歌:研ナオコ
作詞:作曲:中島みゆき
ふられた気分がわかるなら
やさしい言葉はすてとくれ
ばかだわ ばかだとくり返し
わたしをしかりつけて
ふられた気分がわかるなら
あの娘のうわさはやめとくれ
悪きゃ悪いでそれよりも
なお わたしは みじめになるばかり
※お酒をついでおくれ となりさん
今日は何杯飲んでも 飲んでも酔いきれない
今日は何杯飲んでも 飲んでも涙が出る※
「死にたい」人にはたくさん言葉を発してほしいと願っている。
「死にたい」の裏には、たくさんのニーズがあるからだ。
学校の休み時間は誰とも話さず、時間を潰していた
私が初めて「死」というものを意識したのは、小学校高学年
の時だと思う。
父親に「死ぬと人間はどうなるの?」と尋ねたところ、
「無だ。何にも感じない。例えるなら、眠ったままの状態が
ずっと続くということ。それが『死』だ」と言われた。
子供の私は「死」がとても恐ろしいと感じ、眠りにつく時に
目が覚めなかったらどうしようと恐怖した。
しかし、学校でいじめに遭い、家庭内で暴力が吹き荒れる
日々が終わらないことを悟ってから、徐々に「死」を身近に
感じるようになった。
「死んだら何も感じない」ということが恐怖でなく憧れに
なっていった。
高校生の頃、私は学校に馴染めないことと、希望の大学
へ進めないことが大きなストレスになっていた。
高校には中学時代にとても仲の良かった子がいたのだけれど、
その子は新しい友達ができて私と距離を置くようになった。
今思えば、思春期の女子には、よくありがちなことだし、
そんなことで絶望するのはバカバカしいけれど、十代の
私にはとても大きなことだった。
学校の休み時間は誰とも話さず、文庫本を読みながら時間
を潰した。勉強にも身が入らず、授業中は、うつ伏せになって
ずっと目を閉じていた。
机に突っ伏していると、世界中で自分が一人きりのような
気がして、とてつもなく悲しくなり、制服の袖を涙で濡らした。
授業中に私が泣いていることを誰も知らなかったと思う。
誰かから指摘されたことは一度もなかったし、たくさんいる
先生も私がおかしいことに気がつかなかった。
「いのちの電話」でこころないことを言われ
その当時、自殺の仕方を書いた単行本が発売され、
大変な話題を読んだ。100万部以上売れたが、悪書として
社会問題になっていた。
その本をクラスメイトが回し読みしていて、私の机にも
回ってきた。私は好奇心でページを開いた。
飛び降りるならどれくらいの高さがいいか、薬を飲むなら
何をどれくらい飲むのか、首吊りは……など、実に詳細に
死に方が書かれていて、息を飲みながらページをめくった。
その後、本屋さんに行って自分でもその本を買った。
進路が決まらず、この先どうやって生きていっていいか
分からず、頭の中ではいつも「死」がグルグルしていた。
しかし、いつでも自分の意思で死ねるのなら、限界まで
生きようと思った。私にとって自殺は輝く希望だった。
ある時、電話ボックスに貼られている「いのちの電話」の
張り紙を見て、死にたい時に話を聞いてくれる場所が
あるのを知った。
ある晩、家を出て、電話ボックスに向かい、ダイヤルを押した。
相談員の人は優しかったが、それ以上は何もできない。
私はしょっちゅう「いのちの電話」に電話をかけていたけれど、
ある相談員に心ないことを言われてからかけるのをやめた。
思えば「死にたい」という悩みは、家族や友人には相談し辛い
ことだったと思う。赤の他人だから話せたのかもしれない。
毎日、死んでしまいたいと思いながら生きていた私は自分が
希望する大学を反対され、親が希望する短大に進学する
ことになった。
短大は一年生のうちは全く友達ができず、心がやさぐれて
