もし、あなたが他の人たちと分かち合うことを知れば、
あなたの人柄は輝きます。
「輝く」ことを「咲く」というのです。
置いた場所でわたしが花開くとき、
わたしの人生は人生の庭で美しい花になるのです。
置かれた場所で咲きなさい。
(Reinhold Niebuhr ラインホルド・ニーバー )
辛いときがあるかもしれません。 苦しいとき、悲しいとき、
悔しいとき、泣きたいときもあるでしょう。
不平不満を言いたくなるときがあるでしょう。 でも、そういう
ときでも、花を咲かせようしていれば、根は見えないところで、
ぐんぐん成長していくのです。
そして、いずれあなたは美しい花を咲かせます。
シスター渡辺和子について
9歳の時に「二・二六事件」で、わずか1mのところで
父親(陸軍大将で教育総監だった渡辺錠太郎)が
48発の銃弾に倒れるのを目のあたりにし、大変な
衝撃を受ける。
18歳でキリスト教の洗礼を受け、聖心女子大学から
上智大学大学院修了。 29歳でナミュール・ノートルダム
修道女会に入会。
アメリカへ留学し、ボストンカレッジ大学院で博士号を取得
したのち、36歳という異例の若さで岡山県のノートルダム
清心女子大学の学長に就任。
一時はうつ病を患いながらも、長年にわたり教壇に立ち、
学生の心を支え指導。
1984年にマザー・テレサが来日した際には通訳を務める
など多方面で活躍。 1990年にはノートルダム清心女子大学
の名誉学長、及びノートルダム清心学園の理事長に就任。
2012年に発売した著書『置かれた場所で咲きなさい』が、
200万部を超えるベストセラーになる。
2016年に89歳で帰天。 ・・・・
author:今日も良いことがあるように:中井俊已
暗闇に沈んだ心
前回の病院からほどなくして、今度は地元の小さな小児科へ
の受診へ向かう。予防接種のみ、この小児科で受けること
となっていた。
ある曜日の時間指定で、乳児の予防接種を行っているため、
いつも駐車場に停められないほど、たくさんの親子が集まる。
もちろん気持ちの切り替えなんて、できていない。
行きたくない。でも、行かなくてはいけない。
陽(我が子)のためだと、言いきかせ小児科のドアを開く。
受付をしていると、「今何か月ですか?」
「うちまだ髪の毛生えてこやんくて~」
「〇〇ちゃんまつ毛長いね~」
「保育園て考えてますか~?」など、
お母さん同士の会話が聞こえていた。
ところが受付を終らせ、私たちが振り返ると、ピタッと会話が
止まった。
この時の陽は、髪の毛も、まつ毛も、眉毛もない。
真っ赤な皮膚で、目は裏返り、足も指がない。
ただ視線だけを感じながら、一番端の椅子に座った。
そしてその瞬間、隣の椅子に座っていた親子は立ち上り、
別の椅子へと移動した。
私はもう、陽を抱き締め、ひたすら下を向くしかなかった。
するとまた、看護師さんから「奥の部屋へどうぞ」と奥へ
案内され、少しホッとして、奥の部屋で陽と2人きりで
座っていた。
しかし、その部屋に扉は無く、小さな小児科なので、
待合い室の話し声は全て聞こえていた。
「今の、見た?」「なんやったんやろ、あの子」
「全身火傷さしたったんやろか?」
「可哀想になぁ」・・・。
そんなことする訳ない。全身火傷させていない。悔しい。
けれど、こんな所で絶対に泣くもんか。泣くもんか。
そう耐えていると、やっと予防接種の開始時間となり、
順番に名前を呼ばれていく。
そしてまさか私たちのいる奥の部屋が、予防接種の
終わった親子が様子をみるために、待機する部屋だった
なんて知るはずもなく、次から次へと、予防接種を終えた
親子が入ってきた。
付き添いで来ていた、見ず知らずのおばあちゃんは、
「あれ、うつらへんのやろか」と聞こえるように言った。
きっと孫可愛さに言ったのだろうとは、すぐに分かった。
大事な孫にうつったりしたら大変、そう思うのも当然
のことだと。
