貧者の一灯 ブログ

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妄想劇場・森羅万象

2021年06月27日 | 流れ雲のブログ










歌:菅原洋一
作詞:永六輔:作曲:中村八大

あなたのまつげが ふるえてとじて
なみだのしずくが つたっておちて
私に芽生えた あなたへの愛

芽生えてひよわな 愛の心を
やさしく やさしく 育てる月日
やがては私を 抱きしめる愛

その愛が 私を育てた愛が
今は私を苦しめ 悩ませるの












骨髄移植に希望を託したが… ゴーシェ病の家族の集まりで
勉強会に参加し、そこでゴーシェ病には骨髄移植という
治療法があると知りました。

ゴーシェ病は、体のすべての細胞で、糖脂質を分解する
酵素を作ることができません。

しかし、他人から骨髄の移植を受ければ、骨髄細胞は無限
に増えていき、それらが酵素を作ってくれるというわけです。

両親は骨髄移植について主治医に相談しました。
移植を成功させるためには、骨髄の提供者と凌雅君の
白血球の型が一致していなければなりません。

その可能性が最も高いのは凌雅君の姉です。
その確率は4分の1です。

もし姉との型が不一致であれば、骨髄バンクから探さ
なければならなくなります。その確率は、数万から数百万分
の一に下がります。

病院で姉の白血球の型を調べて見ると、幸運にも凌雅君
と一致していました。

両親は思いました。「これは神様が移植しろと言っているに
違いない」。特に父親は、「ついに病気が治る時が来た」
とさえ思いました。

しかし、主治医は、骨髄移植を行うことに対し、首を縦に
振りませんでした。

移植をする前には、大量の抗がん剤投与と、全身への
放射線の照射をし、骨髄細胞を全滅させることで、骨髄を
空から にする必要があるのです。

それは、場合によっては感染症で命を失いかねないことを
意味します。また、移植が成功して酵素の補充療法が不要
になったとしても、すでに重い障害がある脳は元には戻ら
ないのです。

気管切開も、呼吸器のケアを自宅ですることも、両親が医師
にお願いして実現させたことです。骨髄移植についても、
危険を伴うのは覚悟の上でした。

ゴーシェ病という恐ろしい病気と対決するために必要だと考え、
希望を医師に伝えたのです。しかし今度は、医師から説得
される形で骨髄移植を断念しました。
一縷いちる の望みが、絶たれました。


4人部屋での出会いが家族を変えた

治らない病気。そのことを父親は、心の底から痛感させられ
ました。リハビリでも良くならない。治療法もない。

両親は完全に諦めざるを得ませんでした。しかし、それは
自暴自棄になるということではありませんでした。

凌雅君の姉は幼稚園に入ったばかりです。姉をしっかりと
育てていくという現実的な目標が両親にはありました。また、
凌雅君のケアもやっていかなければなりません。

居直るような気持ちにはなれませんでした。 母親は、
凌雅君が生まれてきた意味を、何度も心に問いました。

答えが見つからないうちに、やがて自分たち家族は孤独では
ないことに気付きます。

凌雅君は体調を崩すと、こども病院の4人部屋に入院
しました。同じ病室には、3人の重症児が入院していました。
母親たちは、明るく 逞たくま しく、力強く生きていました。

子どもたちは、やがて次々に命を落とします。
凌雅君の母親は、そのたびに葬儀に足を運び、
「子どもが死ぬなんてあってはならない」と思いました。

子を失った母親が声をかけてきました。
「うちの子の分まで、凌雅君をかわいがってね。
応援しているよ」。

凌雅君の母親は、「絶対に生き抜こう」と思いました。
自分たちが母親たちからもらった勇気を、 次に入院して
来る子どもたちに伝えなくてはならない。

命の 松明たいまつ をつなげることが、自分たち家族の
役割であり、凌雅が生まれてきた意味なんだと。

医学の常識を越えて 凌雅君が2歳を過ぎた頃、両親は
苦しみから解放されつつありました。わが子の病気を
受容したと言ってもいいのかもしれません。

もちろん、完全に吹っ切れたわけではありません。
その後も、 くり返し悲しみは襲ってきました。

そういう時は、亡くなっていった子どもたちの顔を瞼まぶた
の裏に思い浮かべ、その子たちの分まで精一杯生きよう
と心に誓いました。

凌雅君は現在、中学3年生になっています。
短命とされる難病と闘った彼と両親は、医学の常識を
覆したのです。・…

author:松永正訓(小児外科医)












遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいました。

「あそこでみんな死んでいったんだ......」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

1944年9月 日本が統治していたパラオのペリリュー島で
日米対戦が勃発。

日本兵は果敢に戦った…
戦車10倍・重火器100倍・航空機200倍という
圧倒的戦力差のあるアメリカ。

2,3日もあれば戦いに決着が着くだろうと言われた。
しかし、日本兵は決して怯(ひる)まず持久戦に持ち込み、
73日にもわたる死闘を繰り広げた。

しかし、島を守備していた、日本兵約1万の死によって、
「桜の花のごとく散り、ペリリュー島の日本兵の全滅」
を意味する電報が本部に送られた…

これにより、ペリリュー島での日米決戦は敗北に終わった‥
しかし、このペリリュー島での決戦には、非常に不可解な
点があった…

それは、アメリカの砲爆撃や激しい空爆の嵐が島に降り
注いだにも関わらず、島に住んでいた1,000名近い
現地民に「ただの1人も死者・負傷者が出なかった」
ことである。


なぜ、島民は一人も死亡しなかったのか?

