淡路島に来ている。
何もない広大な土地と、仕事に追われることのない開放感から、半年前に北海道を旅した時のことを思い出した。
寒さに震えながら、満点の星空を眺めた時のことだ。
その時に少し書きかけていた文章を無造作に並び立ててみる。
好きなことがあって、嫌いなことがある。
聞きたい歌があって、聞きたくない歌がある。
心地よい風があって、不快な風がある。
なりたい自分がいて、そうでない自分がいる。
落ち着く街があって、騒々しい街がある。
会いたい人がいて、それほど会いたくない人がいる。
全部が全部、思い通りにはならない世の中だけど、ネガティブなことほど、あまり心に残らない。
不快な風も、騒動しい街も、最低なテストの結果も、大抵は忘れてしまう。
そういう意味で人間はよくできていると思う。
けれども、実はポジティブなこともネガティブなことと同じように、大抵は忘れてしまう気がするのだ。
北海道を旅していて、思った。
思い出は、人と共有して初めて思い出になるのだと。
音、匂い、質感、あるいは感情。
その時過ごした濃密な時間が、ふとした瞬間に蘇って、人生の一部となる。
そういうのを多分、世間では人生の充実というのだろう。
もちろん、そんな素晴らしいものはなかなか手に入らない。
むしろ色んな人と関われば、それだけ嫌な思いや悲しい感情を積み重ねることの方が多くなる。
逆に、ひとり遊びの充実やトラブルは話のネタになるし、精神的にも強くなれる。それはそれで人に評価されたり、興味を持ってもらったりするから、大切だ。
だから、一人で有意義な時間を過ごすことに対しては何の抵抗もない。
人と寄り添って生きる意味ってなんだろう、と時々考えてしまう。
僕は多分、自分と向き合う時間が人よりも多くて、それを許してくれる家族がいて、気の合う仲間がそれなりにいて、今現在心配事があまりない。
おそらく長い目で見ても楽しく幸せに生きていく自信はある。
やりたいことがいくらでも湧き出てくる気がする。
もちろん人並みに不安になったり、寂しかったりすることはあるけれど、そういったものとの付き合い方にあまりにも慣れすぎてしまった。
「強がる強さ」みたいな項目で序列をつけるなら、結構なトップエリートに属するのかもしれない。
もちろん人は一人で生きていけるわけではないけれど、自分の責任で生きる限りにおいては、何か一つ山を越えたような感覚がある。
でも、グチャグチャグチャグチャ考えて、三週ぐらい回って、やっぱり充実とか幸せって、人といてナンボじゃないかと思うのだ。
北の大地に行って、人間活動が生み出した余計なものを全部取っぱらって、ボーっとしてみて、やっぱりそうだと思ったのだ。
すごく稚拙な表現で恥ずかしけれど、なんだかんだでやっぱり人肌が恋しい。
寒いからとか、広いからとか、心が貧しいからとか、ニートだからというわけではなく、フラットに考えて、人肌が恋しい。
だから、これからも、多少なりとも無理をして、それなりに息抜きをして、人間らしい活動を継続していくんだと思う。
斜には構えるし、違うと思ったことははっきりと口にするし、相変わらず5人以上いる飲み会には参加しないだろうけれど、馬鹿にしていたり、嫌悪しているモノに対しても、ものは試しと言いながら、一度は接してみようと思う。
いいことを書いているようにも思うし、内容のない自意識過剰な文章のようにも思う。
一つ言えることは、ここに書かれていることは、自分の中でまだコアな部分として残り続けているようだ、ということだ。
むしろ、この半年でさらにストレスや不満がなくなり、自由度が高まり、人肌が恋しくなった。
自分の弱さを少しは人に見せられるようになったし、人の弱さにもちょっとだけ寄り添うことができるようになった。
まだまだ足りていない部分は沢山あるけれど、自分の進むべきレールが薄っすらと見え始め、半年前に比べて着実にその方向に歩を進目ている感覚はある。
そして、最近ふと気づいたことがある。
好きな人はいるけど、嫌いな人はあまりいない。
それが今の僕だ。
Q.E.D.