しかし、この時の私には「うつりません!」と言うことも
できなかった。また、ひたすら陽を抱き締め、視線に
耐えられず、下を向いていた。
はやく、はやく帰りたい。はやくこの場から、逃げ出したい。
夫が「一緒に行こか?」と言ってくれていたのに、強がって、
平気な振りをして、ひとりで来たことを後悔していた。
素直に甘えれば良かった。
買い物へ行くだけでも、指をさされ、色々と聞こえてくる言葉。
聞きたくない、聞かなければ良いだけなのに、過敏になって
いるのか、そんな言葉だけが耳に入ってくる。
病院に通う度に、家の外に出る度に、私は深く暗いどこかに、
沈んでいくように感じた。退院後、このような日々が続き、
私の心は壊れていった。
心がずっと、泣き叫んでいた。
陽や夫、親族、友人に向ける笑顔の裏で、私の心は一切
笑っていなかった。笑えるはずがなかった。
そしてついに、私の心の叫びが、今までの自分では考えられ
ないような、行動を起こすこととなった。
心の叫びを声に出すとき
休日の朝、私は外から降り注ぐ光でさえも恨んでいた。
世界がずっとずっと、暗闇だったらいいのに。
暗ければ暗いほど、見られることはないのに。
そんなことを考え、カーテンから差す光を見つめていると、
目を覚ました夫が私の傍(そば)に来た。
けれど、今までに感じたことのない感情に襲われ
「近寄らないで」と言って、夫を遠退けた。
「こやんといて!」「こやんといてってば!」
そう言って、私は何度も暴言を吐き、夫の胸を叩き、
腕を引っ掻いた。
それでも離れず近付く夫に、私は涙を流しながら、
「くるな!!!」「くんなって言っとるの!!」
「もぉ嫌やぁー!!!!!」と言って叩く手に、さらに力を入れた。
その間、夫はずっと無言で、悲しい目をしていた。
だけど、私は、私自身を止められない。
叩いて、叩いて、引っ掻いて、押し退けてを繰り返し、
私が疲れてきた頃、夫は私を強く抱き寄せた。
そこでやっと、私は心の叫びを、声に出して叫ぶことができた。
涙を流すだけでなく、泣き叫んだ。
夫の胸の中で、大きな声で叫び、ひたすら泣いた。
そして、ずっと黙っていた夫が、落ち着いた声で私に
話し始めた。
「辛いのは母ちゃんだけじゃないんやでな?」
「どんなことでもいいから、僕に話して」
「ひとりだけで抱え込まんと、ちゃんと言わなあかん」
「僕らはこんなことで、負けてられへんやろ?」
「僕らにしかできへんことを、陽と一緒にとことん楽しもよ」
「僕らやったら、絶対に笑って過ごせる」
「笑いとばすことができる!」
「そのためにも、どんな小さなことでも溜め込まずに、
ちゃんと声に出して、伝えていかなあかんよな」
「大丈夫やって! 母ちゃんと僕やで!! 陽も幸せや!!」
そう言う夫の目は、先ほどの悲しい目ではなく、力強く、
前を進んでいる目をしていた。
そうだ、なんでひとりで溜め込んで、落ち込んでいたんだろう。
私はひとりじゃないのに、
なんで孤独を感じていたんだろう。なんで、こんなに辛くて
悲しいって、思ってしまうんだろう。陽は生きているのに。
頑張って生き続けようとしてくれているのに。
私の負の心境に対して「なんで」という想いが強くなり、
今までの自分が馬鹿馬鹿しく感じた。
陽が生きて傍に居てくれている。その奇跡は、私達が
守っていく。ただ、それだけのこと。見られるのは仕方がない。
だって、世間でいう普通とは違うから。誰も知らないから。
だったら知ってもらうことが出来れば、何か変わるのかも
しれない。
それをどう行動にしていくべきか、私たちなりのやり方で、
陽の生きて進む道を切り開いていこう。
この日、私は再び、陽を守ること。そして家族の笑顔を
守ろうと決意し、行動や考え方を変えていくことにした。
author:『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』より