しまい、お昼休みに構内でビールを飲んだりして辛い気持ち
を紛らわした。
それでも、卒業できないのは親に悪いので、授業は休まず
に出席した。2年生になると友達が数人できてそれなりに
楽しい日々を過ごすことができたが、行きたい大学に行け
なかった悔しさがずっと残っていて、死んでしまいたいと毎日
思いながら生きていた。
ある日、高校生の時に買った、自殺の仕方が書いてある本
を読み返そうとしたら、本棚から消えていた。どこを探しても
ないので、母が捨てたのだろう。私は仕方なく、同じ本をもう
一度買った。
死にたい私が望んでいたのは、同じように死にたいと思って
いる人や、死にたい私を否定しない人だった。
お金がなくなると、人との“縁”が切れる
短大を卒業したが、私は就職浪人になった。その後、
中途採用で編集プロダクションに入社したが、月給は12万で、
都内で暮らすにはかなり厳しい金額だった。
残業代も出ない状態で、夜の11時ごろまで働くこともあったし、
休日に出勤することもあった。
高校生の頃から精神科へ通院を始めていて、東京に出て
からも精神科に通っていたが、診察の時間に間に合わなくて、
薬だけもらって帰ってくることが多かった。
食事にもあまりお金をかけられなくてひもじい思いをよく
していた。あの頃、私は本当にお金がなかった。友達に
遊びに誘われて「行くね」と答えたけれど、居酒屋での支払い
が怖くて、結局断ってしまったし、観たい映画があっても一本
も観にいけなかった。
働いても、息をするだけしかお金が稼げなくて、なんで生きて
いるのか分からなかった。
給料日の後、大好きなお寿司を食べようとして、回転寿司
に行ったけれど、一番安い皿を三皿食べただけで店を出た。
大人になってちゃんとした会社で働いているのに、なぜ、
こんなに貧乏なのか分からなかった。
通帳の残高は数千円しかなくて、いつも心臓がドキドキした。
親に電話して「お金を送ってくれ」と頼んだら、最初は送って
くれたけど、何回も無心したら「もう送れない」と言われて
しまった。
お金がなくなると、最初に切れるのは人の縁だと思う。
お金がないと喫茶店にも居酒屋にも入れない。
友達に話を聞いてもらいたくても、その手段がない。PHSは
持っていたけれど、支払いが怖いので滅多に使わなかった。
お金が手に入らないことにより、私と社会をつなぐ糸は一本、
また一本と切れていった。またこの地獄の人生を生きなけれ
ばならない
その頃の私を支えていたのは「自殺」だった。
死ねば、この苦しい状態から逃れられる、眠ったまま、一生
朝を迎えることがないというのは、苦しい人生を送っていた
私にとって、一筋の希望だったのだ。
私は自殺を決行する日、友達に電話をした。泣きながら
「とても辛い」と話したけれど「これから死ぬつもりだ」とは
言わなかった。
電話を切った後、手元にある精神科の薬を全て飲んだ。
相当な量で、飲むのにとても苦労した。
私はその後、友達の知人に発見され、救急車で病院に搬送
された。全身に薬が回っていたので、人工透析を何回もした。
実家にも連絡が行き、両親が病院でずっと私を見守っていた。
意識不明の状態が3日間続き、やっと目を開けると、たくさん
の看護師と医者、両親が私の顔を覗き込んでいた。
目覚めた時に感じたのは「ああ、また、この地獄の人生を
生きなければいけないのか」ということだった。
意識が戻ってから、聞いた話だと、私の命は本当に危なかった
らしく、医者から「ここでの処置で障害が残ったり、死んだり
しても訴えません」という念書を親は書かされたそうだ。
しかし、
私は命が助かって良かったと思うことができず、全身管だら
けで一週間ほど入院した。食事も取れず、用も足せないので、
