1.黒崎から八幡:高見まで
自宅より、バス・電車を乗り継ぎ10時30分に「黒崎:藤田銀天街」端にある「人馬継所跡」に、到着、早速歩き始める。(人馬継所とは、問屋場とも言い、輸送を担当 する宿場の主要設備であり、参勤交代に必要な人馬の手配、飛脚が運ぶ荷物等も取扱った所 だそうだ)
JR鹿児島本線の踏み切りを渡り、100メートル程歩いた所に「東構口跡」があった。(構口とは、宿場の入口と出口に設けられた門塀だそうだ)
旧道は紅梅1丁目交差点で3号線と一緒になり、しばらく、車を見ての歩行となった。桃園2丁目交差点より、旧道が残っており、エクレール桃園公園のところに、「一里塚跡」があった。「真照寺」前を通過し、「市立八幡病院」の裏にある旧道を進み、「市立八幡図書館」の玄関横に「国境石」があるのを見つけた。ひとつの石碑には、「筑前国」、もうひとつには、「東豊前国」と彫られているようだ。要するに、この地点が「黒田藩」と「小笠原藩」との国境であったと思われた。この地点で時計を見ると11時20分を指していた。
(「市立八幡図書館」の右斜め前には走っている細い道が旧道であり、昔は西本町一丁目交差点から、JR鹿児島線より東田側に入り、再び、中央町から出て、を大蔵に向けて高炉台公園の下を走っていたらしい。)
大蔵より再び山側に入り、「高見神社」の前を通り、「六条橋」付近から「東鉄町」に入る。旧道の証拠に、神社の前に「国境石」が残っていた。 (これより西、筑前国と彫られているようだ。)
(近くにある大蔵寮で約1年間生活したのにも拘わらず、国境石の存在については、全く知らなかった。恥ずかしい限りであった。)
2.八幡:高見から小倉:常盤橋まで
東鉄町、荒生田、茶屋町、金鶏町と細い旧道が続いている。八幡東区、小倉北区間に昔のままの街道が残っていることに感動した。このまま残して欲しいものだ。「九州歯科大」の裏手にある「泉台小学校」を通過したところに、「水かけ地蔵」を見つけた。石碑には「長崎行道跡」と彫られている。水かけ地蔵には、二つの言い伝えがある。
一つは、1500年前から、存在する湧き清水の泉であり、神功皇后が新羅出兵の途中、立ち寄ってお飲みになった。と言う言い伝えがあり、「皇后水」と言われてきた。 もう一つは、弘法大師が唐から帰国し巡回の時、改めて、旅人の憩いの水とされた。このため、「弘法の水」とも言われてきた。
しばらくして、「清水3丁目」の交差点に出た。3号線を横切り、旧道はまだ続いている。「清水小学校」の校門横に「長崎街道説明パネル」があるのを見つけた。
「善龍寺」前を通過した所で旧道が消滅した。「福岡地方検察庁・小倉支部」裏手の所である。ここのあたりに「清水口」があった?と地図に記されていた。
小倉西郵便局裏に「至津口跡」があり都市高速の下を「田町」に向かって旧道が走っているようだ。
「田町」に入って、中華料理店を見つけたので、昼食をとる事にした。約40分の休憩をとり、再出発した。「心光寺」の前を通過し、大門で再度「魚町」へ向かう国道を横切り、旧道に入り、古い町並みの「室町」を直進すると、遠くに「常盤橋」が見えてきた。「常盤橋」を渡った途端、「遂にやった」と胸が熱くなった。
遂に小倉―長崎間、約57里(228k)を歩き通せた。万歳!!
10/16長崎街道紀行-15日目(黒崎宿~小倉常盤橋)
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