(2013年)は伊勢神宮と出雲大社のダブル遷宮の年。
そして、「朝日の伊勢」「夕日の出雲」と言われていることもあり、
「早朝に伊勢神宮に参拝して朝日を拝み、その日の夕方に
出雲大社に参拝し、夕日を拝もう」というイベントがあった。
かつて誰も経験したことのない強行な観光旅行だ。
企画した㈲クロフネカンパニーの中村文昭さんは、移動中
の約8時間、バスの中が退屈しないように講演会を考えた。
全国から260人が集まった。8人の講師がそれぞれバス6台
に分かれて乗り込んだ。約90分間講演し、休憩の度に
入れ替わった。
面白くて寝る時間もなかった。
メンタル(精神面)コーチの筒井正浩さんはこんな話をされた。
筒井さんと言えば、かつて大阪の履正社(りせいしゃ)高校
野球部のメンタルコーチをして甲子園に導いたことが
マスコミに取り上げられ、
以来、ジャンルを問わず、いろんな人のメンタルコーチと
して活躍している。
それまで年収1200万円以上稼ぐ高給取りのサラリーマン
だった。彼には夢があった。しかし、それで食べていけるか
分からない。会社は辞められなかった。
8年間、悶々としていたが、44歳のとき、会社を辞める
決意をした。最後の壁は「嫁さんにどう言うか」だった。
ある日、意を決して言った。「夢ができたんや。仕事を
辞めたい。ただ、すぐには十分な収入がないと思う」
奥さんは一言、
「それなら私も明日から仕事せなあかんね」。
筒井さん、奥さんの懐の広さに感動した。案の定、メンタル
コーチの仕事はなかなか収入には結びつかなかった。
ひと月の収入が4万。これが16か月続いた。「もうあかん」
と思った。そんなとき、人との出会いが彼の人生を
大きく変えた。
最初のきっかけは元神戸製鋼ラクビー部のスーパースター、
平尾誠二さんだった。
平尾さんはラクビー日本代表の監督を引退後、講演イベント
を主催した。月1回の6か月間コース。毎回いろんなゲストを
呼ぶというものだ。
1回目のゲストは元サッカー日本代表の岡田武史監督だった。
講演後、会場を出た筒井さんは、控室に入る平尾さんの姿を
目にした。
「あっ、平尾さんや。話ができたらええなぁ」と思った。
その瞬間、「でもあんな有名な人と話をするなんて無理」と
いう思いが頭をよぎった。
しかし、こんな思いもよぎった。「このまま家に帰っても、
ドアをノックして断られて家に帰っても、結果は同じや。
それなら0より1の可能性に賭けてみよう」
控室の前まで行った。心臓がバクバクした。ノックができない。
どうしようと思っているうちに、コンコンとノックしてしまった。
もう逃げられない。中から「ハイ」という声がした。
ドアを開けた。目と目が合った。平尾さんは「どなたですか?」
という顔をした。
「今日、講演を聴いて感動しました。お礼だけ言いたくて、
お疲れのところすみませんでした」と言ってドアを閉めよう
としたら、「どうぞ入ってください」と言われ、びっくりした。
向かい合わせで座った。どうしよう。とりあえず名刺交換だ。
平尾さんは筒井さんの「メンタルコーチ」という肩書を見て、
「これ、なんですか?」と聞いてきた。「スポーツ選手のメンタル
をサポートするんです」と筒井さんが答えると、
平尾さんは急に興奮して言った。「絶対この道でメシ食って
ください。本気で応援します。諦めないでください」
それから、平尾さんはその日のゲスト、岡田監督をはじめ、
いろんな人を筒井さんに紹介してくれた。ここから人生が劇的
に変わっていった。
「ドアをノックしたら迷惑するんじゃないかと、みんな勝手に
思い込んでいるけど、ノックしてごらんよ。
扉を開けてくれるから。まず動こう。動き出したら見える風景が
変わってくるで」と筒井さん。そして若い人たちにこんな一言も。
「僕のやったことは手首を2回動かしただけ。その時、
必要なのは勇気や。その勇気も最初の一歩だけでええんや」