点滴で栄養をとりながら、大人用オムツをして、尿道には
カテーテルを入れた。
まだ若いのに、人生がもうすぐ終わりのような状態だった。
そして、隣のベッドの患者さんが、私の入院中に亡くなって
しまい、親族と思われるたくさんの人たちがその人のベッドの
周りで泣いていた。
死にたい私が生きていて、生きたい人が死んでしまうなんて、
人生はなんておかしいのだろう。
繰り返す自殺、そして生活保護。
私はその後、実家で10年近く引きこもり、精神障害者手帳を
取得した。実家にいる間、苦しくなって自殺を2回企てたが、
未遂に終わった。
その後、自立のため、実家を出て一人暮らしを始めたが、
仕事に就くことができず、実家からの送金もなくなり、
生活保護を3年間受けた。
生活保護を受けている間、やはり、生きるのが苦しくなって
自殺を試みたが、またしても未遂に終わった。
しばらくして、体調が戻ってから、自分で仕事を探し、
NPO法人でボランティアとして働くことができ、そのまま
非常勤雇用で雇ってもらうことになった。
働き始めてから8年くらい経つが、私はその間、一度も自殺
を企てていない。もちろん、私は現在も精神科に通院しており、
生きているのが苦しくなることがあるが、自殺を実行に移す
ことなく生活できている。
実家で引きこもりをしていた10年間、働きたくてしょうが
なかった。働いている人からしたら「毎日、家で過ごせる
なんて羨ましい」と言われそうだが、無職なんて、1年も
やれば十分だ。
それに、お金がないので、遊びにもいけない。生活保護を
受けていた時は、生きるだけのお金はあったけれど、
本当に生きるだけだった。
仕事というのは、お金を稼ぐだけでなく、社会にコミットする
という役割がある。
人間というのは、自分に役割や居場所がないと生きていく
ことができない。それくらい私たちは脆く弱い存在だ。
もちろん、仕事がなければ、自助グループや、地位活動支援
センター、デイケア、趣味のサークルなど、探せば、居場所
はいろいろある。
しかし、私はそれだけでは物足りなかった。20代、30代と
言えば、社会で言えば、働き盛りの年齢だ。私は働くこと
によって、社会に帰属したかったのだ。
死にたい人は、たくさんの言葉を発して
今、社会では新型コロナの影響もあり不況の風が吹き荒れ
ていて、職を失う人が後を絶たず、自殺者の数も増えている。
職を失うことによる、貧困と、社会との断絶は、まるで20年前
の自分を見るようで、胸が痛い。
私は「死にたい」という人に「生きろ」などとは決して言えない。
死にたいほど辛い気持ちがとてもよくわかるからだ。
私は「死にたい」人にはたくさん言葉を発してほしいと願って
いる。「死にたい」という言葉の裏には、たくさんのニーズがある。
仕事が欲しい、家族から暴力を受けている、学校でいじめに
遭っている。そういったニーズを受け止めるのが、社会の
役目であり、それを実行に移すことによって、住みやすい
社会が実現される。
この社会を良くするためには「死にたい」あなたの声が
必要なのだ。
それでも、「死にたいほど辛いけど、助けて欲しい」ということ
を誰かに伝えるのはとても難しいと思う。
伝えられた側もどう受け止めればいいか分からないということ
が理解できるくらい、あなたは人の気持ちが分かるからだ。
それならせめて「助けてなんて言えないよね」と愚痴を吐いて
欲しい。それだけなら相手も苦笑いして頷いてくれるだろう。
問題が解決できなくても、苦労を抱えたまま、一緒に生きる
ことはできる。そうやって生きているうちに新たな道が開ける
かもしれないし、時が経てば、状況が変わるかもしれない。
愚痴を吐いて、毒を吐いて、死ぬ時を少しでも先送りして
くれたらと願う。・…
