○秋月:庄屋橋から弥永の道標まで
野鳥川に架かる「庄屋橋」を渡ると直ぐに「夫婦岩」がありました。この場所で野鳥川が小石原川と合流し、急流となる場所で、大石二個を置いて急流を防いだところから、この名前が起ったようです。
続いて、「分岐の道標」に出会いました。左側は甘木方面、右側は松崎方面と彫られていました。しばらく進みますと、「老松神社」「大己貴神社」がありました。ここを通過し進みますと「弥長の道標」に出会いました。右側は博多方面、左側 は松崎方面と有ります。
○夫婦岩
○追分
○老松神社
○大巳貴神社
○弥永の道標
○弥永の道標から松崎宿北構口まで
左側の道を直進し「草場川」を渡ってしばらく歩くと、「高野神社」がありました。「野町宿」に着いたようです。本陣跡等の遺構はありませんが、道路の左側に立派な「野町宿記念碑」が立っていました。
○高野神社
○野町宿
594号線をしばらく往くと500号線と合流しました。約1時間の歩行後、松崎宿へ道の分岐がありました。左側の道を進んでしばらくすると、松崎宿の「北構口」がありました。保存状態も良く、整備されているようです。延べ五日を懸けてやっと松崎宿へ到着です。
帰りはタクシーで「JR基山駅」へ向かい、博多経由で「JR折尾駅」への帰途となりました。
○松崎宿
松崎宿は久留米領内で一番北にあり、国境に近い重要な宿場でした。特に北構口は、筑前国への出入口とも言えることから、重視されていたようです。ここから北へ進むと、筑前国山家宿(やまえしゅく)に至ります。道の両側に縦横二間四方(約4m)、高さ一間(約2m)の石垣が築かれ、隣接した場所には番所小屋が置かれていました。北構口を入ってすぐのところには、枡形と呼ばれる構造が残っています。これは、道をわざと直角に曲げ、敵が侵入してきたときに容易に宿場内を通り抜けられないようにしたものです。
お詫び
六日目の「松崎宿」から「府中宿(久留米宿)」の歩行記録、写真を喪失していました。ディスクに保存する前にデータを消したようです。
残念ながら、松崎宿到着をもって、秋月街道紀行アルバムを終了させて頂きます。
11/01秋月街道紀行-5日目(秋月宿~松埼宿)
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