歌:細川たかし
作詞:星野哲郎:作曲:叶弦大
傘の要らない 恋雨が
胸をつきさす 朝の駅
手枕ゆえに 乱れた髪は
櫛を入れずに とっときますと
泣いて微笑った 襟元が
少しくずれた くずれた ああいい女
惚れて女の 花を知り
好いて男の 雪を知る
抱かれていても 季節がずれる
肌の痛みを お酒にまぜて
呑めず こぼしたしみ跡が
少しよごれた よごれた ああいい女
家と庭 家は日本家屋の造りだった。 舅が材料を自ら
選んだらしく、柱は太く、木目を生かしたしっかりとした
住み心地の良い家だった。
玄関も広々としている。居間・客間・台所・各部屋も広い
空間がゆったりとして心地良さを感じた。廊下も広く長く
陽当たりも良く人間の求める要素を満たしていた。
庭も広く植木の松は良く手入れされており、緑豊かな景色は、
日本家屋にふさわしい佇まいである。 春は梅の花が咲き、
鶯が止まり木にして囀る。
夏には、大輪の白百合が誇らしげにシャンと咲き、
秋には色とりどりの秋桜が風に優しくスイングする。
冬には、寒椿が真っ赤な花に真っ白い雪化粧をして冴えを
与える。 そんな風に四季を織りなし、私のレンズに映し
出される世界もまた、素晴らしい。
言い争う事などしない、各々の輝きを放ち生きている。
生命の源を感じ心が癒される。 人々が、花を生けたり
飾るのは生活のあるべき姿であると改めて思えた。
生活の一部として存在し、必要であるのだ。花は、咲く時期
がくれば自然の法則に準じて咲き、やがて、散っていく。
ありのままの姿ゆえ、普遍の美しさと、潔さを兼ね備えている。
そんな風に私も生きてみたい。 庭には池があった。
澄みきった水面下には、何匹もの鯉が生かされていた。
朱色の着物を羽織っているものや、金色の帯を締めたもの
がゆうゆうと泳いでいた。気持ち良さそうな表情をしていた。
時折、水面に口をパクリと突き出す動作は、水面に空気の
風船を描いて見せたが、静かな生き物だと見直した。
鯉とは本来こういう生き物だと再確認した。
人は喋らないと、鯉のようにいられるのだろうか?
互いに話す行為が遮断されたとしたら、口論にならず
お互いを傷つけずにすむのかもしれないと時には言葉なきも
良いのかもしれないと想像していた。
家と庭には恵まれた環境であった。しかし、家の中と、
外の風景とは大分違った。それは言葉を持つものの運命
なのかもしれない。
私の描く理想と現実は重なり合うことはない。
朝、玄関に置かれた何足かの靴を外に出して掃除をしていた。
そこへ舅が来た。
「四角い所を丸く掃いたって奇麗にならないんだぞ。
角をしっかり掃かないとやった事にならないからな。
やり直ししろ」 と、大声で怒鳴った。
「はい」 と、即答した。 舅は、玄関で私の掃除を監視カメラ
のように始終見ていた。
「そうじゃない! サッサッともっと手早くできないのか!」
アドバイスをしてくれているのだと思う事にしたので、
別に何とも思わなかった。
ほぼ毎日指摘され怒鳴られる日課だった。
野菜の切り方・味付け、電話応対、服装、などなどあらゆる
事が、チェックの対象となっていた。
要するに、やる事なす事全てにおいてである。肯定的に認め
ようとする気持ちはいっさいない。 それでも、頑張る! 私。
普通の朝 六時起床。
私は一番先に台所に入った。結婚祝いに友達からもらった、
純白のレースつきのエプロンをかけ、朝食のしたくに
取りかかった。
サラダとハムエッグ・紅鮭・ほうれん草のお浸し・漬け物・納豆
・味付のりとご飯とみそ汁が今朝のメニューだ。
台所のテーブルに四人分の茶碗と汁椀と箸をセットした。
居間にある仏壇と神棚に、お供え物を上げた。
自営業をしているため、当然のように神棚があった。
そこには、小型の神社・宮形の中に氏神札が入っている。
水と塩・榊が飾られ、しめ縄がゆったりと飾られていた。
背伸びをして、そこに上げる水を毎朝とり替えた。
商売繁盛と家内安全を祈願して。
朝食ができたら、まずはじめに伯父に運んだ。伯父は耳が
不自由だったが、毎日規則正しい生活を送っていた。
きちんとした人だった。
私が唯一、平常心で接することができる家族だった。
もう少し本音で言うなら、安全な人だった。
姑と舅もあとから時間差で起きて来た。一番遅いのは夫。
目覚まし時計のアラームをセットしているのだが、役に立った
のを見たことがない。何のための目覚ましなのだろうか?
