貧者の一灯 ブログ

掲載しているお話は、当ブログには著作権はありません。
掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。

妄想劇場・THE ライフ

2021年06月17日 | 流れ雲のブログ










歌:チョン・テフ
作詞:仁井谷俊也:作曲:徳久広司

生命を燃やす 季節は短い
まして女の 綺麗な時期(とき)は
夏の夕暮れ 人恋しさに
焦がれ鳴きする 蜩のようです

※言葉で愛を 語れたら…
手紙に愛を 綴れたら…
あゝあなた…
死んだら涙 流してくれますか
冷たい躰 抱きしめてくれますか※












「子育ては大変ですよ」。

中国地方の山下美里さん(28)=仮名=は出産を控えた
一昨年の秋頃、周囲からこんな言葉ばかりかけられ、
不安だけが膨らんだ。

夫婦ともに子供と接する仕事に就き、子供は大好きだ。
しかし、鬱病を抱える山下さんは妊娠中、薬の服用を中断
したため、余計に気持ちが安定しなかった。

子供の頃、父は母に暴力を振るい、母も子育てに無関心で、
幸せな家庭を知らないという引け目もあった。

山下さんが暮らす自治体では保健師が妊娠届を出した妊婦
と面談する。育児に自信を持てない山下さんには担当保健師
がつき、数カ月ごとに状況を聞かれた。

「日中1人では赤ちゃんをみられない」「泣いたらたたいて
しまうかも」。同年11月、出産が約1カ月後に迫り、保健師
に訴えた。

本当にたたくと思ったわけではない。それほど真剣に悩んで
いると分かってほしかった。

ただ、夫婦で子育てを考え、夫が育児休暇を取り、産後は
夫の実家で暮らすことを決めると、不安は和らいだ。

保健師や病院がつくった支援会議にこうした状況を伝えたが、
虐待対応のイメージがある児童相談所(児相)と関わること
には抵抗があり、支援会議に入りたいという児相の申し出は
断った。

