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10/14長崎街道紀行:13日目(永昌宿から矢上宿 2011.12.08)

2023-10-14 15:32:49 | 旅日記

1.永昌宿から貝津町

駅前に降り立ち、西の空を見ると、少し青空が覗いているので、傘なしで歩けそうだと思うと、勇気が漲って来た。万歩計をリセットしようとベルトを見たが、慌てて家を出たため、万歩計を忘れていることに気づいた。駅前の旧道を歩き、しばらくして右に曲がり、34号線を横切り、「御館山」の麓を左側に廻りこんだ所に[小船越」ヘ抜ける「街道入口」を見つけた。それから20分ほど、道幅の狭い旧道を「御館山」をぐるりと回るように歩行する。
 長崎本線の架橋、34号線の歩道橋を渡り「小船越町」ヘ入る。さらに、「県立農業大学」の南側を旧道が走っており、10分ほど進むと「島原往還」との分岐に出合った。歩行ルートに間違いない事を確信した。それからすぐに「道祖元(さやごぜん)」が見つかった。そばの東大川にかかる「佐代姫橋」を渡り「貝津町」に入る。ここで、道を間違い、「創生館高校」の所まで来てしまった。

 

2.貝津町から(井樋ノ尾峠越え)古賀へ

茶店で昼食を取り、再出発したのが、14時であった。(約40分のロス)「諫早ソニー工場」を左手に見て、「若葉町」に入る。それから、自然道の「赤松坂」を越え、「久山」の「旧茶屋跡」に出る。かなりの勾配がある坂を10分程登り少し平坦な道になったので「やれ、やれ」と思ったところ、「井樋ノ尾峠」ヘの標識があり、又、坂登りかと唖然とする。
 耽々と登って行くと標高150メートルの所に「駕籠立場跡」があった。時計を見ると、既に15時を指していた。まだ坂道は続いている。暗い「椎の木坂」を登りつめた所で、遠景を眺望できる場所が見つかった。長崎国際(喜々津CC)が随分下に見える。 プレーしている姿が芥子粒のように見える。
 やっと下り坂になり、下っていくと「領境石」に出合った。「これより東は佐嘉領なり」と書いてあるらしい。そこから、20分ほど下って行くと、「藤棚茶屋跡」に着いた。本には「永昌」から3里の所にあると書いてある。(この茶屋の主は、丸山の遊女、半太夫であったそうである)又傍に、有名な「古賀人形」の工房もあり、昔、旅人たちを楽しませた「茶屋」のようであった

3.古賀より矢上宿

矢上宿までの距離は後、一里弱である。日も暮れかかったので、足早に歩く。キリシタンのお墓がある「福瑞寺」下の旧道を耽々と歩く。「小船越町」以来、ずっと旧道が残っている。このままの形で残して欲しいものだ。このあたりは、昔、村人全員がキリシタンで5つもの天主堂があったという。  幕府の禁教令により、激しい弾圧が加えられ「福瑞寺」が建立され、すべての者が、門徒にならなければならなかったという。又、「福瑞寺」の住職が京都の伏見人形に学び、近くの瀬古焼きの手法を使ってこの地に広めたいというのが先述の「古賀人形」の由来であるそうだ。 
 又、「領境石」に出合った。その隣に「役の行者神社」があり、時計をみると16時15分を指していた。それから、20分ほどで、昭和57年7月に氾濫で大水害を起こした「八郎川」の橋を渡り、「教宗寺」に着いた。(矢上宿の入り口にある「教宗寺」は、慶長12年開山の古いお寺で、江戸参府のために早朝、長崎をたったシーボルト一行が昼食をとった寺で有名だそうである


 いよいよ、長崎への行程も後1日を残すのみとなった。帰りの電車では、満足感で心地良く眠ることが出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

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