時間になっても起きて来ないので、私が起こしにいくのだが
一度では起きてこないため、二、三度は部屋へ足を運んだ。
朝の五分は貴重だ。甘えているのだと思うことにした。
一日のスタートは、気分良くありたい。 そう思っていた矢先
のことだった。指摘事項を向けてくる舅がいた。またか…。
心は決して楽しい方向へはいかなかった。
「このみそ汁の豆腐の切り方が揃っていない。きちんと四角を
揃えて切らないと、お客さんが来た時、笑われるからな」
と怒鳴った。
「はい、気をつけます」 と、私はみそ汁の中の白い四角形を
見つめながら、精一杯明るく答えた。
人は環境に順応していく能力が備わっている。はじめは
多少の違和感を感じるが、ここで生きていかねばならない時、
適応する力が発揮される。そうしなければここでは生存不可だ。
私には、今の居場所からいなくなるという選択肢は、この時は
まだなかった。それとは正反対に、一日も早く家風に馴染む
努力をしていこうと意欲的で前向きな気持ちでいた。
フーッと息を吐いた。息を吸い込もうとした次の瞬間、
電話がリリリリンと鳴った。私は急いで受話器を取った。
「どこの浅川さん?」 会社名は名のらなかったので、会社関係
の人ではないのだろう。どこに住んでいるかは不明であった。
しかし、受話器はすでに舅の手中にある。
左手で電話口は塞いであったが、私に質問するより出た方が
早いし、相手も待たせずにスムーズにいくのではないかと、
幾つかの疑問が頭を一周ぐるりとめぐった。
その中で、最善な言葉を選んだ。 「分かりません。
出て下さい」 すると、舅は社長らしい口調で喋った。
「変わりました。お待たせして申し訳ありません。
お世話になっております。はい。そうですか、わざわざ
ありがとうございました」 と、軽く会釈をして電話を切った。
先ほど、豆腐の切り方を指摘した舅と、今受話器を置いた
社長とは、人格が二重に見えた。
すぐに、本性に戻った舅が怒鳴った。 「電話に出たら、どこの
誰かを聞かないと誰だか分かんないからな。あと、もう少し
大きな声でハッキリ喋れ。聞きとれない!」と、
言われてみれば、確かに高齢者は耳が遠くなってくるから、
と納得した。 「はい。分かりました。今後そのように対応します」
と、大きな声でハッキリと答えた。
後から姑に教えられたのだが、同じ名字が四件くらいあるから、
住所かフルネームを聞かないと、誰かを特定できないらしい
のだ。 私は、この家にもこの土地にも慣れるまでは、まだ
時間がかかると思った。
多分、嫁ならば多かれ少なかれ、一度は通らねばならぬ道
なのだ。だとすれば、先ほどの場面はごく普通のこと。
良好な人間関係を築くためには、素直が一番の近道だと
自分自身に言いきかせた。
author:風間 恵子
・・・
父から戦争の話を聞いた。
戦争で父は爆撃機に乗っていた。
「命がけだった」と父は言った。
父の爆撃で 失われた命があるかもしれないと
私が言及すると 父は口ごもった。
戦争など何にも知らない息子に 問いつめられ
父の爆撃機は行き場をなくした。
認知症の母が苦しそうに大声を出した。
「そろそろオムツかなあ」と言って、
その爆撃機は 介護など何にも知らない息子に
見送られ 妻の介護という 命がけの戦争の中に
飛んでいった。
母のオムツを替えて戻ってきた父に
「こうこく」のことなんだけれどと、私は
戦争の話を続けた。
父は恥ずかしそうに「母さんのために
お金を残しとかんといかんし 大変なんだ」
と広告を私に見せた。
広告には 安いインスタント焼きそばと
インスタントコーヒーに赤丸が付けてあった。
父の「皇国」は いつの間にか「広告」に変わって
心の中に生きていた。
死ぬためにではなく 生きるためにである。
太平洋戦争の長期化と戦局の悪化で、その頃東京の大学
に通っていた父も戦争に参加することになった。
雨の降る明治神宮外苑陸上競技場での学徒出陣で、
遠くに東条英機を見た話を父はした。
「国のために死ぬつもりだった」とその時の覚悟を父は
話した。そして、飛行機が墜落し、四体がバラバラになって
死んでいった友人達への思い。人を殺さなければならない
苦痛。自分の命が死にさらされる恐怖。
いろんな思いを父は話しながら、「戦争はいかん。
戦争は絶対やっちゃいかん」とこの言葉でいつも話を
締めくくった。
命をかけ、命を死にさらし、人の死の痛みにも向きあった
父の言葉には、言語に絶する重みがある。
その戦争から40年経って、今度は母の認知症に命がけで
父は向きあうことになる。
「命がけで」とは少々大げさな表現だと思われるだろうが、