12月末に長男を出産。不妊治療の末に授かった待望の
子供だった。しかし、わずか4日後、長男は新生児室から
児相に一時保護された。

「たたく」という発言と育児不安の情報だけが強調され、
児相に共有されていたという。

「赤ちゃんが心配なので保護しました」。
病室で児相職員に告げられ、涙が止まらなかった。

「突然すぎる。

家族と話し合い、一緒に子育てを考えてはくれないのか」

行政機関が敏感になる背景には、虐待で死亡する子供のうち、
0歳児が最多という事実がある。

厚生労働省によると、平成30年度に死亡した子供は54人
(心中を除く)で、約4割の22人が0歳児。この割合は多い年
には6割を超える。

そこで各市区町村は、これまで構築してきた母子保健制度
を活用。出産前後の家庭を支え不安を軽減することで、
同時に虐待の未然防止も図ろうとしてきた。

制度が整備されてきた一方、支援を受けることには心理的
ハードルが残る。懸念するのは「虐待」という言葉のイメージだ。

だが、虐待事件の報道に引っ張られ、親を責める言葉に
なっている」と指摘する。

虐待が非難の嵐を巻き起こすなら、親は支援から遠ざかり、
批判を恐れる児相がやみくもな一時保護に走る可能性もある。

また、虐待を防ぐには家庭支援を担う市区町村こそが
重要だが、議論の矛先は児相だけに向き、問題が矮小
(わいしょう)化される傾向もある。

地獄」に直面

山下さんの長男の一時保護は1カ月後、母子が2人きりに
ならないことを条件に解除された。

1カ月間でもわが子の成長を近くで見られなかったことは悲しい。
だがその後、それ以上の「地獄」が押し寄せた。

「虐待親」への偏見があったのだろうか。長男の風邪で病院を
受診しても、保護歴を知ると医師の態度が一変した。

自治体の支援窓口でもはれ物に触れるような対応をされた
と感じた。「保護歴だけで『虐待』のレッテルをはられ、
世間は決して許してくれない」

子育ては拍子抜けするほど楽しく、長男が笑えば一緒に笑い、
泣いてもその姿さえいとおしかった。

今最も恐れているのは、この幸せが再び奪われることだ。
通告されるのが怖く、「子育てに失敗してはいけない」という
強迫観念に追いつめられる。

家事ヘルパーや訪問看護師にも本音の悩みは話せず、
「何か困ったことはないですか」という質問が怖くなった。

「監視しあう社会ではなく、助けあう社会をつくりたい」。
虐待問題への高い関心と、子育てへの温かな目線とをどう
両立するか。 「寄り添ってほしかっただけなのに」。

山下さんの言葉は、社会に課題を投げかけている。 ・・・・












僕はすごくさみしがり屋さんでした。

小学生の時は友達みんなに引っ付いて遊んでいたし、
姉と兄の遊びに着いていけない時は大泣きしていたらしい。

1人でマクドナルドには行きませんでした。
マクドナルドだけではなく、スタバにだって行きませんでした。
どんなお店にも1人では行きませんでした。

その理由は、寂しいから。
誰かが一緒じゃないと何をして良いか分からなくなって
ソワソワしていました。

そんな僕に子どもができると分かった時、育児系の情報
にあった「子どもに妻を取られる」とか「子ども中心の生活」
という僕にとってはネガティヴな言葉が僕を不安にさせました。

妻が妊娠中、僕は必死に考えました。
どうすれば寂しくない家族生活を送れるか。
どうすれば子どもを心から愛せるか。

どうすれば...・・・そして出した結論。それは
育児や子育ての主体性を持とう!ということでした。
女性には女性にしかできない育児があります。
出産もそうだし授乳だって男性にはできません。

だから男性が何もしなければ主体性は自然と女性
にいくのです。上の子が産まれてから、泣けば子どもの
ところへダッシュ!

ウンチをすればすぐにオムツを変え、おしっこだって
意識しておく。風邪を引けば病院に連れて行き、保育園の
送り迎えではお母さん方と情報交換の毎日。
今や保育園の第三者委員もやっている。

離乳食だってお手の物。食物アレルギーが出た時は
自分の経験を思い出す。

今は夜泣きだって怖くない。
電動自転車は僕の物。自転車屋さんには「旦那さんよりも
奥さんのための自転車にカスタマイズしなきゃね!」と
言われたけれど、夫婦でその意見に反対(笑)

こんな毎日を過ごしていたら、子が産まれる前に比べたら
仕事時間は当たり前に減ったと思うけれど、仕事への
感謝の気持ちを知ることもできました。合理的に仕事を
するようにもなりました。

その他にも男性が主体性を持つと色々なメリットが
生まれます。その中で嬉しかったことが2つ。

1つは妻の心に余裕が生まれ、妻が心から子どもを愛する
時間が増えること。家の中が明るくなり、妻から感謝の
言葉をもらえることで僕は頑張れます。

そしてもう1つは、1人でお店に行くようになったこと。
子どもの服を買いに行く時、周りはお母さんばかりですが
気にして入られません。

なぜなら「僕にはやるべきことがあるから」です。
僕はもう1人ではなくなったのです。
今まで自分の中にいたさみしがり屋さんはどこかへ行って
しまいました。

1人でスタバに行きますし、どんなお店でもお手の物(笑)
男性の誰もが主体性を持って育児ができるわけでは
ありません。

出張が多いお父さんや単身赴任のお父さんもいます。
育児や子育てがもともと苦手というお父さんもいると思います。

僕は運が良かったのだと思います。
育児や子育てを通して、仕事の方法も変わりました。
個人レベルではありますが、仕事の仕方改革が起こりました。

僕にとっては良いことだらけの育児と子育て。
まだまだ未熟者ですが、楽しい時間を過ごしています。

さて、お迎えの時間が近づいています(笑)
行ってきます。・…

author:父 竹鼻良文

枯れない花はないが、咲かない花はある......。
・・・







2018年7月、台風7号と梅雨前線の影響で、北海道で大雨
を降らせた後、太平洋高気圧が南下し、九州、西日本に
記録的な大雨を降らせました。

のちに「平成30年 7月豪雨災害」と名付けられたこの災害は、
西日本に甚大な被害をもたらします。

岡山県総社(そうじゃ)市と倉敷市真備(まぴ)町では多い時
で7000人以上が避難する事態になりました。

当時、総社高校の1年生だった光旗郁海(こうばた いくみ)
さんは、一部の地域に避難勧告が発令されるなか、市街の
中心部にある親戚の家に避難。やむ気配のない大雨に、
恐怖を抱いたといいます。

