1.矢上宿から日見宿
直ぐに、右側に県の天然記念物に指定されてい「大楠」を見つけた。そこから数分ほど歩行したところに昔、頭役以下の役人を置き、長崎に向かう武士、留学生、商人等旅人の往来を厳重に監視した「番所跡」があった。
「番所橋」を渡り、これより一里半先にある日見宿へ向かう。「濱大王(神社)」の前を通過し、「切り通し」の坂を登りつめた所に、「国境石」を見つけた。現在は消滅している「腹切坂」を下り、一旦34号線を横切り、更に坂を下る。石橋を渡った所に、駕籠かき、人足、旅人が休憩をとる「継ぎ場跡」があった。直ぐに、「日見宿」の石碑も見つかった。
2.日見宿から蛍茶屋まで
これより登り坂一里、下り坂一里で「蛍茶屋」に到達する。難所の「日見峠」越えである。
勾配のきつい坂が続く。12月15日というのにすごい汗が吹き出る。セーターを脱ぎポロシャツ姿になる。登り初めて40分位で34号線と交差する「芒塚」に着く。車であればここが峠となり、「日見トンネル」を通り、「蛍茶屋」へと下って行ける。
しかし、旧道はこのトンネルの上の「自然道」である。旧道の入り口に「街道標識パネル」を見つけた。ここから又厳しい自然道の登り坂となった。耽々と登る、頂上に「(公儀)の関所跡」があった。
等高線から見ると、約250メートル位の高さにあると思われた。又、この峠越えは婦女子にとっては大変なものであったろうと思われた。いよいよ、これから下りになると思うと元気が出てきた。一気に峠を下ろうと足早になった。
右手に変わった名前の「地震神社」を見て下って行く。しばらくすると、左手に「茶屋跡」の標識があり、これから急勾配の石段の下りとなった。「日見峠路の標識」にも出会い間違いなく旧道を通過していることが確認できた。
それから「新茶屋跡」を左手に見て更に下って行くと、34号線とぶつかった。これを横切り旧道を更に下ると、右手に長崎の水瓶である「本河内貯水場」があった。更に下り、矢上宿を出て約2時間半後の12時50分に「蛍茶屋」に到着した。
3.蛍茶屋から出島
「蛍茶屋」の横にある「一の瀬橋」を渡ると長崎市街である。「古橋」を渡り「シーボルト通り」を進む。右手山側にシーボルトが開いた蘭学の「鳴滝塾」がある筈だが先を急ぐので立ち寄らなかった。「シーボルト通り」を通過中に、おいしそうな「ちゃんぽん屋」の看板を見つけたので、立寄ることにし遅い昼食をとった。さすが本場ものの「ちゃんぽん」である。久しぶりの「おいしさ」を味わった。
20分程度で「長崎奉行所跡地」に着く予定なので30分ほどの休憩をとった。
「玉屋」デパートの裏通りを抜けると、右側に「諏訪神社」の鳥居と石段が見えてきた。諏訪神社の前を通過し、10分ほど直進し右手に曲がった所に「県立美術館」がある。その右横に、「長崎奉行所、立山役所跡」の石碑を見つけることが出来た。
直ぐ近くには「英語伝習所跡」、「長崎会所跡」も見られた。英語伝習所は、ペリー来航後、それまでの蘭語から英語の必要性が生じ、英人フレッチェル等を教授とする伝習所が設立されたとある。又、長崎会所は、幕府における海外貿易の事務を統括する役所であったそうだ。主要な役所が奉行所廻りに配置されていたようだ。
「桜町」を通り、「長崎奉行所西役所」があった県庁を目指す。途中、朱印船貿易商、後に長崎代官となった「末次平蔵宅跡」、「唐通事会所跡」を見つけた。唐通事会所は、中国貿易で中国語の通訳をする役人の事務所であったそうだ。
県庁を左手に見て坂を下った左側に「出島」が見える。時計を見ると14時30分を指していた。 矢上宿を出て約4時間で到着したことになる。「日見峠」の難所越えでやっと「出島」に着いた。
4.出島
以前は出島跡の扇型の石垣しか無かったが、今はびっしりと建物・構築物が復元されているではないか。疲れも吹き飛び、早速、内の見学に回る。
一番蔵、二番蔵、一番船頭部屋、カピタン部屋、ヘトル部屋、料理部屋等昔のままのレイアウトで
復元されているようだ。隣接するオランダ商館跡にも足を運び、おおよそ1時間程度、見学した。
入場料は無料であり、「さすがは、観光都市長崎である」と感じいった。
10/15長崎街道紀行-14日目(矢上宿~長崎出島)