そう大げさでもない。その数年前に心臓のバイパス手術を
している父は、心臓の機能が著しく悪く、身体障害者手帳
をもっていた。
ニトログリセリンという発作の薬を携帯しての暮らしだった。
その上、脳血栓で倒れたこともあり、満身創痍の状態での
母の介護だった。
母がアルツハイマー型認知症だと分かったとき、「お母さん
は俺が幸せにする。」と宣言した。そして、「お母さんのため
に残された命を生きる覚悟だ」と父は話した。
学徒出陣したときの、若き日の父の話を思い出した。
父にとっては、介護も命がけの戦いだった。
そう思ったけれど、忙しくて一か月に一回ぐらいしか父と母の
暮らしを見に行けない私には、父の介護の大変さや病気が
進む中の母の辛さなど何一つ分からなかった。
「お父さん、お母さんは病気なんよ、わけの分からんこと
言ってもやさしくしてやらんといかんよ」いつも、電話口で
父に小言ばかり言った。
そんなある日、帰省すると、安いインスタント焼きそばと
インスタントコーヒーを探し当て赤丸が付けてある広告
チラシが、テーブルの上にあった。
それを見つめる私に「少しでも節約して、お母さんの病気を
治す薬をアメリカに買いに行きたい」と恥ずかしそうに
父が言った。
こんな父の姿を見るのは初めてだった。
戦争では死ななかった父だったが、心臓の発作で突然死んだ。
母の介護の無理がたたった。
父の代わりに私が母の世話をした。母に食事をさせた。
2時間もかかる食事に苛ついた。母の徘徊に付き合い
ながら歩いた。
いつまでもいつまでも歩き続ける母を情けなく思いながらも、
いつまでもいつまでも母と一緒に歩いた。
母の体を抱えながらおしめを替えた。何でこんな臭いを
俺がかがなくちゃならないんだと思った。
母の世話をしながら、父はあんな体の状態で、よくこんな
大変なことを一人でやっていたと思った。
父は愚痴一つ言わなかった。父にとって介護は、母という
一人の人を守り、自分も生き抜く孤独な戦いだったのだ。
多くの人を殺し、自分も死ぬ覚悟の戦争とは全く違う
戦いだった。
ベッドに横たわる母の横に静かに座る。母の手を握り、
母を見つめ、母にまなざしを送る。父もこんなふうに手を
取って母と暮らしていたのかと思いをはせる。
死ぬ覚悟ではなく、命に寄り添う覚悟が心の中に力強く
生まれる。「戦争はいかん。戦争は絶対やっちゃいかん」
と言った父が、「母さんの世話はしっかりやり抜け、その
生きるための戦いはやめちゃいかん」と言っている。
心の中のどこか遠くから父の声が聞こえる。 ・・・・
大好きなお母さんへ たけのこ
癌で亡くなってからもう半年が経つんですね。
時間の流れはあっという間です。
なのに、あなたを思い出すたび、涙が止まりません。
私が高校生の頃、乳癌が発覚し、余命2年と言われた
お母さん。仕事も家のことも、私達子供の面倒も、
病気の治療も胸がなくなって、抗がん剤で髪が無く
なった時も弱音を吐かず一生懸命頑張ってくれた
誰よりも優しくて強い人。
でも知ってるんです。
あなたが洗い物をしながらひっそりと泣いてたことを。
高校を卒業してから東京に上京した私は
一番辛い時にそばにいてあげられませんでした。
余命宣告されてから、10年。
容態が悪化して入院したお母さん。
お父さんからは「もう長くない。覚悟しとけ。」とメールが。
兄から送られてきたボイスメッセージには…
泣きながら「⚪︎⚪︎(私)に会いたかった。」と呟く母の声。
私は覚悟しました。急いで地元に帰り、毎日お見舞い
に行きました。
「お母さん、会いにきたよ!!」
「久しぶりに家族全員そろったよ!大丈夫だからね
お母さん。」
「みんないるよ!またお母さんの手料理が食べたいよ」
「料理作ってね!家族旅行も昔みたいにまたしようよ!」
「元気になって。…約束だよ!」……
もう目も開けられず、喋れず、ほとんど寝たきりで動け
ない母。耳だけは最後まで聴こえてたのかな?
かろうじて話せた時、
母が最後に言った言葉は…「生きたい」だった。
まだまだこれからだったよね。
色んなことしたかったよね。
癌と戦いながらあなたは生きました。
余命2年と言われたのに、10年も生きたんです。
すごいよ、お母さん。がんばったね。
病院のベッドの上で家族に見守られながら、
とっても可愛く綺麗にお化粧されたお母さんは
雲一つない快晴な日に、空へ旅立ちました。
先に行ってゆっくり休んで待っててね。
また家族そろったら、天国を旅行しようね。
その前に今年は初盆があるから
お母さんが帰ってくるのを楽しみにしてるね。
またね!・…