一夜を明かし、翌朝無事に自宅に戻ってきて、被害の様子
を報じるテレビニュース を見た光旗さんは、えっ、と自分の
目を疑いました。

テレビに映し出されていたのは、自分の住む総社市の
ことだったからです。

高梁(たかはし)川の水位が上がり、道路や田畑が浸水、
濁った水がよく知っているはずの風景を覆いつくしていました。

そのうえ、浸水した アルミ工場が爆発し、炉で溶かされた
アルミニウムが飛び散って、近隣の住宅で火災 が発生する
という大惨事も発生しました。

「ふだんテレビのなかのことは他人事だと思っていたんですが、
よく知っている自分たちの地域のことがテレビのなかで報じ
られていて、今、私たちが当事者になっていると初めて
気づきました」

 他人事から当事者へ。

高校のクラスのLINEを開くと、友人たちが続々と近況を
送ってきました。

「高梁(たかはし)川がヤバイらしい」「昨夜の工場の爆発は
すごかったみたい」興奮ぎみに送信してくる友人たち。
細かい状況はわからないけど、とにかく無事であることに
ひとまずほっとしました。

しかし、2人の友人からなかなか返信がありません。
浸水の被害が深刻な真備町に住む友人と、アルミ工場
のすぐ近くに住む友人でした。

「これは大変なことが起きているんじゃないか?」

友人たちの身になって考えると、「今すぐにできることは
ないか」という思いが強 くなっていきました。

それぞれがお互いの様子を確認しあうなかで、勇気を出して
行動を起こしたのが、光旗さんだったのです。

光旗さんは、大雨特別警報が解除されたばかりの7月7日
午後4時ごろ、総社市の 片岡聡一市長に次のような
ダイレクトメールを送りました。

『片岡さん突然失礼します。これをみる暇はないかも
しれませんけど......。私たち高校生に何かできることは
ありませんか?

配給の手伝いなどはできません か? 何かできるかも
しれないのに家で待機しているだけというのはとても
つらいで す。

子どもだから、できることは少ないかもしれないです。でも、
ほんの少しでもで きることはないですか?』

市長からすぐに返事がありました。
『あるとも。すぐに総社市役所に来て手伝ってほしい』

「その返事にこたえて、光旗さんは近くに住む友人や
ツイッターで呼びかけた高校生と共に市役所に
駆けつけました。集まった高校生は約50人。

すぐに市長から指示されて、避難所でパンやお弁当を配る
手伝いをしました。

「まさか市長さんがこんなに早く返事をくれるとは思って
いなかったので、びっくり しました。いちばんうれしかった
のは、私たち高校生を信用してくれた、ということ。

被災している人だけでなくて、被災していない人のことも
考えていただいたんだと思いました」

一方、メールを受け取った片岡市長は、『すぐ市役所に来て
ください』と返信したものの、特別にプランがあったわけでは
ありませんでした。

ところが、知らぬところでこの返信が拡散され、高校生たちの
行動を引き出します。

市役所に50人の高校生が「総社市を何とか助けたい」
と駆けつけてきたとき、「一筋の光」を見たと市長は語って
います。

翌7月8日、片岡市長の想像を超える"事件" が起こりました

早朝6時、市長は、 市庁舎2階の災害対策本部から市庁舎前
広場を見下ろすと、黒山の人だかりができているのを見て、
愕然としました。

「ついに暴動が起きてしまったか」
災害の責任問題や保証について、詰め寄る市民たちが押し
寄せたと思ったのです。

とにかく彼らと対話しなければ、と覚悟を決めて広場へと
降りていくと、そこに集まっていたのは高校生たちでした。

「何か手伝わせてください」 「総社市を助けたいんです」
前日のメールを、ある男子高校生が拡散し、約700人の
総社高校、総社南高校、さらに市外からの高校生も
集まっていたのです。