太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が
作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。

日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったり
したという。


パラオは東南アジア諸国への中継地点だった。

しかし、1944年なると、戦況は日本に不利となり、いつ米軍
が上陸してもおかしくない状況になった。

島民たちは「日本を尊敬」していた。
だから、大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意をした。

島民の代表数人は日本の守備隊長のいる指揮所を訪れた。
守備隊長であった中川州男(なかがわくにお)
は温厚な人物であった。

だから、きっと自分達島民の頼みを喜んで受け入れて
くれるに違いない。そう確信していた。

そして、自分達も一緒に戦わせて欲しいと言う確固たる
意思を伝えた。


一同の話が終わると、場が沈黙に包まれた‥

しばしの沈黙の後、隊長は突然激高し、このように叫んだ。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

彼らは一瞬、何か起こったのかわからなくなり、
自らの耳を疑った。
日本人は仲間だと思っていたのに・・・。

「一緒に肩を組み、歌を唄った日本兵たちの思いは
見せかけだったのか?」

「やはり、こいつらは目分たちを見下していたのだ」
指揮所を出てからの帰り道、島民は裏切られた想いで、
みな悔し涙を流した・・・

船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。
島民達は、重い足取りで船に乗り込んだ。

しかし、船が島を離れた瞬間 日本兵全員が浜に走り
出てきた。そしてかつて一緒に歌った日本の歌を歌いながら、
手を振って彼らを見送った。

先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、島民達は悟った。

あの隊長の言葉は、自分達を救うためのものだった
のだと・・・。

島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、
涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振り返した。

日本兵は現地の島民が戦火に巻き込まれないように
別の島へ疎開させたことにより、兵士が全滅するほどの
激しい戦いがあったにも関わらず、現地民には戦死者が
一人もでなかったのである。

なぜ自分たちの島から避難しないといけないのか
分からなかった。

当時、日本兵に助けてもらった島民はこのように
述べている。

「日本軍は、ペリリュー島民を全員、疎開させることで
保護してくれた。だから島民に死傷者は出なかった。
日本軍への感謝は何年たっても忘れない」・・・

2年半ほどして島に戻り、草木がなく石だけの島を見て、
もし、残っていたら死んでいたと思った。家族で日本軍
に感謝した。アマレイ・ニルゲサンさん(当時9歳)

終戦後の1947年、島に戻った島民は多くの
日本兵の亡骸を見て涙した…

彼らは、島中に散らばる日本兵の
遺体ひとつひとつをきれいに片付け、埋葬した。

また島には戦死した1万人の日本兵を祀る
「西太平洋戦没者の碑」が造られた。


誰にだってあるんだよ、人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、
言えば愚痴になるから。

時は絶えず流れ、
 今、微笑む花も、明日には枯れる・…








全室から海が見渡せる設計。贅を尽くした内装。
足を運んだ人は、誰もが「素晴らしい」と歓声を上げる。

しかしバブル崩壊後、経営不振が続き、十年前にホテルは
人手に渡った。

新経営陣も経営を軌道に乗せるべく手を尽くしたが、
赤字は年々嵩む一方となった。

仙台で小さなエステを経営していた今野華都子さんに
白羽の矢が立ったのは、そんな時だった。

平成十九年、今野さんは現オーナーに請われてホテルの
社長に就任した。

今野さんを迎えたのは社員百五十人の冷たい、あるいは
反抗的な視線だった。

それまで何人も社長がきては辞めている。
また同じ繰り返し、という雰囲気だった。

今野さんがまず始めたのは、社員一人ひとりの名を呼び、
挨拶することだった。また、全員と面接し、要望や不満を
聞いていった。数か月が過ぎた。

今野さんは全社員を一堂に集め、言った。

「みんながここで働いているのは、私のためでも会社の
ためでもない。大事な人生の時間をこのホテルで生きる、
と 自分で決めたからだよね。

また、会社が悪くなったとみんなが思っている不満や要望は、
私や経営陣が解決することではなく、実は自分たちが
解決しなければならない問題です」

そして、今野さんは二つの課題を全員に考えさせた。

「自分は人間としてどう生きたいのか」
「自分がどう働けば素晴らしい会社になるのか」

ホテルが変わり始めたのはそれからである。
自分の担当以外はやらないという態度だった社員が、
状況に応じて他部門の仕事を積極的に手伝うように
なっていった。

就任二年半、ホテルは経営利益が出るようになった。
全社員の意識の改革が瀕死のホテルをよみがえらせ
たのである。

今野さんが折に触れ社員に伝えた
「自分を育てる三つのプロセス」というのがある。

一、笑顔
二、ハイと肯定的な返事ができること
三、人の話を肯きながら聞くこと

仕事を受け入れるからこそ自分の能力が出てくる
のだから、仕事を頼まれたらハイと受け入れて
やってみよう。

「できません」「やれません」と言ったら、
そこですべての可能性の扉が閉まる。

そして、教えてくれる人の話を肯きながら聞くのが、
自分を育てていく何よりの道なのである。
今野さんはそう言う。・・・

この三つはそのまま、
人生を発展繁栄させるプロセスである。

すべての繁栄は人から始まる。
ひとりの人間が自らの人生を発展繁栄させていくことが、
そのまま組織の発展繁栄に繋がる。しかも、その
発展繁栄の法則は極めてシンプルである。

今野さんの事例はそのことを私たちに教えてくれる。

弘法大師空海の言葉がある。
「物の興廃は必ず人に由る 人の昇沈は定めて道にあり」