何もない広大な土地と、仕事に追われることのない開放感から、半年前に北海道を旅した時のことを思い出した。
寒さに震えながら、満点の星空を眺めた時のことだ。
その時に少し書きかけていた文章を無造作に並び立ててみる。
好きなことがあって、嫌いなことがある。
聞きたい歌があって、聞きたくない歌がある。
心地よい風があって、不快な風がある。
なりたい自分がいて、そうでない自分がいる。
落ち着く街があって、騒々しい街がある。
会いたい人がいて、それほど会いたくない人がいる。
全部が全部、思い通りにはならない世の中だけど、ネガティブなことほど、あまり心に残らない。
不快な風も、騒動しい街も、最低なテストの結果も、大抵は忘れてしまう。
そういう意味で人間はよくできていると思う。
けれども、実はポジティブなこともネガティブなことと同じように、大抵は忘れてしまう気がするのだ。
北海道を旅していて、思った。
思い出は、人と共有して初めて思い出になるのだと。
音、匂い、質感、あるいは感情。
その時過ごした濃密な時間が、ふとした瞬間に蘇って、人生の一部となる。
そういうのを多分、世間では人生の充実というのだろう。
もちろん、そんな素晴らしいものはなかなか手に入らない。
むしろ色んな人と関われば、それだけ嫌な思いや悲しい感情を積み重ねることの方が多くなる。
逆に、ひとり遊びの充実やトラブルは話のネタになるし、精神的にも強くなれる。それはそれで人に評価されたり、興味を持ってもらったりするから、大切だ。
だから、一人で有意義な時間を過ごすことに対しては何の抵抗もない。
人と寄り添って生きる意味ってなんだろう、と時々考えてしまう。
僕は多分、自分と向き合う時間が人よりも多くて、それを許してくれる家族がいて、気の合う仲間がそれなりにいて、今現在心配事があまりない。
おそらく長い目で見ても楽しく幸せに生きていく自信はある。
やりたいことがいくらでも湧き出てくる気がする。
もちろん人並みに不安になったり、寂しかったりすることはあるけれど、そういったものとの付き合い方にあまりにも慣れすぎてしまった。
「強がる強さ」みたいな項目で序列をつけるなら、結構なトップエリートに属するのかもしれない。
もちろん人は一人で生きていけるわけではないけれど、自分の責任で生きる限りにおいては、何か一つ山を越えたような感覚がある。
でも、グチャグチャグチャグチャ考えて、三週ぐらい回って、やっぱり充実とか幸せって、人といてナンボじゃないかと思うのだ。
北の大地に行って、人間活動が生み出した余計なものを全部取っぱらって、ボーっとしてみて、やっぱりそうだと思ったのだ。
すごく稚拙な表現で恥ずかしけれど、なんだかんだでやっぱり人肌が恋しい。
寒いからとか、広いからとか、心が貧しいからとか、ニートだからというわけではなく、フラットに考えて、人肌が恋しい。
だから、これからも、多少なりとも無理をして、それなりに息抜きをして、人間らしい活動を継続していくんだと思う。
斜には構えるし、違うと思ったことははっきりと口にするし、相変わらず5人以上いる飲み会には参加しないだろうけれど、馬鹿にしていたり、嫌悪しているモノに対しても、ものは試しと言いながら、一度は接してみようと思う。
いいことを書いているようにも思うし、内容のない自意識過剰な文章のようにも思う。
一つ言えることは、ここに書かれていることは、自分の中でまだコアな部分として残り続けているようだ、ということだ。
むしろ、この半年でさらにストレスや不満がなくなり、自由度が高まり、人肌が恋しくなった。
自分の弱さを少しは人に見せられるようになったし、人の弱さにもちょっとだけ寄り添うことができるようになった。
まだまだ足りていない部分は沢山あるけれど、自分の進むべきレールが薄っすらと見え始め、半年前に比べて着実にその方向に歩を進目ている感覚はある。
そして、最近ふと気づいたことがある。
好きな人はいるけど、嫌いな人はあまりいない。
それが今の僕だ。
Q.E.D.
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