片岡市長は、このときの心情をこんなふうに語っています。
「彼らの心意気に泣けた。この子たちを抱きしめたいと思った..」

ここから、総社市の復興は始まりました。

総社市はバスを20台チャーターし、高校生たちは被災地域
へ入りました。

市長も一緒に現場に赴くと、市長に気づいた市民か ら
罵声が飛んできました。

「どうしてくれる、こんなになってしまって」 「国道をかさ上げ
してくれと言ったのに」 「もうこんなとこには住めん」

高校生たちは、そうした罵声を浴びせかけてきた人の家にも、
何の迷いもなく入り、泥かきに汗を流しました。泥水を吸った
畳を6人でようやく持ち上げては運び出し、 泥にまみれた
タンスも運び出しました。

泥の中から思い出のアルバムをかき出した高校生もいました。
高校生ボランティアは、次の日も次の日も集まりました。

最初の4日間だけで1700人以上が集まったといわれています。
「何かのきっかけさえあれば、多くの人が行動を起こしてくれる。
“誰かのために何 かをしたい"という人が、こんなにも
たくさんいるなんて」

一通のメールできっかけをつくった光旗さんは、驚きとともに
責任のようなものさえ感じたといいます。

災害対策で奔走する市役所の方たちに、余計な負担をかけ
たのではないか、と。

水害の後、気温は連日30度以上。7月の厳しい日差しと
高い湿度のなか、市役所の 玄関に集まり、バスで現場
に入り、泥かきに明け暮れました。

熱中症の危険もあるなかでの作業でした。

そのときの市長のツイッターです。
『総社市復興に千人の高校生が立ち上がったこと。
凄いこと。彼らに総社市の未来を託せる』

『高校生ボランティアチームの泥んこの頑張りによって、
こうして被災地の瓦礫が整理されました。地域の方々は
感激しています。

泥んこを洗濯してくださるご家族の方、申し訳ございません。
でも、本当にありがとうございます』

夏休みになると、こうした高校生たちの姿を見た中学生や
小学生が、次第に支援の 輪に加わり始めました。

子どもたちが頼もしく変わっていくなかで、大人たちにも
変化が起こり始めました。

「どうしてくれるんだ」と罵声を浴びせていた住民たちが、
「ありがとう」と感謝の言葉を口にするように変わって
いったのです。

「近頃の若い者は」という言葉は、ギリシャの哲学者
プラトンの書にもあるし、エジプトのピラミッドの遺跡にも
書かれているそうです。

現在でもそうだが、年寄りは、いつの時代でも、若者を
「礼儀や挨拶ができない」「本も読まないし勉強もしない
でゲームやマンガばかり」「やる気がない」と「まったく、
なってない」とこき下ろす。

しかし、どの時代であろうと、これからの未来を作っていく
のは若者たちだ。

老人が未来を切り拓く、などということは古今東西
聞いたこともない。

「何か社会の役に立ちたい」と社会参加したと思っている
日本の若者は、アメリカ52.9%、ドイツ52.6%、イギリス45%
と比べて、ダントツに低く、30.2%しかいない、ということも
事実だ。(平成29年の内閣府の調査より)

選挙や政治への関心も薄く、「世のため、人のため」
という人を思いやる気持ちが欠けている、とも言われている。

そして、自分の将来に明るい希望を持つ割合も、
アメリカ91.1%、スウェーデン90.8%、イギリス89.8%と比べて、
61.6%しかない。

つまり、一見すると「しらけている」「熱くならない」「行動しない」
とみられてしまう。

しかし、この総社市の高校生のように、何かのきっかけさえ
あれば、若者たちのエネルギーは爆発する。

若者たちこそ、心に熱いものを持っているのだ。
若者を信じ、若者たちにこの国の未来を託したい。・…