嫌いは好きの裏返し。本当の嫌いはさようなら。
我が子と私の居場所
退院した次の日、それまでの病院は市外のため、緊急時に
かかる市内の病院へ。
カルテをつくっておくために、紹介状を持って受診へと
向かった。産婦人科と小児科が同じスペースにあり、
待合い室には小さいお子さんもいれば、妊婦さんもいた。
「こわい」という子どもの声や、「かわいそうに」という声と
ともに送られる視線に、じっと耐えていた。
「見られる事は当たり前」と、わかっていてもやっぱり辛い。
でも、負けない。そう思っていると、受付の方が私の前に
現れ、「よろしければ奥の部屋へご案内しますね」とのことで、
案内されたのは、6畳ほどの畳の部屋だった。
そこではお腹の大きな妊婦さんが1人、横になって、診察
の順番を待っていた。
陽と私が部屋に入ると、その妊婦さんはじっと陽を見て、
少しして部屋から出ていった。
名前を呼ばれた訳でもなく、出ていった。私たちのせいならば、
私達が出ていかなければならないのに。しかし、何か用事が
あったんだろう。
そう強く思い込んで過ごしていると、受付の方が再び現れ、
まだ時間がかかるので、違う科へ先に受診するように言われ、
移動のために廊下に出ると、
先程の妊婦さんが廊下で電話をしていた。こちらに背を
向けているため、私たちには気づいていない。
そして不安そうな声で、ある言葉が聞こえた。
「目赤いし皮膚なんかおかしいし、あんなんやったら・・・」
後ろを通りすぎる一瞬のことだから、被害妄想かもしれない。
被害妄想だと思いたい。
だけど、確かに聞こえてきた。その言葉にチクチク、ザクザク
と、ナイフで刺されているかのように、胸が痛くなった。
そうだよね。もし、出産を前に陽(我が子)の姿を見たら、
不安になるよね。できることなら、見たくないよね。
妊婦にとって、精神的な安静はとても大切なこと。
わかってるよ。なるべく見えないように、…帽子やタオルで
いたくても、熱がこもってしまうからできないの。
ごめんなさい。ごめんなさい?
どうして謝らなくちゃいけないんだろう。
陽は頑張ってるよ? どうすればいい?
妊婦さんのいるところには来ちゃいけない?
どこに居ればいい?
居場所がない・・・。はやく帰りたい。
もう誰にも見られたくない。
悲しい。悔しい。悔しい。
前を向いて進むと、陽を守ると、決意できていたはずなのに、
外の世界へ出た途端、その決意はあっけなく、
しぼんでしまった。
この日の夜は、久しぶりに布団の中で涙を流した。
暗闇の中、優しく光る常夜灯を見つめながら。
どこに持っていけば良いかわからない、この想いを恨み、
ひたすら涙を流した。
陽、やっぱり母ちゃんは弱いや。ごめんね。
世界は優しさだけじゃない。でも、母である自分の行動で
息子と生きる世界を変えられるかもしれない ・・・
まずは下を向かない。そう強く決意をして家を出る。
無理して笑わない。家で陽(我が子)と過ごしている時と
同じように、外でも自然に過ごす。
陽に話しかけたりお遊びしたり、いつものように過ごす。
簡単なことだけど、最初はとても難しかった。
しかし、そうしていくだけで私の場合は幾分、気分が変わった
ように感じられた。
「どうしたの?」と聞いて頂いたり、病気について伝えられる
機会も増えていった。
地元の小さな小児科では、病気と関係なく、世間話も
できるようになった。
もちろん、まだまだ聞きたくない言葉も聞こえてくるけれど、
自分から「うつらないですよ」と笑顔で言えるようにもなった。
そして私自身が「病気だから仕方がないでしょう」と思って
いなくても、私の言動から、そう思われてしまうこともある。
少しでもそうならないためには? 私にできることは?
そう考えて、行動するようにもなった。
皮膚がなるべく落ちないように、しっかりとワセリンを塗り、
外出先でも塗る。衣服の着脱時は、場所を考える。
どれだけケアしても皮膚は落ちるため、常に粘着コロコロ
を持ち歩く。
椅子などにも、ワセリンが付かないように、大きめのタオルも
常に持ち歩く。とりあえず、すぐに私が行動にできることは、
実行していくことにした。
「そんなの下にパッパッて、はらっといたらいいのに~!」
とっていただくこともあり、その何気ないひと言に、
涙が出そうにもなった。
こうしていることは、ただの自己満足なのかもしれない。
他人から見たら、それぐらいして当たり前のことかもしれない。
けれど下を向いて「帰りたい。帰りたい」と思って過ごしていた
場所が、そうしていくことで、居ることが許されていくような
気がした。
誰に許してほしい訳ではない。陽は何も悪いことをしていない。
でも、やっぱり世界は優しさだけじゃない。
冷たく、悲しい現実もある。
少しでも、少しでもそんな思いを減らしたい。少しでも。
そのためには、まずは親である私自身の行動を変える。
そう心に決めて、日々を過ごすようになり、いま私たちは
幸いなことに、周囲の方々の優しさに触れ、陽も家族も
笑顔であふれている。
そして勇気を出して、藁(わら)をもつかむ思いで、
ある会に参加することにした。
author:『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』より
卒業式のとき、来賓として招待される教育委員会の先生や、
校長先生のお祝いのメッセージの中に、
「卒業生の皆さん、これから明確な目標を持って
生きてください」という話をよく聞くことがある。
もちろん明確な目標を持つことは大事だ。
ただ、目標だけあって、目的がなかったら、さまざまな
困難にぶつかったとき、安易にその目標を断念して
しまうことがある。
しかし、目標と同時に目的を持っていたら、それがとても
大きな力になる。
このことをクロスカントリースキーの日本代表選手、
新田佳浩さんが教えてくれた。
新田さんは、岡山県西粟倉村という、冬場は雪の多い
山あいの村に生まれた。家は代々続く米農家だ。
3歳のとき、おじいちゃんが運転する農機具のコンバインに
左手を巻き込まれ、肘から先を失った。
以来、障害者としての運命を背負うことになる。
翌年の4歳からスキーを始めた。
小学校に入るとクロスカントリースキーに夢中になった。
3年生のときに初めて参加した地元の大会で優勝。
その後、県大会でも優勝するなど、小学校卒業するまで
4つの優勝トロフィを手にした。
しかし、中学になって壁にぶち当たった。
両手でストックを使う健常者の選手に勝てなくなったのだ。
最初の挫折だった。中学3年のとき、スキーをやめた。
転機は高校1年のとき訪れた。
2年後に迫った長野パラリンピックの関係者が出場を勧め
に来たのだ。
健常者と競ってきた新田さんは、障害者スポーツに興味
を示さなかった。しかし、関係者に見せられたビデオに
釘付けになった。
新田さんと同じ左手のないドイツの選手が障害者とは
思えない速さで滑っていた。
元々実力のあった新田さん、長野パラリンピックでは8位、
翌年の世界選手権で優勝、そしてソルトレイクパラリンピック
では銅メダルを獲得した。
4年後のトリノパラリンピックでの金メダルは確実視されていた。
そのためにスタッフは、新田さんの身体のハンディを科学的
に分析し、腰の高さ、膝の角度など、右手一本でも健常者並
にスピードが出るフォームを3年かけて作り上げた。
確実に金メダルに向かっていた。
そして迎えた3度目のパラリンピック、トリノ大会。
競技中、考えられないアクシデントが起こった。
バランスを崩して転倒してしまったのだ。
片手なのですぐに起き上がれなかった。大敗だった。
トリノから自宅に戻った新田さん、家にひきこもってしまった。
引退も考えたが、たくさんの仲間から励まされ、もう一度
やろうと立ち上がった。
そのとき、目的を見失っていたことに気付いた。
目標はいつも「金メダル」だった。しかし、何のための
金メダルなのか忘れていた。
家にはおじいちゃんがいた。自分の運転するコンバインで、
可愛い孫が片腕を失った。
事故直後、息子であり、新田選手の父親・茂さんにおじい
ちゃんはこう言った。「この子と一緒にわしは死ぬ。自殺する」。
その後もずっとおじいちゃんは自分を責め続けてきた。
そのことをいつしか新田さんも気づくようになる。
トリノを目指したとき、金メダルを取っておじいちゃんに
掛けてあげて、「おじいちゃんは俺にとって最高の
おじいちゃんだよ」と言ってあげることだったことを思い出した。
「目標は金メダル、目的はおじいちゃんのために」を胸に、
新田選手は4度目のパラリンピック、バンクーバー大会に
挑んだ。29歳になっていた。
そして、10㌔コースと1㌔コースで、2個の金メダルを
獲得し、凱旋した。
実家に戻った新田選手、92歳のおじいちゃんの首に2つの
金メダルを掛けた。
何かに挑戦しようとするとき、「誰かのために」という目的が
あると、人は諦めない。すごい力を発揮する。きっとそれが
愛の力だからだろう。・…